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金融教育と投資教育

 このところ、金融教育という言葉をよく耳にするようになった。岸田政権の新しい資本主義という看板も、いつの間にか「資産所得倍増計画」が中心となり、その目玉として「新たなNISA」制度が議論されている。そして、「貯蓄らか投資」への掛け声の中、金融教育もまた岸田政権の重要施策になってきている。それは結構なことだとは思う。但し、資産所得倍増計画と金融教育は本来は関係ないし、その答えがNISA改革にあるとは思えない。
私は、金融教育は極めて重要だと感じている。
日本の政治家は外交音痴であるとか、日本人は騙されやすく、グローバルな環境でタフな交渉ができないとか、色々と言われてきたが、私は常々その要因の一つは金融への理解が不足しているからと考えてきた。金融的な発想や視野が抜け落ちると、物事を立体的に総合的に見ることができなくなるのだそれほど、金融というのは重要なパーツなのだ。岸田政権のもとで、金融教育にスポットライトが当たることは大歓迎したい。しかし、ここで重要なことは金融教育とは何かである。金融教育は、株とか債券とかの基本的な知識を知ることではない。中学や高校でも金融教育が開始されるのだが、そもそも金融を教えることは非常に難しい。それは総合格闘技のように、何でもありであり、実に幅広い範囲に及ぶからだ。指定教科書に沿って、経験のない教師が教えられるような類のものでもない。へたな金融教育は、益よりも害のほうが多くなる可能性もあるだろう。
何回かに分けて、私が考える金融教育とは何かについて、取り上げていきたいと思う。

1.金融教育と投資教育の違い

まず、金融教育と投資教育は異なるということから、スタートしたい。この相違点を理解することで、金融教育とは何かの外観が掴めると思われる。

(金融教育と投資教育)

金融教育とは、何を学ぶのか?それは、我々が生きている、このお金を中心とした社会や経済システムのルールを知ることである。我々は生まれてくる時代を選べない。産み落とされた時代環境を変えることは不可能ではないかもしれないが、極めて難しいだろう。そのルールを知っている人は、知らない人よりも、経済面では有利な人生を送りやすい。現代においては、資本主義がこの世界の大半を支配する基本ルールの一つである。従って、資本主義とは、どういうルールなのかを知る必要がある。資本主義のルールとは、資本を出す人、リスクを取る人に対して、社会や企業が成長した場合に、対価が支払われるという仕組みである。現代では格差問題が深刻であるが、資本主義とはある程度、格差が生じるものだというルールを知るのが金融教育だ。何故なら、リスクを取る人が対価を得て、リスクを取らずに労働者として生きる人には、多くの対価が支払われないというゲームのルールが存在しているからだ。では、何のリスクを取るの?ということになる。そのリスクを取るためには、自分が生きる時代が、どういう時代に生きているのかを深く知る必要がある。今の時代が、環境などのESGに配慮した行動が求められるなら、そうしたことの反対側のプロジェクトにリスクを取るわけにはいかない。極端な例だが、こういう具体的な事象を分析していくのが、投資教育だ。

つまり、金融教育とは、まずは「知」なのである。その知をリアルな社会に適用する「動」的な実践こそが、投資教育の意義である。金融教育は、過去に目を向ける。中央銀行の金融政策を一つとっても、それは変化と改善の歴史である。世界で金融ショックが起こるたびに、中央銀行は進化し、政策手段の幅を広げてきた。例えば、景気後退が起こるたびに、金利を引き下げて、経済活動を支援してきた。しかし、世の中は低い金利に慣れてしまう。もっと金利を低くしたいが、金利はゼロ%が下限だと思われていた。しかし、日本の金融政策もそうだが、マイナス金利政策を採用したり、あるいは中央銀行が言葉で市場に様々なメッセージを発信することで、金利ではなく言葉でも経済をサポートするようになった。そういう変化を知ることが金融教育だ。ここで大事なことは、その中央銀行の変化の歴史を知るだけでなく、その中央銀行の葛藤や悩み、苦しみをともに考えることだ。それをベースに、では今の中央銀行が何を考えているのかを予測し、投資に繋げるのが投資教育である。

米国大統領選挙も、米国という国がいかに右へ左と極端にスイングしながら、いやスイングすることで健全さを保ってきたかを知るのが金融教育だ。スイングできるというのが、米国という国の強さでもあるのだ。そういう米国の特徴や歴史を知りつつ、2024年の大統領選についてリアルに想像していくのが投資教育だ。例えば、私は2024年には「米国のルネサンス」が起こるのではないかという仮説を立てている。このところの米国大統領は、オバマという黒人でリベラルな大統領が誕生したあとに、今度はトランプという極めて個性の強い米国第一主義を掲げる大統領が誕生した。そのトランプの後は、バイデンという米国史上で最年長の大統領が誕生し、今度は多国間主義を唱え、同盟国との関係強化を図っている。右へ左へとスイングしている。それでも米国社会の分断や政治への失望は日に日に増している。2024年は、いっきに若返りの大統領選になる可能性がある。もう有権者は、老人たちの醜い大統領選挙を見たくないのである。民主党からは40歳の気鋭ピート・プティジェッジ氏が登場し、共和党からは「実力も中身もあるトランプ」とも称されて人気急上昇中のフロリダ州知事のロン・デサンティス氏が登場するかもしれない。彼は44歳だ。民主党と共和党から、40代半ばの大統領が登場して、政策論争を行うのだ。それだけで、米国は高揚するだろう。米国のルネサンスの始まりである。そうした仮説をベースに、今の段階からどのような投資が有効かを考える。これが投資教育だ。

