ガラスの仮面を読んで真澄とマヤに情緒を掻き乱された

「ガラスの仮面」1~49巻まで読んだので、自分用に感想を残しておこうと思いました。(全編ネタバレ)
タイトルでも触れていますが、一気読みした結果自分の推しカプは真澄×マヤ、最推しはマヤになったので、その辺の話が多いです。ざっくり自分の印象に残ったところだけ書いています。(それでも長い)あと所々漫画から引用しています。

ちゃんと読む前の自分のガラスの仮面の知識(ネットで得たぼんやり知識)
・演劇漫画。北島マヤ、姫川亜弓、月影先生、紫のバラの人がいる
・「北島マヤ、恐ろしい子…!」と言われている。登場人物は白目を剥く。
・姫川亜弓は高潔な人物であり、努力家である。マヤの方が天才型で、亜弓は努力型。マヤと亜弓の関係性は尊いものである。


49巻までの感想

・月影先生との出会い~奇跡の人編

今回感想を書くにあたって、49巻まで読んだ後にこの辺りをもう一度読んだのですが、色々な発見があって面白かったです。

・マヤと月影先生のキャラ、1巻からもうほぼ完成されているな…
・桜小路くんと速水真澄、速水真澄の方が先にマヤと出会ってたんだな…(何となく、桜小路くんにはヒロインと先に出会うも後に出てきた男に掻っ攫われる系キャラの雰囲気を感じていたため)
・月影先生、この頃から身体の不調と戦っていたんだな…歴史が長いな…

など。

あと、13歳の北島マヤが超かわいい。演技の天才だけど、この時点ではまだまだ演技が未熟。そしてちっちゃい。本当にチビちゃんじゃん…。マヤ母もそりゃこの子を他にやるの不安だよね色々と…。

そして、読んだ時に一番強く感じたのは、『青木麗というキャラのビジュが良すぎる』というものです。
劇団つきかげでマヤの仲間になる女性、青木麗。イケメン、王子様、女性にキャーキャー言われる。だけど麗本人は女性の役を演じたいと考えている……。そして生活力の欠けたマヤのお世話をしてくれる同居人でもある。作中でキャラが私服を着るシーンで、マヤは垢抜けない格好をしている事が多いけど、麗の私服はスタイルの良さを活かした格好良いものだったと思う。ちなみに亜弓さんはフェミニンでお洒落な私服が多い。舞台衣装だけじゃなくて私服の描き分けも素晴らしいなと読んでいて思いました。

・この辺りの速水真澄はまだまだ邪悪。若草物語を観劇してマヤのファンになり、『紫のバラ』を贈るようになった後でも、紅天女の上映権を巡っての月影先生・劇団への嫌がらせが容赦ない。

でも、私はこの辺の速水真澄の所業、そこまで嫌いではないです。

何故かというと、速水真澄の所業を聞いて震えているマヤは、超カワイイから……。


『ガラスの仮面3巻』より

『ガラスの仮面』といえば、キャラが白目になっている描写が有名だと思います。ですが、実際漫画を読んでみると瞳の輝きや表情の細やかさの方に目を奪われました。
そしてガラスの仮面初期の頃の、『まだ演劇で成功を収めた訳でもなく、母親と離れてひとり劇団にいるマヤ』が震えている様は…とても不安そうで、かわいそうで、かわいい。個人的にこういう表情が好きな事もあって、めちゃめちゃぐっと来てました。そんなマヤを供給してくれる速水真澄、足を向けては寝られないです。あと、『後にただならぬ関係になる2人の知り合ったばかりの様子から得られる栄養素』がこの辺にはぎゅっと詰まっています。ありがたい。

あと、『不安げなマヤ』の栄養素は『亜弓さんの演技の素晴らしさに自信を無くしているマヤ』からもザクザク採れます。しかもこのマヤは49巻に至るまで定期的に供給されます。拝むしかない。


『ガラスの仮面6巻』より

・嵐が丘編

嵐が丘(小説)を昔読んだ時、『キャサリンとヒースクリフの情緒、どうなってんだか全然わかんねえよ…』と思った記憶があるので、キャサリンの役を掴もうとして苦労するマヤにめちゃめちゃ感情移入してしまった。難しいよね…激しくて…。

嵐が丘編、個人的にかなり好きです。

舞台の内容も良かったのですが、この一連の話で既にマヤを巡る恋の行方が示唆されていると感じたからです。だから好きです。
自分が『五等分の花嫁』を最終刊まで読んだ時、「このキャラはこの段階で恋に落ちたんだなあ……」と原作をめちゃめちゃ読み返したんですが、ガラかめの嵐が丘編はそれと同じ類の面白さがあると思います。

マヤ演じるキャサリンと激しい恋に落ちる男、ヒースクリフ。
ヒースクリフを演じるのは真島という男。

嵐が丘の舞台の前後、三人の男がマヤに異なるアプローチをします。

ヒースクリフを演じる真島は、舞台の上にしかいないキャサリンに恋をする。
桜小路は、思い人であるマヤが真島と絡むのに耐えきれず、舞台の上演中に帰ってしまう。
真澄は、内心動揺しながらも舞台を最後まで観る。

