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私はそのパレードには参加出来ない、保守派だから



日本での長期滞在を終え、ニューヨークに戻ってきた。


マンハッタン島を埋め尽くすように建てられた高層ビル群を見ていると、これほどのものをつくった人類はあっぱれだわ、なんて気持ちになる。

そのうちの一つである国連本部では折しも気候行動サミット2019が開催中で、話題の中心は欧州から小さなヨットでやってきた少女に集中する。視線を下に落とせば、投げ捨てられた無数のプラスチックカップ。1杯26ドルのカクテルを飲みながらルーフトップバーで騒ぐ若者たちの喧騒と、ホームレスの演説が交錯する。中華料理屋の芳しい香りは、次の角では強烈なマリファナ臭によって掻き消され、酸いも甘いも同時に、情報が大音量で降りかかってくるのはいかにもニューヨークらしい。昨日まで過ごしていた、穏やかで粒の揃った地元の景色とはエライ違いだ。


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ここ2年、大阪と東京とニューヨークを同じくらいのバランスで転々としていると、ときに価値観の温度差でのぼせ上がってしまいそうになる。 

先日とあるプロジェクトの一環で、大阪の百貨店の店頭に立ち、生理用品にまつわるアンケート調査を実施していた。回答者の方にはタンポンをプレゼントしていたので、何がもらえるのだろう? と気になって近づいてくれる人もいたのだが、私が「生理用品の......」と口にしたそばから多くの女性客は苦笑いし、そそくさと足早に去ってしまう。 

めげずに「生理用品をプレゼントしています!」とすこし声を張ってみたところ、今度は年配の女性からお怒りのクレームを受けてしまった。「シモの話」を百貨店で口にする なんてけしからん、ということらしい。品ある淑女の目には、ハツラツとタンポンを配る私は、下品極まりない存在に映ったのか。

しかしよく考えてみれば数年前まで、私だって公衆の面前で生理だ何だと口にすることはありえない、と思っていたはずなのだ。


東京で会社員をしていた頃は、男性比率の高いオフィスの中で、殴られたような生理痛に襲われても鎮痛剤を飲んで隠し通していたのだし。あまりにも苦痛で午前休を取ってしまう日もあったけれど、そうしたときは「徹夜だ ったので寝不足で......」とかなんとか、言葉を濁しつつやり過ごしていたものだ。



ところかわって、フェムテック(女性特有の健康課題をテクノロジーで解決するビジネスの総称)のメッカともなりつつあるニューヨークで暮らしていると、性にまつわる開放的な空気に日々圧倒されてしまう。

日本の地下鉄やコンビニも女性や少女の性的な姿で溢れているが、それは男性主体のものが大半だ。こちらでは女性たちが率先して性のタブーを打ち破り、街や店頭は女性の身体を肯定するような広告で溢れている。 その口火を切ったのは、THINXというサニタリーショーツを販売するベンチャー企業だ。

THINXは2015年、「月経がある女性のための下着」というコピーの横に、女性器を模したグレープフルーツの写真をでかでかとプリントした駅貼り広告を打ち出した。それを見た通勤中のニューヨーカーたちは「なんと生々しい!」と騒然とし、それなりに問題になったらしい。

けれども結果こうした広告が「生理は隠すもの」というタブーを打ち破り、それから雨後の筍のように数多のフェムテック関連サービスや開放的な広告表現が生まれた。米国でもっとも女性投資家が多い州はニューヨーク州らしく、女性起業家による挑戦が受け入れられやすい土壌もあるのだろう。


そして広告に打ち出されたメッセージや商品はすぐに、同じ街で暮らすトップインフルエンサーたちによって拡散されていくのだから、価値観はたちまち塗り替えられていく。 同じアメリカのリベラルな大都市とはいえ、FacebookやAppleなどの巨大テック企業がひしめく西海岸とは、ひと味もふた味も異なる文化圏だ。


THINX創業者のミキ・アグラワル氏の Instagram を開けば、全裸でパートナーと抱き合う写真とともに、性生活のことが赤裸々に綴られているのだからぶったまげてしまう (ちなみにミキという名前からわかるように、彼女は日本人の母とインド人の父をルーツに持つ)。


ただ、こうした発信は彼女に限ったものではない。

ニューヨークまで行かずとも、YouTube やInstagramを開けば多くのインフルエンサーが、性生活について、生理について、 セルフケアについて、そして生まれてから死ぬまでの身体の変化について、目をそらすことなく熱心に語りかけてくる。

たとえば「natural water birth」と YouTubeで検索すれば、 自宅のバスルームで家族に囲まれながら出産している実況動画が次から次へと出てくるの だけれども、それを見た出産未経験の私はしばらく放心してしまった。だって、全てが丸見えなのだから!


