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「ものづくり」とかいっちゃって

先に断っておくと、私は、製造業が好きだ。ものをつくるって、本当にすごいことだと思う。子供のおもちゃからロケットまで、夢を与えてくれる。今の仕事も、製造業のお客様が喜ぶ姿を見たくて、やっている。

昨日、製造DXをテーマにしたWEBセミナーに参加した。とても有意義な話だったが、何か違和感を感じた。果たしてそれで、いいのか。間違っていないか。

悶々としながら今日、ある方と長電話。この方は、本当にすごい、エネルギッシュ。ひと回りも上の方だけど、すごい。営業としてリスペクトする方だが、ものの見方が俯瞰で見ておられて、かつ具体的になるので、話を聞いていて単純に面白い。少し言葉が過ぎるけれど。

「ものづくり」という言い方がいつから言われだしたのか、少しググッてみた。どうも90年代後半から、日本の伝統文化の延長線上に製造業を置いて言われ始めたらしい。なるほど。日本の低成長と軌を一にしているのだな。

人はなにかにしがみつきたい欲望があると思う。私も、しがみつきたいものがある。自社のブランドだったり、家族だったり、オーケストラだったり。一方で、しがみつくことがダサいなぁ、カッコ悪いなぁと感じることもある。そのしがみつきたい対象が、概念化された「ものづくり」なのであれば、それを一度取っ払う必要はあると思う。しがみついた対象が未来永劫の繁栄と幸福を約束してくれるのならいいが、そんなものはない。いつの世もないはずだ。それは、まさに幻想だろう。宗教ともいえるかもしれない。

その文脈で「ものづくり」を一度、こき下ろしてみる。別に、今や日本より良いものをつくる国はたくさんある。メイドインジャパン神話は既に崩壊している。我々が「ボーダフォンって、あったねー」というように、世界の人は「メイドインジャパンって、あったねー」と言っていると思う。グローバル競争に晒されている自覚が日本にはそもそも薄い。そのこと自体も問題だが、「ものづくり」のワードによって、その無自覚を加速させることに繋がっていないか。

「ものづくり」に込められた思いを語ることで悦に入ることを止めはしない。何なら10年前は私もそうだった。ただ、もう時代が変わった。変化についていけているか。悦に入っているうちに、アメリカや中国や東南アジアに全て持っていかれないか。もはや韓国には足を掬われていないか。「日本の」とか、「日本って」とか、「日本すげー」とか言っちゃうことで、傷を舐め合っているだけではないのか。

ものづくりを支援する仕事をしていながら、天に唾することを書いた。ただ、このモヤモヤした不安を、払拭したかっただけだ。日本の製造業には繁栄して欲しい。そのお手伝いもしたい。ただただ、現状維持バイアスと同調圧力と親方日の丸のもたらすこの、じめっとした閉塞感を打破したい。生温い優しさはそのままに。

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