マヤの被る仮面を愛している真島、素顔のマヤを愛している桜小路、どちらも愛している真澄…と描かれている訳ですね。
49巻までの内容から、マヤのお相手は速水真澄なのだと思われますが、メタ的に見るとその決め手はここなんだろうなと思います。マヤの素顔と仮面、どちらも愛せるか。

自分は役者として舞台に立った事は無いけど、『舞台を最後まで観てくれる観客』は何よりも役者の励みになるのだと思うんです。思うところがあってもマヤの舞台を最後まで観てくれる速水真澄、めちゃめちゃ好きです。

原作では絶対実現しない事だと思うけど、マヤが濡れ場ありの舞台に出る事になったしても、速水真澄は最後まで観てくれると信じています。灰になりそうだけど。いや舞台上演前に大都芸能の力で舞台を潰すルートもありか?どっちだろう…。

・舞台荒らし~奇跡の人編

・『他の者に合わせる演技』を学ぶ為に人形を演じるマヤ。だがある時舞台上で仮面が剥がれてしまい、月影先生に謹慎を言い渡される。

ここで驚いたのが、『ガラスの仮面』のタイトル回収って、青木麗によってなされていたのか……という事です。

でも、麗とマヤの話の中で出てきた言葉だからこそ良いよね…と思った。

月影先生のような大女優としての実績はなく、若き役者として姫川亜弓のように天才と謳われた事も無い。マヤと同じ劇団に所属し、マヤと日々成長のために試行錯誤しており、同居人として生活力の無いマヤを支えてもいる。舞台上で輝くマヤと普段のダメダメなマヤ、どっちも知っている。だからこそ『ガラスの仮面』というワードが出せるのかなと思いました。
例えば亜弓さんから見たマヤの仮面はもっともっと強固なものに見えているだろうし、彼女は『自分の被ろうとしている仮面はガラスのように儚い』とは表現しないような気がして……。青木麗だからこそ出た言葉なんだろうね。いいよね。


・マヤ中学卒業に当たって、今後の女優活動の為にも高校に行く事を勧める真澄。

マヤは真澄の言葉には反発していますが、もう少女でも無い読者目線だと、真澄の言う事に『ほんとそれ』と頷いてしまう。

ガラスの仮面全編を通して、速水真澄の良いところとして描写されているものは沢山ありますが、そのうちのひとつに『世渡りの知識がある』『金関係に強い』ところがあると思います。

お金をじゃぶじゃぶ持っているというだけじゃなくて、社会におけるお金の稼ぎ方・その為にするべき振る舞いがちゃんと身についているという描写が度々あるのがいい。マヤはこのへんに大分疎そうだし。

令和のこの世に北島マヤがいたら、『インボイス制度って何なのかしら…!確定申告が何なのかもまだよくわかっていないのに…!』と狼狽えているところに、速水真澄がシュッとやってきて、手厚くフォローしてくれるんだろうなと思います。

・三重苦のヘレンケラーを演じるため、紫のバラのひとの招待で別荘に行くマヤ。

このへん、正体の知らない人の誘いでのこのこ遠出するマヤに『えっマジで……?』と思いながら読んでいた。
マヤ母がマヤと連絡を取り合っていたと仮定して、この事を知ったら紫のバラのひとの正体がわかるまで外出禁止にしていたと思う。誘拐にしか思えないもん。

この辺ですげえと思ったのが、『目の見えないヘレンケラーを演じる為にマヤが目隠しをして特訓している所に速水真澄が現れ、マヤ側は相手の正体がわからないままに交流する』という場面があった事ですね。
慕っている相手の正体がわからないまま交流するという展開は他作品でもよく見るけど、このシチュエーションはガラスの仮面でないと中々作り出せないでしょ……と思った。
ガラスの仮面における二本の柱は『演劇』と『速水真澄と北島マヤの恋』だと思っているのですが、この二つの要素の絡み方が、本当~~~にうまいなと思います。

あと、この辺から速水真澄から北島マヤに対するモノローグが加速する。

『ガラスの仮面で有名な台詞』といえば、『北島マヤ、恐ろしい子…!』だと思うのですが、自分が実際読んでみて一番印象に残った台詞は、『どうかしてるぞ速水真澄 相手は11歳も年下の少女だぞ おれともあろう者が……!』です。
これに似たモノローグが、『ガラスの仮面』全編通して、何度も何度もマジでいっぱい出てくるんです。

長期連載漫画特有の、途中から入った読者でもキャラの関係性がわかるようにという配慮もあっての事だと思うのですが、この男はいつまで11歳差である事を悩んでいるんだ……?もういいだろという気持ちにジワジワなってくるんです。

昨今のフィクションを巡る問題として、『年の差が大きいカップルは年上側の倫理観が気になって読めない』というものがあると思うのですが、年上側に執拗に悩ませれば読者も『いいよもう……』と思って気にしなくなってくれるのかな……?という気付きを得ました。

あと、この章はね……亜弓さんの公演中に廊下にいるマヤがもぐもぐ鯛焼きを食べて……そこに速水真澄が現れて子供の頃鯛焼きよく食べたって言うところがね……かわいいね。ふたりの味覚って似てるところもあるんだ。へ~~~~~~~~ってなった。読み終わった後、鯛焼きを買いに行きました。

