スーパーミラクル上智生

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ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を読んでみた〜マイルズは単なる被害者ではない!?

※レポートを加筆修正して公開しています ○序論  ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(注1)において、マイルズとの話し合いにのぞむガバネスは次のように思案する。  「今ここで私が感じたことはーそれを何度も何度も感じているのだがー私の平衡は、自らの厳格な意志、すなわち、対処しなければならない忌まわしくも、自然に反した真実に対し、可能な限りしっかりと目を閉じるという意志にかかっているということだった」。(ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』第22章、拙訳)。  ここでいう「自

    • 記録と抵抗の場としての日記ー川上未映子『乳と卵』論

      ※レポートを加筆修正しました ○はじめに    川上未映子『乳と卵』(注1)は、一人称の語りに日記体が混在する構成がとられている。一人称の語りは夏子(「わたし」)が、日記体はその姪・緑子が担う。約半年前の母・巻子(夏子の妹)との喧嘩から、言葉を発することを自ら禁じた緑子は、第二次性徴に伴う身体の変化への嫌悪(生理や乳房の膨らみなど)、将来への漠然とした不安、母親への両義的な心情などをノートに日記として書き連ねる。  『乳と卵』では、豊胸手術のために緑子を連れ大阪から東京の

      • 髑髏が語ることーハンス・ホルバイン《大使たち》について

        ※本稿は大学のレポートを加筆修正したものである ①はじめに  15世紀に誕生した透視図法(遠近法)は、絵画空間がまるで「いま、ここ」に出現しているかのような感覚を鑑賞者に与えることで、絵画空間を「一つ」の空間として確立することに成功したと言ってよい。しかし、ある場所を「一つ」の空間とみなす時、単一な視点では決して捉えることが出来ない種々の有り様が払われているのではなかろうか。では、「一つ」の空間にその複数の可能性を再び招き入れるにはどうすればよいのだろうか。換言すれば、成立

        • ソフィスト!アゴーン!古代哲学!

          ※本稿は大学のレポートを加筆修正したものである 課題1:ソフィストについてまとめる    ソフィストとは、前五世紀頃の民主主義的な国家であるアテナイを中心に現れた職業知識人である。代表的な人物として、ゴルギアスや人間尺度説を唱えたプロタゴラスがいる。  言論の力が政治的影響力を獲得していく中で、彼らは主に青年に弁論術を教えることで金銭を得ていた。弁論術は相手を説得することに重点を置くため、「自分が真実だと確信していることを語ることでもなく(中略)相手に応じて異なることを、

        ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を読んでみた〜マイルズは単なる被害者ではない!?

          『ソクラテスの弁明』にみられるロゴスとアロゴスの関係性

          ①問いの設定    本稿は、『ソクラテスの弁明』において、論理や対話に代表されるロゴス(理性)とそれに反する神霊や神託に代表されるアロゴス(非理性)の関係が、どのように描かれていたのかを明らかにすることを試みる。  一般に、哲学はロゴスの営みであると理解されているように思われる。(注1)しかし、『ソクラテスの弁明』にも描かれているように、哲学の起源ともされるソクラテスは、デルフォイの神託やダイモーンに代表されるアロゴス的なものとも関係を持っている。その態度の不可解さは、

          『ソクラテスの弁明』にみられるロゴスとアロゴスの関係性

          柄谷行人と東浩紀

          ※本稿は大学での発表に加筆修正したものである ①はじめに  本発表は、柄谷行人と東浩紀の「他者」観を比較することで、東の「他者」観を明らかにし、その新規性及び臨界点を提示することを目的とする。では、東の「他者」観を考える上で、なぜ柄谷との比較が必要となるのだろうか。 ここで、『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀、ゲンロン、2017年。以下、『観光客の哲学』と表記)の冒頭を想い起こすことは有効であろう。そこで東は、『観光客の哲学』の序章的役割を果たしている『弱いつながり』を参照

          ぼくがカリスマ批評家になるまで日記1

           大学にも慣れてきたので現状報告的な日記でも書こうかなと思ったので、なんとなく書きます。  最近のぼくはといえば、入学早々フランス語を落とし、発表原稿はその日の朝に作り徹夜で発表するという、まあまあに終わった典型的な私文大学生をやっています。ただまあ、ぼくが最も影響を受けた批評家・東浩紀について発表することになっているので、それは頑張りたいと思ってます。    思い返せば、ぼくはカリスマ批評家になりたいといいつつ、完成した批評を一度も書き上げていません。なので、先ほどの東浩

          ぼくがカリスマ批評家になるまで日記1

          『批評の意匠と哲学に憑いた幽霊』

           ひとを探求へと誘う奇妙な魅力を持つ言葉がある。その言葉が意味することははっきりとしないにも関わらず、なぜかそれに魅了され、その言葉の意味を探ることに憑かれてしまうような体験。そのような体験抜きには語れない言葉があるとすれば、ぼくにとっては東浩紀『存在論的、郵便的』の第一章タイトル「幽霊に憑かれた哲学」がそれだ。  『存在論的、郵便的』を買ったのは冬に地下街で催されていた古本市だった。当時高二だったぼくは、サブカルチャー分析に関心があったため東浩紀を『動物化するポストモダ

          『批評の意匠と哲学に憑いた幽霊』

          透視図法試論ー視覚的無意識の手触り

           美術評論家・高階秀爾は、16世紀~17世紀の日本で盛んに描かれた、京都の市街及び郊外を俯瞰する《洛中洛外図》のジャンルに属する屏風の表現に、西欧とは異なる「互いに矛盾するさまざまな価値の共存を認める日本文化の多元性」(★1)を見出している。高階によれば、《洛中洛外図》は、「写真のようにある特定の瞬間に一つの固定した視点から対象をとらえることを前提」(★2)とした遠近法(透視図法)や明暗法といった西欧的絵画技法とは対照的な、「自由に移動する視点から眺められた対象を並置する手法

          透視図法試論ー視覚的無意識の手触り

          自己紹介

           このnoteでは主に批評(ここでは哲学的文章や文学作品の読解,芸術鑑賞,日常の経験などから構築された自らの思考を綴る文章群をさす)をあげていく予定です。そこで、ぼくがどういう背景を持った人物なのかを少しでも知っておいていただけていると、ここでの批評により親しみを感じていただけるだろうということで、自己紹介の記事を最初に書くことにしました。(大学アカなので大学デビューという側面もありますが…)  まず、なぜぼくが批評に興味をもったのかについて。ぼくが人文的な文章を最初に読み始

          はじめまして

          こんにちは。これから色々な文章を公開していく予定です。