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スープストックで休ませて

「スープストックが好きな訳は、スープが美味しいというよりもこの空間には小鳥のような女の子しかいないことが安らぎ」

2013年の3月、白胡麻ごはんの横に「東京ボルシチ」と「タイ風グリーンカレー」が並んだ写真と共に、こんな文章をInstagramに投稿していた。位置情報はSoup Stock Tokyoアトレ恵比寿店。おかしな文法を推敲することもなく、息を吐くように投稿していた当時の私は24歳。東京1年目、恵比寿で限界会社員をやっていた頃である。



この写真の向こう側にいるほとんどが女性のお一人様客で、各々が静かにスープをスプーンで掬っていた(男性もいたが、同じく静かであった)。

あそこには、大きな声で仕事の愚痴をぶちまける人も、部下を叱責する人も、セミナーの勧誘をする人も、社外秘情報を電話口でベラベラと喋る人も、大学の後輩に就活アドバイスをする人も、別れ話をする人も、猥談を繰り広げる人もいなかった。狭い机と椅子に収まり、スープを掬いそれを口に運ぶ女たち。名前も知らない他者たちと作り上げている平穏な世界。あの小さな店の中で、自分もその平穏を担う一部であることが心地良かった。そして小さな2杯のスープを最後までたいらげ、また理不尽の多い世界へ戻るのだ。


当時の私の仕事はWeb制作会社のディレクター。いや、まだ働き始めて1年で、ディレクターとは名ばかりの伝書鳩というか、なんでも雑用屋というか……だったのだけど、忙しく仕事に勤しんでいた。朝10時から働いて、日中はずっと打ち合わせや電話対応、やっと自分の作業が出来るのは21時以降で、基本的には24時半退社。故郷を出て、東京で、IT業界で働くんだ!と鼻息荒く自意識を保っていたけれど、絶対的に上の立場であるクライアントや代理店の方々に理不尽に振り回されることもままあり、それで社内のデザイナーやエンジニアの先輩に迷惑をかけることもよくあり、常に誰かに謝り続けていた。

1人で打ち合わせに行った帰り、少し時間に余裕がある日には、恵比寿駅の改札を出てすぐのところにあるスープストックトーキョーに行くことが喜びだった。とはいえスープストックでランチをしようとすれば、790〜1000円くらいはかかる。当時の収入は手取り20万を切っていたし、その中からアパート(防犯のために一応オートロック)の家賃7.5万円に光熱費や通信費、それから奨学金返済1.5万……と差し引いていくと、ランチにそれだけ出費するのは贅沢が過ぎる。が、給料日前の夕食をもやし炒めにして帳尻を合わせつつ、たまにお昼をスープストックで贅沢に過ごした。やさしい内装、朗らかだけれど干渉してこない店員、そして静かにスープを掬う女たち。そこは束の間、日常の圧力から逃げられる、止まり木のような場所だった。

オフィスのある恵比寿には素敵なイタリアンやタイ料理屋なんかが沢山あるけれど、まぁちょっと高い。そうした店には、上司とのランチミーティングで行くことがあったけれど、周囲を見回すとお喋りに興じる女性グループが沢山いた(代官山に近づくと若い女性が増え、白銀台に近づくとマダムが多くなる)。昼からワインを嗜む人たちに囲まれて、「お飲み物は?」「水で」と言うのは、なんだか少々場違いな気がした。あと単純に、料理が出てくるまで時間がかかる。

駅前には、立ち食い蕎麦や海鮮丼の店も色々あった。打ち合わせ帰りや残業中に男性上司と行き、注文方法を見て学んだ。安い速い旨い。が、1人で行くには男性ばかりで少し肩身が狭い。考えすぎか? と思うかもしれないけれど、ときどきジロっと見られている気もする。

ファストフードはたまに行ったけれど、昼から脂っこいものを食べると眠くなるし、ただでさえ雑に扱っている自分をもっと痛めつけている気がしてしまう。忙しい日はコンビニ飯をデスクで啜りながら仕事を進める他ないが、それがずっと続くのはさすがにしんどい。つまり、若い女が1人で入ってもおかしな目で見られず、他の客の会話に空間が支配されていくこともなく、身体にも害が少なそうで、それでいて駅前でパパッと食べられる……というのは、もうスープストック一択なのだ。


34歳の今となっては、女子会で賑わうイタリアンであれ、おじさんだらけの立ち食い蕎麦であれ、大した抵抗もなく入れる。これは歳を重ねて図太くなったから……というのもあるけれど、別に今の私は癒やされたいと思って飲食店を選んでいない、というのがデカい。旨い飯で腹を満たしたいと思っているに過ぎないのだ。それはたぶん、根本の心がさほど疲れていないからなんだろうな。

会社員の頃は疲れていた。自意識はカッスカスになるまで削られ、でもまだ残っているそれを大切に守っておかないと駄目になってしまいうそうだった。そのために時々、駅前の花屋に1分だけ駆け込んで甘い香りを嗅いだり、スープストックで自分の心を癒やしたりした。

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先日、スープストックトーキョーが離乳食を無料で始めるとSNSで宣伝しているのを見て、「おぉ、ええやん」と思った。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。