・芸能界編~狼少女編

・紆余曲折あって大都芸能所属になり、芸能界のスターダムを駆け上がるマヤ。

マヤが芸能界で活動している間の章名は、『華やかな迷路』になっている。

この章名といい、舞台ではなくテレビに出演するマヤの様子といい、何か穏やかじゃねえよな……嫌な予感がするな……と思いながら読んでいた。

その関係もあって、マヤと付き合い始める里見茂に対して、こいつはマヤを失脚させるために乙部のりえと組んでいるんだ。マヤにハニートラップを仕掛けているんだ。と思いながら読んでました。なんなら、自分の中でのこいつが憎い度合いは乙部のりえ<里見茂でした。

何でそんな事になっちゃったのかというと、これは私が『北島マヤは、演技している姿が何より素晴らしい』と考えている事に起因しています。
お芝居が好きで、演技に入り込んでいる北島マヤが大好き。『ガラスの仮面』の中で一番好き。
だからこそ、『芝居に入り込めていないマヤ』のシーンが来ると、やきもきしてしまうんです。早く演じているマヤが見たいよ!と思ってしまう。

マヤは里見茂に恋した事で、演技に入り込めなくなってしまった。私はそれがすごく嫌でした。
『百合の間に挟まる男』という概念があるけど、里見茂は私にとっては『北島マヤと演劇の間に挟まる男』でした。私は北島マヤと演劇の間に挟まる男が、きらい……。だから里見くん自体には何の落ち度も無いのに、はよいなくなって欲しいな…と思っていました。ごめん。


これとは別の事だけど、水城さんがマネージャーになった時、この人も悪い事をしてくるのかな~なんて想像していたけど、ちょっとびっくりするくらいいい人だった。芸能人として脇が甘いマヤを厳しく、だけど近い距離で導いてくれるじゃん……。SSRマネージャーじゃん……。普段は速水真澄の秘書として勤めている水城さん、普段から高給取りなんだろうけど、めちゃめちゃボーナスを貰って欲しいよ……と思ってしまった。


・マヤの母親の死

ここ、読んでいて一番ショッキングなポイントでした。
マヤを売り出す作戦で大都芸能から監禁同然の扱いを受けていたマヤ母が、とうとうマヤ本人とは再会する事なく亡くなるという……。
ガラかめ世界では『泥』『石』『カミソリ』が出てくるのは日常茶飯事だが、過去編以外で人が亡くなる漫画では無いと思い込んで読んでいたので、意表を突かれた。

1巻の頃から、マヤのお母さんが出てくるシーンは何か、胸に来るものが多いなぁ……と思っていたので、この展開は本当に立ち直れなくなった。何なら今でも思い出したくないくらい。

なんでそう感じるのかというと、マヤのお母さんは『演劇とは距離が遠い人だから』というのがあるのかなと思います。

作中で貧乏だったり病を患っている人は他にもいて、それこそ月影先生なんかそう。でも彼女にそこまで悲壮感を感じないのは、『演劇を愛しているから』かなと思います。
ガラかめ世界においては、演劇・舞台とは夢を見せてくれる場所であり、希望だと思う。でもマヤのお母さんは演劇から遠い場所にいるから、『厳しい現実』がダイレクトに降りかかってくる。だから読んでて苦しいのかなと思いました。
でも、最後にマヤの演技を観た(耳で聴いた)マヤ母は幸せだったのかな~。幸せで、あってほしい……。そうでないと私の精神が耐えきれない……。

あとびっくりしたのは、この辺のマヤ母への仕打ちは、速水真澄が率先して行っていたという事ですね。

『あいつの大事な人はおれが殺したようなものだ……』みたいな事を逡巡するキャラは他にも見た記憶があるけど、マジでお前が殺したようなもんじゃん……となったのは速水真澄が初めてです。

真澄・マヤ共々この時に背負った十字架が重すぎて、ここから長い事想いがすれ違い続けたのも、まあ納得出来てしまうというか……。私はマスマヤにくっついて欲しいと思う一方で、『母親の件もあるのでやっぱりくっつきませんでした』となっても全然納得出来るなと思ってしまう。

母親の一件からマヤの活動には影が差す。
「上り調子の展開にターニングポイントとなるイベントが発生し、谷底になる」みたいな構成はシナリオあるあるだと思うけど、ガラかめのマヤが不調になるところは谷底底底底底って感じがして……体感、すごく長くて……つらかった。このときしっかり落とすからこそ後の展開が輝くんですけどね。

・マヤの演じる舞台が芸能界→学園と移る。
作中の舞台のゴージャス感を考えると華やかな芸能界からガクッと下がってるのに、圧倒的なわくわく感がある。ガラスの仮面は、マヤが演劇に向いているとそれだけで多幸感が発生する作品だなあと思った。例えそれが大きな舞台ではないとしても。マヤが演劇の準備をする段階からすっっっっごく面白いんだよね…。私は、マヤが演劇に夢中になっている瞬間が一番好きだ……。

