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デヴィッド・バーンがSpotifyと共同で定期的にバーンのお気に入りセレクト曲を紹介する企画があります。

この企画は好きで、毎度興味深いのはデヴィッド・バーンというアーティストを形成する断片の集積みたく感じられて、その‘色’に惹かれるある考え方に気づきます。
それは、ジャンル不能というべきカオスやアブストラクト(抽象的)な世界観、そうした表現媒体から体現しているコンテンツへの憧憬と好感です。

NHKFMの『洋楽グロリアスデイズ』のDJを務めるロックバンド“Great3”のリーダー片寄明人氏はGreat3を「ガレージバンドがAORをやっている感じ」と評していますが、この相反するジャンルを整合性つけていく感覚にも共通する実験的な捉え方、ある種のオリジナリティを象っていく方向性への共感と言えるかもしれません。

テクノロジーの進化を逆手にとって、ポップについての解釈も多様化されています。個人的にはそれは良いことだと思う反面、世代ごとのクローズド文化がかなり特化されてきたと思う点もあります。温故知新からの成立が若干怪しい趣きになっている懸念です。

そこで、デヴィッド・バーンの系譜に連なるアーティスト群には市場概念は後付けで良く、自分がやりたい実験精神が衰えないことの方が大事でそれが枯れたら引退すれば良しという割り切れる自信が垣間見えます。
この自信の根拠のもとには技術は当然あっての事であるのは言うまでもありませんが、私は純粋性ではないかと思っています。この純粋性の変容の仕方によって自己表現は様々に表れていくものだと。

よく行動が大事と言われて久しいですが、勿論その通りだと思う反面、人によっては純粋性の保ち方によってモチベーションの問題も生じていく事もあり得て、テクノロジーの進化の中で対人をリアルに伴わなくても、共感できるコンテンツ作成はケースバイケースによりけりでも可能性は尊重できる時代になったと考えます。

純粋性との折り合いが、表現の世界では非常に重要なのです。
そこは自分自身を支えていく軸みたいな思想と見て取れます。
とは言え、私に置き換えると様々趣味の分野については共通言語をもたれる方々とは会って話し合いたいクチなので、表現とコミュニケートは似て非なるものでしょうか。

デヴィッド・バーンのセレクトリストを聴きながら思い巡らします。

【インフォメーション】
今月30日(土)下関生涯学習センター・海のホールで開催される『サルヴァトーレ・スパノ&峰松佳乃子』ジョイントコンサート告知PVを作成しました。
撮影等cineposがお手伝いいたします。

どうぞ秋の入口、ご鑑賞にお越しください。



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