見出し画像

先に答えを知ると、本質に辿り着きにくくなる



「このお茶、何度で入れて、何分蒸らせばいいですか?」



──そう聞いていた自分が、ちょっと恥ずかしくなった。正解を簡単に手に入れてしまうことは、その先の曖昧で自由な可能性を、ピシャリと凍結させてしまうことでもあるからだ。



──


見る、
感じる、
考える、
知る、
考える、
そして言語化する。


どこか知らない国や町に行ったときにも、美術館を訪れるときも、できるだけ、この順番を大切にしている。

というのも、最初から頭に咀嚼できていない情報を入れてしまうと、なにを見ても「情報との答え合わせ」になってしまって、自由気ままに空想する……という私にとって楽しい時間が失われてしまう。だからまずはこの目で見て、好き勝手あれこれ空想して、脳内に物語がひとつふたつみっつ……と出来上がってくる。

そうして「もしかして?」と、物語がムクムク湧いてきたころに、解説文を読んだり、Wikipediaや書籍を読み漁ったりして、ドカドカドカ……と現実に引き戻されるのだけれど、自分の中で「こうであろう」という仮設があった上で知り始める「正解」は、「あぁ、やっぱり!」「え、ほんとに?!」の、共感と裏切りの連続だ。合っていても間違っていても、知れば知るほどに面白い。


そこからまた妄想再開。「でもやっぱり、私ならこうするのにな」とか、「現代の常識ならこうなるんじゃない?」とか……脳内で勝手にあれこれ考えると興奮してくる。

どこかへ訪れたあとは、バスの中で、飛行機の中で、ホテルのベッドの上で、そんなことばかりしてずっと一人遊びをしている。妄想は頭さえ動いていれば出来る遊びだし、真夜中でも、異国でも、だいたいKindleで解説書が手に入ってしまうのだから、情報摂取も止まらない。眠れない。そうして見て、感じて、知って、また考えたことを、忘れないようにどこかに書き留めておく。


ちゃんと書くことはしんどいけれど、書くことで記憶は定着するし、なんとなくおぼろげに見えていた景色が、くっきりとしたオピニオンとしてみるみる姿を表していく過程は快感を伴う。それを世に放てば(もちろん、とてつもなく勇気がいることだけれども)同時に自分自身の輪郭にもなっていく。そうするとまた、いろんな人のオピニオンが返ってきて、ぐちゃぐちゃと色が混ざったり、濃くなったり……という繰り返しだ。


──


先日、岐阜県の東白川村にある茶畑を尋ねてきた。

画像1


お茶が好きだ、日本茶にハマってしまった……と日々お茶への新鮮な愛を綴っていたところ、ありがたいことに、友人のやっているお茶屋さん「美濃加茂茶舗」のお手伝いをすることになったのだ。もともと、美濃加茂茶舗の煎茶が大好きで毎日持ち歩いていたほどだし、ニューヨークで流行りつつある日本茶カルチャーを熱心に追いかけていたし、ずっとやりたいと思っていたストーリーテラーという役職なので、三重でうれしい。



で。まずはなにより「産地に行くことで見えてくることがあるから」ということで、美濃加茂茶舗の店長である伊藤ちゃんの運転で、彼らの茶葉を生んでいる茶畑まで連れて行ってもらった。


画像2



茶摘みの季節ではない、冬の茶畑。しーんとした山の中で、つめたくって美味しい空気を吸っていると、気持ちがしゃんとしてくる。

この茶畑を家族代々育てているのは、美濃加茂茶舗の監修もされている、茶師の田口雅士さん。彼の話は本当に面白くて、しかもこちら側の纏っている空気を受け入れてくれて、まさにふくよかな対話が生まれる、何時間でも話したくなるような人だった。


画像3


そんな彼の話の中で、ギクリとしたことがある。

「よく、何度でお茶をいれればいいですか? と聞かれるけれど、年齢によっても、身体の健康によっても、それはまるで違ってくる。でもね……」


茶師として全国各地でお話をされている田口さん。そうすると、いろんな人から「お茶の正解」を求められる。というか、私も求めてしまうし、なんなら「美濃加茂茶舗のお茶のパッケージにも適温を書いたほうが良いのでは……何度でいれればいいのかわからん……」などとぼやいていた。

ただ田口さん曰く、手っ取り早く答えにたどり着いてしまうと、そこから先に進みにくくなってしまう、というようなことだった。

まったく同じ品種のお茶であっても、その年の気候によっては表情が変わってくるし、それは私たち人間も同じことだ。機嫌の良い日、悪い日、寝不足の日、生理の日、全身が疲れ切った日、寒くてちぢこまってしまう日……。



「お茶に向き合っていることは、自分に向き合っているようなもの」

田口さんは、そんなことを言っていた。それはまさに、私が日々あれやこれやと空想したり、喜んだりしながら、文章を書いている営みにそっくりなのだ。ただ、文章には正解がないことを知っているのに、ジャンルかわれば正解を教えてもらえるものだと思い込んでいた。

画像4


もちろん、先人が積み重ねてきた知見を学ぶことで、見晴らしが良くなることもあるし、基礎的な力が培われることはある。でも最後の1ミリを握っているのは、やっぱり自分。こればっかりは数値化もできないし、替えも効かない。そこを「何度で何分」と盲信してしまっては、途端に可能性がシュッと狭まってしまう。



──


お茶を文章に置き換えて考えてみても、まるで同じことが言えるなぁ、と思った。

その時の心が濁っていたり、身体の調子が悪いと、文章の質が落ちる。ただ、文章を書いて自分で自分を励ますこともできる。

だから私にとっての「いい文章」ってのは、自分を最大限生かすためのエコシステムのようなものだし、自分の調子をはかるための「ものさし」のようなものでもあるし、自分をエンパワメントする薬のようなものでもあるのだ。


その「ものさし」はとてつもなく個人的なスケール感で、誰にとっても当てはまるものじゃない。だから、「文書の書き方のコツ」とか「バズるコツ」とか聞かれても、一対一でカウンセリングをしない限りは表層しか伝えられないし、ノウハウをコピペしても本質には辿り着けないのだ。


感じて、試して、試行錯誤して。

仕事にまつわることだけじゃなくて、暮らしの、身体の基礎になる水分摂取からそう出来たら、どうだろう? 頭だけじゃなくて、自分の細胞たちが、自分のことを教えてくれるような気がする。それって、ふつうに、最高だ。




美濃加茂茶舗の店長、伊藤ちゃんと、田口さんの対談記事もほんとうに素晴らしいので、ぜひ。

ちなみに茶畑を訪れた日、私は大阪に帰らなければいけなかったのだけど、伊藤ちゃんと、美濃加茂茶舗のオーナーである碇さんは田口さんの家で獲れたての山の幸をいただきながら、どっぷり夜までお茶会を楽しんだそうです。なんという贅沢。

(美濃加茂茶舗の中でストーリーテラーとして働くことになりましたが、このnoteはとくべつPR記事を頼まれて書いた……という訳ではありません。生きていく中で、仕事で出会う場所からインスピレーションされることってすごく多いですよね。)






実は今回、おそらくはじめて、「好きを仕事に」しているなぁ、と感じるところがありまして。これまで、ノウハウ面で「得意を仕事に」はやってきていたけれど、


ここから先は

720字

新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。