あと、『通り雨』の舞台は、太宰治の『女性徒』を思い出す作風だな、実際に原作を読んでみたいなとナチュラルに思っていたので、ガラスの仮面劇中劇であり原作は存在しないという事に衝撃を受けた。
ガラスの仮面の中の演劇って現実世界に原作が存在しない作品が結構あるんですね……。『歴史作品内でナチュラルに解説されていた内容が創作だった』事を知った時と似たような衝撃を受けたよ。美内すずえ、恐ろしい先生……。


・このあたりから、聖唐人という男が登場する。

ビジュが良く、速水真澄の影として生き、速水真澄の為には命を投げ打っても惜しくは無い。多忙な速水真澄の為に動いてくれる。マヤに『紫のバラ』を届けてやりとりをしてくれる人間でもある。バラを渡すだけではなく、時にオーディションも見守ってくれる……。

この聖唐人という男を見た時、私は『出番の少なさの割にジャンプ漫画の人気投票で高順位を取り、ざわつかれるキャラ』と同様の存在感を感じ取ってしまった。
原作が進むにつれ、速水真澄のクールキャラは息を潜めるようになるが(心の中でマヤへの愛を自覚してしまった為)、聖唐人はまだまだクールさを保っているように見える。そこもいい。

でも、マヤに自分の名前を明かしたのが、速水真澄の命令とかじゃなくて「二人の関係のためにそうした方がいいと思ったから」(意訳)という自己判断によるものなのがじわる。「影」の自覚が足りないんとちゃう?

そして水城さん同様、聖唐人も速水真澄と北島マヤの仲を後押ししようと、事あるごとに速水真澄に発破をかける。推しカプがマスマヤの私は、作中屈指の有能であり美男美女が揃って推しカプを応援してくれる、というあまり無い読書体験をする事になった。

あと、聖唐人と速水真澄で好きなところ、『紫のバラのひとに卒業証書を送る』と言い出したマヤに同じような表情で引いてるところですね。


『ガラスの仮面』20巻より


『ガラスの仮面』20巻より


・劇団つきかげ+マヤによる、真夏の夜の夢の野外公演。
ここ、舞台は恐らく吉祥寺ですよね。吉祥寺の野外で発表される真夏の夜の夢、シチュエーション込みで作中の舞台で一番見てみたいです。劇団つきかげによる内容のアレンジも楽しそう。

この辺りで好きなくだりは、『月影先生の容態をネタにしてマヤを釣って、流れるようにボート二人乗りに連れ出す速水真澄』です。この頃のマヤはもうね~月影先生の容態か紫のバラのひとをネタにすればすぐ釣れちゃうんだろうね。


『ガラスの仮面』21巻より

・ふたりの王女

マヤと亜弓がダブル主演になり、月影先生も舞台に立つ『ふたりの王女』。オーディション〜舞台完結まで五巻かけているところといい、出演者といい、『ガラスの仮面・アベンジャーズ』といった趣がある。マヤと亜弓さんの関係性込みで、演劇漫画としての一番の山場はここになると思う。


個人的にツボに入ったのが、月影先生の指導でアルディスとオリゲルドのキャラクターを掴もうと必死になった末、二人して疲労困憊しているマヤ・亜弓さん(かわいい)と、息も乱さず立っている月影先生の強キャラ感です。

『ガラスの仮面』25巻より


でも、この編で不満に思うことがある。


『ダブル主演とはいえ、この話の主役ってどう考えてもオリゲルドの方だよね?』と言うことだ。


作品の敵役ポジの小野寺先生が、舞台中『ククク誰も気が付かんのか この舞台の主役がオリゲルドということに…!』と悪役笑いをしていたけど、ハイ…小野寺先生のおっしゃるとおりだと思います…という感想で終わった。こういうので敵役ポジの言葉がひっくり返されないケースあるんだ。
マヤがアルディスを演じて亜弓さんがオリゲルドを演じるという趣向自体はすっごく良かったので、もっと二人の存在感が拮抗しているダブル主役で対決するマヤと亜弓さんを観たいよ〜。

この辺りに限らないけど、小野寺先生は月影先生やマヤとは対立する立場だけど、亜弓さんに対しては正当に評価しているし、ビジネスパートナーとしてまっとうにいい関係を築いているなと思って…そのへん、すごくいいなと思います。

・『忘れられた荒野』編から黒沼監督が登場する。
黒沼監督、出た当初は『作品づくりが難航している時の庵野秀明』みたいな危うさがあったのに、出番がある度に態度がどんどん軟化していって、もうただただ頼れる監督じゃん……好きだ……となっていった。黒沼監督に『実は結婚しており、尻に敷かれ気味』という設定をつけてくれたの、ありがたすぎる。
私は月影先生の事をマヤの義理の母親のように思っているが、黒沼監督はマヤの義理の父親のようだなと思っている。演技の話では馬が合う親子みたいで、和む。

あと、『黒沼監督、主演マヤ、相手役桜小路』で稽古している姿がなんかすごくしっくりくるというか……落ち着く。ここまで色々あったけど、桜小路くんがずっと役者として活躍してくれるの嬉しいんだよな。

