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問答有用ークレクレ君からの脱却ー

 17世紀のロンドンのコーヒーハウス。フランス革命前夜のパリのカフェや1920年代のモンパルナス。イタリアのバール文化。昨今のオシャレなカフェには感じ無い魅力。写真から溢れんばかりの当時の空気。なぜ人は、数十年、数百年も前のお店に惹かれるのでしょうか。

 思考を促すシステム

 コーヒーハウスやカフェは、近代社会において、重要な役割を果たしています。インテリ層の知識人や文化人から一般市民まで、階級の垣根を越えて誰もがコーヒー代を払えば入店することができ、そこで政治、文学、演劇、ファッションや日頃の愚痴など多種多様な雑談に、コーヒーカップを片手に花を咲かせる社交場として親しまれていたようです。

 また様々な人が混じり合うことで、情報収集の場所としての機能も持ち、そこからジャーナリズムが形成されたり、政治にも影響を及ぼす思想が雑談の中から生まれました。会話することでお互いの情報や知識をシェアして自分たちの思考を高め合っていく。ただの飲食店だけでなく情報と人のプラットフォームとして、その後の社会変革の拠点として、コーヒーハウスやカフェは思考を促すシステムだったと言うこともできます。

情報の坩堝化したインターネットの功罪

 あの時代カフェやBarの「情報収集」の機能は、現代ではインターネットに取って代わられています。外に出向く必要などなく、ググればすぐに世界中の情報が瞬時に手に入ります。科学技術、情報技術こそが人類を進化させるというシリコンバレー的思想によりぼくたちの生活は豊かになったのは確かです。しかし、人類が進歩したかというと大風呂敷を広げてYESとは言えないのではないでしょうか。むしろ、その逆になっていると言ってもいい。情報革命の落とし穴は、ネット上に自分の抱えている疑問や問題を解決を満たす答えが見つからなかった場合です。

 例えば、ジン・トニックの作り方は、検索すれば無限のレシピや解説を見つけることができます。最近では、トップクラスのバーテンダーさんがご自身のカクテルメイキングの動画まであるので、質の高い情報を得ることもできます。しかし問題は、その情報通りにジン・トニックを作って、美味しくなかったらどうするのか。まとめサイトに載っている異性からのモテ方を実践して全然モテなかったどうするのか。そもそも自分が考えている問題を、ネット上で同じように考えている人を見つけられなかったらどうするのか。

 効率化を重視してネット上の誰かに考えることは任せ、検索すれば答えが手に入ると無意識にぼくたちの頭の中に前提があるがゆえ、答えが手に入らなかったら思考停止に陥てしまう。そんな「クレクレ君」に成り差がった人類を、進化したとは言えないでしょう。

 クレクレ君からの脱却

  そんな「効率化の奴隷」と化したクレクレ君から脱却するには、一旦立ち止まって自分で考えたり、周りの人に相談する時間をちゃんと作ることでしょう。

クレクレ君のように、グーグルで検索して上位にヒットした数件の記事だけ読んで知った気になってないでしょうか。考えた気になっていないでしょうか。それは言うなれば、観光ガイドブックを読んだり、オンライン観光をして、観光した気になっているのに似ています。効率的に遠くの世界に触れることが容易い時代に、他所に足を運ぶことは、非効率だしコストもかかります。しかし、ガイドブックに載っていない所を見つけたり、人に出会ったりすることこそ観光の価値であり、ガイドブックやネットの情報の答え合わせをすることではありません。

 同様に、自分で考えたり、他者と話し合うことは非効率です。時間コストもかかります。しかし効率化の行間を埋める作業は、スピード重視の時間軸から足を踏み外し、非効率で無駄な時間を惜しまないということです。インターネットで情報や知識は「広める」ことはできますが、「深める」ことに関しては不十分です。その補完の場所として、カフェやバーはある、というのがぼくの考えです。

 インターネットには自分に都合のいい情報があるかもしれませんが、そもそも、何でもかんでもすぐに解決できるほど、世の中都合はよくありません。集めた情報を整理して精査する時間も必要です。友人と話しながら新しい気づきをもらい、自分の思考を改めて考えさせられることもあるでしょう。大切なことは、考えることを止めないこと。Wi-Fi完備のコーヒーチェーンでパソコンやスマホの画面と向き合うのもいいですが、カフェやバーは本来自分と向き合ったり、友人と雑談しながら思考を巡らす場所だったはずです。コーヒーもお酒も、思考や会話を促す飲み物としての役割は今も昔も変わりはしません。

問答は有用である

 昔のカフェ文化に魅力を感じるのは、きっとただの飲食店だけではなく、考えることを止めない人たちが自由に話し合える風土を感じ取れるからなのかもしれません。「オシャレ」や「美味しい」を消費して終わられる今の状況と違うのがそこなのだとすると、ぼくたちがやるべきことは、もう一度問いや悩みがあるちゃんとした大人たちと自由に問答できる風土作りと実践だと最近考えています。

 自分自身と問答することは、文字通り「自問自答」することであり、周りの人たちと、ある話題に対してあれやこれや言い合う時間をつくることは、今の時代だからこそ、大切にしなければなりません。アリストテレスの時代から問答をやっていたのだから、ぼくたち人間は問答する生き物です。先人たちは常に問答を繰り返し、社会を変え、それがまた問いとなり問答を繰り返してきたのが世界の歴史です。社会を変えるとか大きなことではなくても、少しでも現状を良くしたいと未来を見据える人にとって、問答が有用であることは問答無用であるということです。そしてCinqは、そんな人たちの味方であるということです。

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 どうやら難いこと考える人間は、はたちのおねえちゃんからモテなさそうなので、今からモテ方をググろうと思います。


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