またセオリーを知ることも金融教育の重要な点だ。セオリーとは、例えば株式と債券の関係性や、金融相場から業績相場へ、業績相場から逆金融相場へといった景気循環の流れや、株価の割高や割安などの考え方など幅広い。自分が投資を検討している分野の金融教育を深めればいいだろう。なぜ、セオリーが重要なのか?それは、現実のマーケットは、セオリーを無視するからだ。セオリー通りに進まないからこそ、セオリーを知り、どれだけセオリー通りではないのか、どれだけ乖離があるのかを知ることが重要で、それが投資教育なのだ。

そして、金融教育の目的はと問われれば、それは強かに賢く生きるためだと思う。自分が生きている時代のルールを知り、その矛盾点などの理解が深まると、恐らく強かに生きられる。金融教育はサイエンスでもあるので、数字やデータでロジックをもって語られる。曖昧さや精神論はない。だからロジカルで説得力があるのである。外国人の交渉がタフだったり、上手だったりするのは、そういうことをよく知っているからだと思う。強かに賢く生きるとは、何事も思い通りには進まない世の中において、何を妥協するか、どこまで妥協していいのかの判断を下せるということだ。それには金融教育は非常に重要なのだ。そして、投資教育の目的は、「豊かに生きる」ことだ。自分の収入源、会社や国に頼らない収入を自分で作っていくことは、理念だけでは実現できない。失敗もある。だから出来るだけ若いうちに金融教育を学び、できるだけ早く投資教育を行い、実際の投資を開始するのがいいと思う。そして、金融教育も投資教育にも終わりはない。ずっと勉強だ。ゆえに、全ては同時並行だ。投資への最低限の知識を得たら、迷わずにどんどん開始したらいい。もちろん小さな金額からだ。そして投資をやることで、より金融教育、投資教育の関心や理解が進むだろう。私は、そう考えている。とりあえず、今回は私が考える大雑把に金融教育と投資教育の違いをまとめてみた。このシリーズは、不定期で継続しようと思う。

(おまけ)

マーケットを長年見てきて感じることは、金融教育だけでは、ただの理論家になってしまう。研究者や学者など、そこに価値を見出し、新たな価値を吹き込むことを生業とする人もいる。それは素晴らしいことだ。しかし、一般の人々は、やはり金融教育をベースに投資教育に結びつけることが重要ではないだろうか?金融教育+投資教育=リベラルアーツになる。レオスキャピタルの藤野さんのご著書で、たしか「投資は勝つか負けるか」ではなく、「勝つか学ぶか」だという言葉があった。その通りだと思う。私は20代の頃は銀行の為替トレーダーだった。最低限の金融教育は自然についてくるものの、とにかく目の前の為替の変動に飛びつき、1日に何百件も売買を繰り返して、収益を上げていた。そこに経済やファンダメンタルズなどほとんど関係ない。今買って、10分後には売却しているかもしれないのだ。10分で世界は何も変わらない。そんな日々を送って何年か経過したときに、ふと気がついた。「スキル以外、何も蓄積していない・・・」、「勝てなくなったら、俺の価値はゼロになってしまう・・・」結構恐ろしい気づきだった。それから、少しづつ市場との関わり方を変えていった。それが間違いでなかったと感じたのは、為替ディーラーを卒業し、銀行員として中小企業の経営者のコンサルみたいな仕事に配属されてからだ。中小企業の経営者には立派な人が多い。歴史や哲学などへの造詣も深い。そういう方々と話すときに、私は市場を通した見方や意見など、恐らくはちょっと違った観点からの会話ができたのである。いろいろ可愛がってもらったものだ。何が言いたいか?金融教育と投資教育を高めると、恐らく投資という個人的なこと以上の恩恵がある。どんな職種の仕事についている人にも、恐らく仕事の質を高めるポジティブな効果があると思うのだ。日経新聞を読んで、それをそのまま信じてしまうことと、あれ?おかしな記事だな?と読めるのとでは、色々な仕事の局面での判断や対応が変わってくると思うのだ。金融教育なんてやったって、市場で勝てるわけではない。それはその通りだ。教育で勝てるなら苦労はない。また、実社会を通じて、金融教育なんて受けていなくても、より深く金融を体験している人もたくさんいる。本質を掴める人たちだ。実社会と金融は強固にリンクしているので、自分の仕事を頭で考えて真剣に取り組んでいる人は、自然に金融リテラシーも高くなるのは当然なのかもしれない。また日々の相場の変動だけにフォーカスして、とんでもない金額を稼ぎ出している人もいるだろう。それは、素晴らしいことだ。しかし、だから若者に金融教育、投資教育は不要だということにはならない。金融教育の目に見えにくい恩恵は必ず存在する。私はそう信じている。次回は、金融教育+投資教育=リベラルアーツについて取り上げたいと思う。  (終わり)

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