・狼少女を演じるマヤ。

『奇跡の人』の練習風景を見てる時から思っていたんだけど、野性味溢れる少女を全身全霊で演じるマヤを見ているとなんか、なんか……………………。心がザワザワするというか……………………、開けてはいけない扉が開いてしまいそうになるというか……………………。
ガラかめの作品は基本的に舞台で見たいと思っているんだけど、『忘れられた荒野』は監督:細田守でアニメ化してくれないかな……………………と考えてしまいます。

・この辺りで、速水真澄と鷹宮紫織の婚約が為される。

真澄とマヤの間にあるものって、『楽しさ』『面白さ』『かわいさ』とか色々あると思うんですけど、この辺から『切なさ』の比率がグッと高くなっていると思います。
婚約した事もあって自分の思いを伝える事はいよいよ出来なくなったから、『マヤを女優として大成させる事』のみを考えて、自分が悪役になっても色々働きかけてくれる……。『無償の愛』とか『献身』とかそういう類いのものをこれまで以上に速水真澄から感じて……切ないです。

台風の日の一件はまじで泣きそうになった。作中でも台風が猛威を奮っているけど、あの日に最大瞬間風速が一番高かったのは、速水真澄、お前だ


そして個人的にツボだったのが、速水真澄とのケンカの勢いで『おじさん』というワードを使うマヤ。この人は年の差を内心めっちゃ気にしてるから、本当にそういう事は言わない方がいいんだよ…!

『ガラスの仮面』30巻より

・紅天女編

・紅天女の里に行って稽古をしたり、月影先生の演じる『紅天女』をみんなで観劇したり、紅天女に向けて色々準備をする章。

『紅天女』の詳細が明らかになるにつれて、ガラかめの役柄のラスボス(概念)が紅天女になるのは、まあ納得だなあ~と思った。これまでマヤが演技の壁にぶつかる時って、『いかに普段暮らしている姿から遠い存在になるか』という事が問題になっていたから、抽象的な概念を含んだ人外である紅天女が最終目標になるのもわかるな……というか。

それはそれとして、私は『紅天女を観たい』というより、『梅の谷に観光に行きたい』という気持ちの方が強い。

ガラスの仮面は長期連載あるあるで絵柄が少しずつ変わっていて、キャラの絵柄は個人的には初期の方が好きなのだが、『背景美術』という点では紅天女編で美しさが極まっていると思う。視界一面が紅の里、本当に行ってみたいよ。

紅天女の舞台は……。『マヤと亜弓、どちらが紅天女を演じるか』というのがガラかめの大目標なのは理解しているけど……読者としては、月影先生演じる紅天女でまあまあ満足してしまった。というか、ここにきて源造さんの超絶技巧に驚いたので、月影先生×源造さんの紅天女こそが観たい、と思う。『鼓や笛の演奏をしつつ、語り手としての域を超えないままに一真の気持ちを表現する』って何だよ。現在は役者でもない付き人が持っていい演技力じゃないんだよ

速水父は速水真澄の回想からして鬼・悪魔・鬼畜・羅刹・外道の所業をした男なのに、月影先生演じる紅天女に心を奪われてるのは本当なんだなと思うと、なんか…一気に憎めなくなってしまう。ことガラかめだと、私は『演劇を愛している人』はなかなか嫌いになれないです。

あと、速水父→月影先生と、速水真澄→マヤで観劇してるときのリアクションが似ててじわじわくる。この二人は血が繋がってないけど、魂が親子だね……。

・社務所での真澄とマヤ……………

ここのシーン、本当に凄い。初期から『演劇要素』と『恋愛』の絡め方が抜群に上手い漫画だなあと思って読んでいたけど、ここで頂点に達した気がする。
このシーンはもう、『告白』ですよね。
社会的な立場で雁字搦めになった速水真澄は、マヤに想いを告げる事は出来ない。でも演劇の感想を伝える事は出来る。だから精一杯出来る事として、マヤの出演した舞台への愛を伝えるという。切なすぎる…………。自分は『告白シーン』というものがどの作品においても好きだけど、ここまで胸が締め付けられたのは初めてかもしれない。

真澄とマヤは、ずっと色んな衝突を続けてきたけど……ここで、誤解が解けて……、全部では無いにせよ、想いを伝える事が出来て……よかったな……本当に……と思いました。2023年12月現在でガラかめの新刊は11年出ておらず、真澄とマヤの行く末を見る事が出来るかどうかはわからないけど、この漫画に社務所のシーンが存在するというだけで、読んでて良かった……という気持ちになる。

・衝突する亜弓とマヤ。

社務所のシーンでも思ったけど、『連載が長いからこその展開』『もう終盤だからこその展開』だなと思って、寂しいけど胸がいっぱいになる~~~と思いました。この下りがあるからこそ、亜弓さんのキャラにぐっと感情移入出来るように思う。姫川亜弓、君よ気高くあれ(機動戦士ガンダム 水星の魔女EDテーマ)が似合う女……。

『ガラスの仮面』は作中作が舞台化されているものも多くあるみたいだけど、『ガラスの仮面』そのものの舞台を見るとしたら、梅の谷編を見たい。社務所のシーンと亜弓さんとマヤの喧嘩シーンが見たい。

