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適職というよりも、自分が仕事に沿っていく



ここ最近、おてんとさまのことばかり気にしてしまう。

といっても野山に出ていく訳ではなく、洗濯物を乾かしたいだけでもなく、私のような初心者YouTuberは室内までしっかり自然光が入らないと綺麗に撮影が出来ないというだけのしょうもない理由であって、春雨が続く日々に「今日も雨!」とがっかりしているのだ。

更にはガジェットには昔から微塵も興味がないと思っていたのだけれど、スマホで撮った動画の素人臭さに辟易してしまい、iPhoneの使い方講座を今更ながらに注視……だけでは飽き足らず、カメラ情報を漁りはじめてしまった。即物的な人間は、こうして目的に人格が呑み込まれていくものなのです。



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巷には自己分析だとか、適職診断だとかが溢れているけれど、私は自分が適している職業に就くことよりも、職業や立場によって自分が規定されていく部分のほうが、うんと大きいんじゃないかしらと思えてくる。樹だって曲がれば曲がったなりに伸びる訳で。良く言えば適応力が高く、さらに良く言えば生存能力が高いのである(前向き)。故に3年くらい会っていない人には「あれ、そんな感じだったっけ…?」と言われてしまうが無理もない。

私としてはその時々の理由があって必然的に順応しているのだけど、ネットに散らばった過去10年分の記事のどれかをきっかけにここに辿り着いた人が、ときどき「この人、記事によってキャラがまるで違うんだが」と混乱してしまうらしい(ですよね)。なので置いておこうかな、順応の変遷を……ということで書いてみます。


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2009〜最若手としての自己効力感


留年して京都芸大5年生だった頃は、業界の既得権益側に悪態を吐きつつ、毎月夜行バスで東京に通い、そこで得てきた人脈を武器に後輩たちに処世術を語っていた。大海を知っている(つもり)の井の中の蛙というか……。そして学生仲間の中では歳上でも、社会では最若手。ネットネイティブの私は、SNSに疎い先輩方を横目に見つつ、世界はうちらが変えていくんやで、という自己効力感に燃えていたのだ。

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これはある種大学生の特権なのか、目上の方にクソ失礼なことを言っても面白がられる、ということがある。最近は大学生起業家は珍しくないけれど、当時の関西で(ましてや美大生で)社会に飛び込んでいく人間が少なかったから、なんだかここで人生のシード権を使った気がする。



2012〜標準語を学び、同時に失ったシード権


けれども都内のオフィスで「フレッシャーズ」と呼ばれる立場になった10年前。はじめての一人暮らし、はじめての東京、はじめてのオフィスワーク、はじめての遠距離恋愛……とはじめて尽くしで苦労は多かったのだけれど、何より骨が折れたのがはじめての標準語でのスムーズな日常会話


周囲は全員先輩で、みんな標準語。とはいえ、最初は大学生の時のように関西弁でええがな!と思っていたのだけれど、「お客さんの大学生」と「いつもいる同僚(部下)」とでは話がちがう。かつ私はボケかツッコミかでいうとツッコミなのだ。で、ボケとのツーマンセルが組めないツッコミはただの失礼な人になる。

それで何度か玉砕し、しばらくは標準語会話の大縄跳びにいつまでも混ざれないような不甲斐ない日々が続いた。

しかし英語であれ標準語であれ、ネイティブスピーカーの会話に混ざる際に最初に習得出来るのは「感じの良い相槌」だ。I know! Really? Absolutely!

下請け制作会社の新人女子社員……という当時の自分の立場でのそれらは「なるほどですね!」「まじすか!」「やばいっすね!」の3点になった。見事なボキャ貧に比例して、頭も次第に貧しくなり、顔から責任感やら戦闘力やらが抜けていき……。

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(写真のチョイスが意図的すぎるな)

同時に、頭を支配する悩みもごく小規模なものになっていた。その9割は色恋沙汰で、1割は「今月、カードの引き落し大丈夫だろうか」という金勘定(だいたい大丈夫ではなかったんだけど)。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。