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エラくなると見えなくなるもの


わたしの家族はわたしのことを「ふつう」だと言う。

ふつうの家庭から生まれ、ふつうの教育を受けた、ふつうの人間32歳。持て余すほどの財産に恵まれることもなければ、生きるのが困難なほどの苦労に直面したこともなく、小学校から高校までは最寄りの公立学校に通い、高校時代の通知表は全科目「3」。教師に「お前の成績表、普通すぎてつまらん!」と言われたほどだ。

「つまらないほど普通」だと言われた私は「つまる」人間になりたくて芸術大学に進学したのだけれども、その中でやっぱり私は「ふつう」だった。4年制の学部を5年かけて卒業した劣等生で、なんら深い専門知識を持つ訳でもない。

わたしの趣味……というのはnoteで文章を書いたり、SNSに時間を垂れ流したりするくらいなものだけれども、そんな人なんて数え切れないほどいるじゃない。というか、趣味を問われるのが苦手だ。映画も音楽もアートも、なにをとってもオタクになりきれない私に、趣味など問うてくれるな! といつも思う。


そんな「ふつう」の人間が、他人様に何かを語れるだけの立場にあるのだろうか? ……というのが、わたしの親切な家族から寄せられた、出版前の大きな心配事であった。そしてわたし自身もそこは非常に懸念していた。数年前、とある著名な編集者にも「塩谷さんは自分の専門領域を持ったほうがいいよ、インターネットが得意…とかじゃなくてさ」と言われていたし。



しかし本を作ることを提案してくれた文藝春秋の山本さんは、いかにも平凡なエピソードばかりを収録しようとしてくるのだ。容姿に自身が持てなかったとか、英語が苦手で会話に混ざれないとか、ありふれた話ばかりが本の前半を占めている。正直、世に出すまではそれが心配でならなかった。ふつうの人間が綴った自分語りに、一体誰が興味を持つのだろうか! と。



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けれども蓋を開けてみたところ、それは思っていたほど悪いほうには作用しなかったらしい。というよりむしろ、「ふつう」なのが良いらしい。食うために働き、ときどき挫折し、社会問題について頭を悩ませつつも、身体は便所掃除や炊事洗濯に従事している。そういう市井の人間であることが、ある種の強みらしいのだ。はぁ、よかった、ふつうで。なんだか安心した。 ……というのにここ数日。その軸である「ふつう」が、どうにも狂い始めようとしている。


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。