そして……長いガラかめの歴史の中で百万回は言われてそうだけど、『魂のかたわれ』は亜弓さんとマヤの事で良くないか?と思った。

これはあくまで自分の感覚だけど、『魂が引かれ合っている』という表現は、同性同士の方が似合うような気がするし……。この人の期待に添えないくらいなら死ぬ!ってマヤが激情を抱く相手は、亜弓さんだし……。亜弓さんサイドも『私の運命…!』ってマヤを意識しているし。

こんな事を考えるのは、私が『(恋愛面で)魂が引かれ合っている』という概念をうまく理解出来ないからかもしれないが。


・東京帰還後、『紅天女』の試演のために稽古を続ける姫川亜弓、稽古中の事故が原因で失明しかかる。失明の手術を受ける事を勧められながらも、『試演には絶対に遅れる訳にはいかない』という判断で、失明の危機がある状態で紅天女の特訓を続ける。

最新刊に至るまで、亜弓さんはこういう状態で紅天女へ邁進している訳ですが……、『一心に特訓を続ける亜弓さんの尊さ』を感じるのと同じくらい、『頼んで試演を延期してもらって、失明の手術を受けてから試演に臨むのでいいのではないか』という気持ちを感じ続けていた。

いや、ほんとに……なんで亜弓さんも、特訓に付き合っている亜弓さんの母も、『試演を延期してもらおう』とは言い出さないのか。これがめちゃめちゃ引っかかる。受験でも無いんだから延期してもらう事は出来るんじゃないの……?自分が姫川亜弓のファンで、かつあの世界にX(旧ツイッター)が存在しているのなら、私は姫川亜弓に手術を受けてもらおうと必死で呼びかけると思う。#試演延期してください姫川亜弓 #手術を受けて下さい姫川亜弓

なんか、『悲壮な覚悟を持って紅天女へ臨む亜弓さん』を描きたいがために、登場人物の行動がおかしくなっていない?という引っかかりを感じてしまった。
『ガラスの仮面』はご都合主義・ごりおし・パワープレイで進んでいるところも多くあるのだが、その辺はマヤ周りに集中していて、亜弓さん周りはそんなに感じなかっただけに、ここにきて?????となってしまったな……。

でも、紅天女の神髄を掴もうとする亜弓さん自体の描写は好き。49巻を読み終わった現在時点だと、私は亜弓さんが紅天女に選ばれて欲しいと思っているよ。

・東京へ戻ってから、速水真澄とマヤは近づいたり……離れたり……紫織さんの妨害にあったり…………なんやかんやする。

この辺を読んでて思ったのは、マヤが『速水さんが紫のバラのひとと名乗り出るまで待ちます』と決めて、速水真澄が『紫のバラのひととは名乗り出ない』と決めている、という状態が……続くと……話が、全然進展しないのである……!という事だ。推しカプ、どちらも口が……堅いのである。それは本来喜ばしい事ではあるんだけど……。

真澄とマヤはなんやかんやあって思いが通じ合って(おめでとう)
それはいいんだけど、その直後に桜小路くんがショックでバイク事故を起こすスピード感に笑ってしまった。紅天女周り、怪我人とか病人とか多過ぎじゃないですか。でもガラかめ世界における怪我・病気=演技力バフという節があるから、桜小路くんもパワーアップした演技を見せてくれるんだろうと思うと楽しみ。


なんか、東京に戻ってきてから、自分がガラかめで好きな要素だと思っていた『演劇』と『恋愛』がうまい事絡み合ってる感が……私にはあんまり感じられなくて……。恋愛面で引き延ばしされてる感を感じてしまって……。
演劇要素が減ってしまったのは残念なので、黒沼監督と桜小路くんがしっかり演劇面で魅せてくれる事を期待している。本当はマヤのそれが一番見たいんだけど……。

・なんやかんやあって紫織さんとの婚約を解消しようとする速水真澄だが、紫織さんは精神を病んでしまい、婚約解消はうまくいかず。
このへん、紫織さんがあまりにもえらい事になってるので、『本当は絶対ダメだけど、この場にマヤを連れてきてえ』と思ってしまった。マヤなら極限状態の紫織さんを見てなんらかの演技へのヒントを掴んでくれると思うんだ。

・マヤへの気持ちを諦めようとする速水真澄を前に、自分がマヤをいただくと煽る聖唐人

個人的に聖さんがお気に入りという事もあって、えっ……なんか……そういう展開も、アリなの!!??とちょっとびびったが、速水真澄がシュッとした事により、秒で終わった。速見真澄と紫織・マヤとの関係はあんなにもグダグダしているというのに、なんでここはそんなスピーディなの…!?

そして、聖さんはこんな事を言っているけど…、聖さんの『愛している相手』が誰なのかというと…明言は無いけど、漫画から得られる印象からすると、マヤというよりは速水真澄なんだろうなと思う。でも自分は影だから伝えられない。その悲しさを知っているからこそ、自分の想いをマヤに伝えずに影になっている真澄がもどかしい。真澄には幸せになって欲しい。だから背中を押しまくり発破を掛けまくり、マスマヤの成就に向けて動きまくっているのでしょう。『紫のバラのひとについて名乗り出たくない速水真澄』の意思を無視するのは従者?としてどうなん?という気持ちもあったけど、こう考えると個人的には納得出来る…気がする。


それはそれとして、『聖唐人が自分が紫のバラのひととマヤに告げた世界線』も見てみたいんだよね。聖さんがマヤを好ましく思っているっているのは恐らく本当の事だろうし。

マヤは速水真澄を愛するようになったけど、そこには『紫のバラのひと』への愛も含まれているのではないか?という疑惑もあって…、今はもう紫のバラのひととは関係なく愛しているというようなモノローグもあった気がするけど…実際に紫のバラのひとは別人でした〜って言われた場合、少なからずバグるんじゃないか?という気持ちもある。どうなるの、マヤ?