けれどもそうした空気に触れて、いつのまにか私も背中を押されていたらしい。少しプライベートな話をすると、私には子宮内膜症という持病があり、生理痛が人よりも重いらしい。ただ長年ずっと生理にまつわることすべてを「恥ずかしい」と捉えていたので、誰かに相談することもなく、痛みを我慢してやり過ごし、結果何年間も病気であることに気がつけなかった。

けれどもある日、あまりの下腹部の痛さで動けなくなり、病院に運ばれ、入院中にようやく子宮内膜症だと診断されたのだ。そしてそれが生理のある人の10人に1 人は持っている病気だと知り、驚いた。だって私の周りには、そんな女性は誰一人として いなかったのだから。


その後、ニューヨークにかぶれた私は少し勇気を出して、子宮内膜症であることをInstagram に投稿してみた。すると驚いたことに「実は、私も......」という声が四方八方から飛んできたので、仰天した。誰もいないと思っていたけど、みんなして黙っていただけなのだ。さらには子宮内膜症という病気をはじめて知りましたとか、自分も当てはまる気がするから婦人科に行ってみますとか、そうした声がいくつも届き、少しばかり涙が出た。


人知れず痛みに苦しんでいた人が、こんなにも近くにたくさんいたなんて! であれば、もう恥ずかしいだなんて思わず、生理にまつわることを堂々と伝えるべきじゃないのか。


そんな社会的使命というか、正義感に近いものを心に宿らせ、冒頭に書いた通り、生理用品にまつわるプロジェクトにも参加したのだ。その結果、百貨店では咎められ、ネット上でも品がないとか、日本とアメリカは違うとか、さまざまな批判を受けてしまうのだけれども......。


こちらでは性をオープンに語ることがあたりまえで、あちらでは生理と口にすると咎められる。大阪、東京、ニューヨーク......と行き来する日々はまるで価値観の交互浴だ。どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか。相手が古めかしいのか、それとも自分が恥 知らずなのか。そうした価値観の境目に立つ度に、私は「乳首解放運動」のことを思い出し、頭を冷やすのだ。


「男性のトップレスは許されるのに、なぜ女性はダメなの?」そんな性差を訴えるのが、 #FreeTheNipple つまり「乳首解放運動」だ。


(Instagramの利用規約上隠されているが、彼女らは実際にはトップレスで街をパレードし、女性の乳首解放を促している。)


アイスランドの女子学生たちからはじまったその活動は、瞬く間に世界に広がった。ニュージーランドのビーチにはトップレスの女性が集まり、ニューヨークでも乳首を解放した女性たちのパレードが開催され、ナオミ・ キャンベルらもSNS上で参戦。2014年には『FREE THE NIPPLE』という映画まで公開された。


ちなみにニューヨーク州を含む多くの州では、女性のトップレスは合法だ。インディアナ州とテネシー州では違法らしい。......と、法律がどうであれ、私個人の価値観としては、 そのパレードには絶対に参加できない。親友に誘われたとしても「あなたは好きに解放して!」と見送る側に回るだろう。


きっと、これを読む女性読者の多くは乳首解放運動に関して、私の意見に同意してくれるんじゃなかろうか。でも、令和30年になればどうだろう。

いまから少し先の未来にて、 男女平等が限りなく実現しているとすれば、次は公共の場で堂々と授乳できないことに議論が集中するかもしれない。もし私に、母親に似て時代の空気を感じやすい娘がいたならば、彼女は乳首解放パレードに参加したいと願うかもしれない。そして60代になった私は「誰彼構わずおっぱいを晒すなんて、恥ずかしい!」と非難しかねない。それはまさに、 百貨店で生理用品を配る私に、苦言を呈した淑女と同じだ。


 「私の考えは正しく、間違っていない。そう思ってしまうのが、一番怖いことだよね」と、 尊敬する友人が話していた。たしかに、正義感というのは罪悪感を伴わないぶん、タガが外れてしまいやすい。


正義感が暴走すれば、他者は倒すべき悪になり、しまいには攻撃することに快感すら感じてしまう。だから相手を言い負かしたいと武者震いしたときにこそ、乳首解放運動のことを思い出したい。相手の主張を尊重することはできたとしても、私はそのパレードに は参加できないのだから。






『ここじゃない世界に行きたかった』1章より、抜粋して掲載しています。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。