そしてマヤが速水真澄の伊豆の別荘に呼び出されたところで、49巻は終わりました。それから11年新刊は出ていないようです。伊豆まで、遠い…。

一刻も早く伊豆に行って欲しいけど、一悶着あるんだろうな。何せ速水真澄の伊豆の別荘には「」がありますからね。絶対にサスペンス的な何かが起きるでしょう。失明の危険がある亜弓さん、怪我をした桜小路くんに続いて、マヤが何らかの欠損を負ったり……してしまうのか?あるいは速水真澄に何か起きるのか?それをかばって聖さんが…?とか、悪い予感しかしない。50巻が早く出て欲しいけど、なんか取り返しのつかない事が起きて読者である私が回復不可能なショックを受けるような展開になるのなら……このまま未完でもいいかもしれない。(弱いオタク)


『紫のバラのひと』について

49巻まで読んで、自分の推しカプがマスマヤになった上で、今一度『紫のバラのひと』について考えたいと思いました。※個人的妄想含む

・『紫のバラのひと』とはなにか


『紫のバラのひとの正体は誰か』=速水真澄です。ここは鈍いマヤですらもう察しが付いています。
でも、『紫のバラのひと』という存在には、もう一段メタ的な意味合い、役割があるんじゃないかな……とぼんやり思いました。

全巻読んだ上で考えると、紫のバラって、速水真澄のパーソナリティを端的に現している、めちゃめちゃ秀逸な小道具だなとしみじみ思いました。
人に対して愛情を伝える時、一般的に贈る花束といえば「真っ赤なバラ」だと思います。
でも、速水真澄は北島マヤに愛を伝えられない。社会的な立場の問題もあるし、自分自身の経験から来る問題もある。
そして、速水真澄と北島マヤの結びつきは、『人対人』だけではない。『女優とファン』という結びつきもある。

色んな感情が混ざり合って贈られているものが「紫のバラ」なのだ、私はそう捉えました。
その中でも一番大きく込められている意味合いは何なのか?それは、『観客』『ファン』という意味合いだと思っています。


ガラかめ49巻まで読み終わった時、この話の中で一番共感出来るのは、速水真澄かもしれない……。と思いました。
少女漫画のハイスペックな相手役で、『憧れ』の要素を煮詰めたようなキャラなのに、読んでいて自然とそう感じました。
何故かというと、速見真澄の持つ『観客としての感情』に共感したからです。私自身は役者として舞台に立った事は無いので、『観客』としての感情に一番胸を打たれました。

観客としての速水真澄の台詞で心に残るものが沢山あるんですが、都会のビル群の中でマヤに紅天女を演じろと言った後の以下のセリフが好きです。

「この大都会にいる誰もが紅天女なんて信じない 信じられない 紅天女は劇場の舞台の上にしか存在しない…(略)
マヤ…!おれに紅天女を信じさせてくれ…!」

『ガラスの仮面』43巻より

これ、『舞台を見に行く時の観客』の普遍的な気持ちだなと思った。
仕事とか家が決めた事とか、やるべき事に縛られている。本当の感情は人前では出せない。でも良い舞台を観ると現実から心が離れて、満ち足りた気分になる。そうなる事を祈って劇場に足を運んでいる。速水真澄と同等のスペックを持った人は中々いないと思うけど、これと同じような感情を持って舞台を愛している人はいっぱいいるんじゃないかなと思いました。

速見真澄がマヤとの関係をこれ以上続ける事が出来なくなった時、桜小路くんを相手にすると「彼女はきみのものだ」とか言えるのに、聖さんに「紫のバラのひとは自分だと名乗る」と言われたら衝動的に止めている。作品全体の価値観として、『演劇』>=『人と人・個人の関係』という位置づけになっているのかな、とぼんやり思いました。
49巻まで読んでの印象ですが、紫織さんが速水真澄の相手役になる事は無いと思います。何故かというと紫織さんは『紫のバラ』を傷つけている=真澄の演劇に対する思いまで諦めさせようとしているからです。このまま紫織さんと結婚したとして、真澄がマヤの舞台を観に行くのは無理だと思われる。紫織さんと真澄の結婚の問題点は他にもあるんですが、一番大きい問題はここだという気がする。

・B'zの『Calling』について

これは個人的な話なんですが、B'zが好きです。今年初めてライブも行きました(めっちゃ良かった)『Calling』という曲も歌われていた。音源の頃から好きだったけど、ライブでもう一段階好きになりました。

この『Calling』という曲についてなんですが、歌詞が結構抽象的です。『想いが通じ合っている恋人同士の歌』のようには…思えなかった。
じゃあ何の曲なのかというと、私は『B'zとB'zファンの、双方向に向ける愛を歌った歌』なのだろうと長年思っていました。
演者とファンの間に約束があるのかというと、厳密には無い。でも会いたいという気持ちがあればライブ会場で会う事が出来る。それは他の誰とも共有出来ない、特別な輝ける時間だ。そんな感じで解釈していました。

『ガラスの仮面』漫画を読んで、『Calling』がガラスの仮面のドラマ主題歌だった事を初めて知りました。それを念頭に置いてから聴くと……
これ、紫のバラのひと=速水真澄の曲じゃん……となった。

いや、最初に『Calling』の歌詞を見た時、薄々変だな~とは思っていたんだよ。『二人は離れていて顔を知らない』みたいなくだりがある一方で、『何故か今もいっしょにいる』というくだりもあって……この二人はリアルで会ってるの?会ってないの?とわからなくなる感じ。『真澄とマヤの歌』と考えると、その辺の疑問が一気に解決しました。稲葉浩志はガラスの仮面を読み込んだ上でこの歌詞を書いたんだろうな…と想像出来る。

それはそれとして、ガラかめもキャラも知らない状態で聴いた時は、『ファンと演者の歌』だと思っていたんですが…これ、あんまり間違った解釈でも無いように思う。紫のバラのひとが持つ一番の要素は、『マヤを応援する観客であり、ファンである』こと。そう感じました。

・何故鷹宮紫織の名前には『紫』の文字が入っているのか


真澄とマヤ間で重要な意味を持っていた『紫のバラ』というものがある前提で、名前に『紫』の字が入っている紫織さん。これは何か意味があっての命名なのだと思っている。

『紫のバラをバラバラにするから紫織』という意味もあるかもしれないが、私はもう一つ意味があってほしいと思っている。

『紫のバラ=観客』ということだ。

私は、最後にマヤの観客になるのは紫織さんになってほしいと思っている。


50巻以降こうなって欲しいという個人的希望


・私の推しカプは、真澄×マヤです。まだはっきり交際を始めたとか結婚したとか、そういった展開が来た訳じゃないけど、この二人は公式カプに近しいと解釈しています。社務所や船の上でのほぼ告白もすごく良かったけど、願わくば改めて告白しあって、男女関係として親密になった状態で物語が締めくくられて欲しいと思っています。

その一方で、『このまま真澄とマヤがくっつくのは嫌だな……』という気持ちもある。

何故かというと、最近のマヤの事が……あんまり好きになれないからだ。

自分は『演劇に夢中になっているマヤ』が何より好きだ。『速水さんとの関係に夢中になっているマヤ』もかわいいと思う一方で、『速水さんとの関係がうまくいかず、演技がうまくいかないマヤ』は苦手だ。そして、紅天女編に入ってからこの手の描写がとても多い。故に、ずっと歯がゆいと思っている。今のマヤよりも体育倉庫で演劇をやろうと決意した時のマヤの方が輝いていたと思う。この作品が終わりを迎える際には、マヤに作品一番の輝きを見せて欲しいと思っている。


何で体育倉庫の時のマヤが輝かしく見えたのかというと、『すべてを失った後でも自分には演劇があると思える姿』がまぶしかったというのがあるだろう。
故に、私は『すべてを失っても、演劇をやめないマヤ』の姿が見たい。
具体的に言うと、『愛した速水真澄=紫のバラのひとを失い、ひとりになったマヤが、それでも演劇をする』ところが見たいのだ。

この作品において、『紫のバラのひと』の存在はマヤの支えだった。マヤはあなた一人のためだけに演技をしてもいいと言っていた。
しかし私はこうも思っていた。
『観客が自分にとって不都合な人物であっても、マヤは演技をする事が出来るのか?その観客を感動させてしまえるくらいの演技が出来るのか?』という事だ。

『紫のバラのひと』は人格面からいっても素晴らしい人だ。そんな人の為に頑張りたいというマヤの気持ちは、わかる。
でも、マヤにとって受け入れがたい相手であっても、それが『観客』ならマヤには演技をやりきってほしい。
私はそういうシチュエーションが見たい。

つまり、この作品のマヤにとってのラスボスは『速見真澄を殺した後の鷹宮紫織』であって欲しい。

マヤに対する憎しみに心を囚われた紫織さん、マヤにとって憎い相手である紫織さん。そんな彼女を前にして、それでもマヤには紅天女の演技をして欲しい。演技してる場合か?ていうシチュエーションではあるけど……それでもマヤなら何とかしてくれると信じている。

でも、速水真澄が世界からいなくなるのはすごく辛いし、何だかんだ元々は優しい人だった紫織さんが取り返しのつかない罪を犯すのも辛いので、速水真澄には仮死状態になってもらう事とする。肉体的はほぼほぼ死んだものの、『紅天女を観ずには死ねない』と強く思った速水真澄は、魂となった状態でマヤの紅天女を観劇する。そしてマヤの演技の素晴らしさで蘇る。紫織さんもマヤの演技によって浄化されたため、真澄とマヤを送り出して、END。個人的にはこんな感じがいいです。



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