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note民よ!大層なタイトルをつけるならそれ相応のテキストを提供しろ!

今日のBGMは坂本慎太郎。
かつてゆらゆら帝国のフロントマンとして活躍した坂本慎太郎のソロ音源である。
ゆらゆら帝国の最終話「空洞です」から脈々と続く文脈は、捉え所のない文学作品を喰むような味わいを持つ音楽です。

さて7本目の記事になります。
今日はこの2週間で感じたnoteアプリのファンチ的感想を綴ってみたいと思います。

noteの読者の立場から敢えて言わせて欲しい。読み応えのない分量のテキストをあげるな!せっかく題材に向けて読み手としてのエンジンがかかってきたと思っても、起承転結の起の分量にも達していない、肩透かしな、タイトルだけ大層なテキストをあげないで欲しい。至極不完全燃焼になり悶々とする。射精のないSEXみたいなもので、がっかりする。大層なタイトルと書き出しから、ある程度の読み応えを期待するのに、あんまりにも短命に終わってしまう文章が多すぎる。無料で読めるものなんてそんなものだよと言われてしまえばその通りなのかもしれないが、それにしてもあんまりだと思う事が多すぎる。9割9部位の割合で肩透かしを食らう。あんまりだ。
noteのアプリを入れる前、Twitterで紹介されたもの(バズっているテキストと知人の書いたテキスト)しか読んでおらず、それは私の期待通りにしっかりと重量感のある作ばかりで、noteとはそういうテキストの集まる場だと期待しすぎていた。ところが、実際に触れてみれば、大多数のテキストがそうではないという悲しき事実。私は何度か書いている通り、4000字(原稿用紙10枚分)位を一つの記事の目安にしている。noteを投稿したことのある人なら右下に、今書いているテキストの文字数が表示されている事を知っているだろう。これが3500くらいになったあたりで、そろそろまとめに入ろうかという気になり、すぐに終わる事もあれば、言い訳にプラス1000字程度有してしまう場合もある。
4000字を目安にするのには感覚的な理由がある。大体短編小説と呼ばれるものは4000字以上からスタートする。40枚(16000字)くらいの分量があればそれなりに読み応えがある作品と言えるだろう。でも40枚となると結構な集中力を持って挑まなければならない。私のような駄文でそんな集中力を向けて貰うのは実質難しい。なので起承転結を最低単位で表現できる4000字位(必ずしも起承転結を意識しているわけでも、表現できているわけでもない)を目安にしているのだ。自分自身がテキストを読んだ時に納得できる分量と言えばいいだろうか。

テキストをアップするようになって2週間弱。これまで長いテキストを書き、発表する場に恵まれ居なかった事から、書きまくってアップしまくっている。しかも匿名。言いたい放題である。
何十年もインプットだけを続けてきて、アウトプットは友人と喋る愚痴程度だった私にとって、noteという場は水を得た魚状態。いつまでこの勢いが続くか、どうせすぐ近い将来ネタ切れになり、noteアプリも開かなくなるんだろうなとは思うけど、まだ書き続けたい意欲があるらしい。
1週間と少し、6個の記事を挙げて気がついた事が幾つかある。タグとタイトルの重要性だ。まず表示させたい分野を適した物にする為にタグは大事だ。Twitterであれば、検索ワードなので必ずしもタグをつける必要はない。しかもTwitterなら検索に引っかかった記事の全文が検索結果に表示されるから、サーっとスクロールするだけでどんな文脈の記事が多いか判断できる。
noteは過去自分が書いた記事のタグや、♡をつけた記事の関連タグから、上位五つの記事が表示されるようだ。表示されるのは、タイトルの頭から30字程度と見出し画像である。
この頭から30字程度のタイトルと、見出し画像で興味を持って貰えなければ、本文を目にして貰う機会には恵まれない。興味を持って貰って尚且つ記事をクリックしてもらわなければ、未来永劫本文が人の目に触れるということにはならない。ということは、まずこの二つに命を賭けなければならないだろう。
見出し画像はイラストを描く趣味があるわけではないので、画像。引きこもりの為、自前で用意する甲斐性はなく、必然的に拾い画となる。タイトルを象徴する画像があればそれを、なければ今回のように動物の力を借りようと思う。マイナスに作用することはないだろう。それにしても、ぬこかわいい。

タイトルは本当に難しい。本旨をタイトルに持ってくることが誠実な態度と言える。しかし、それが人の注目を集めるものと一致するとは限らない。新聞各社の釣りタイトルを見ると、その読者層が興味を持つであろう内容に焦点が充てられている事に気がつくだろう。前述の通り、必ずしもそれが本文の趣旨を示しているとは限らない。本旨とは違う枝葉の内容にクローズアップされてるどころか、本旨とは全く違う意図を示しているものまである。常習的だ。それはインターネット文化が成熟する過程で、一つの文化として成り立ってしまっているようにも思う。
そういう記事に当たるたびに、不誠実だなあと思う。けれども、私の興味を引き記事をクリックさせなければ、読むには至らない事実もある。軽く私をピキらせて、あるいは純粋に知りたいと思わせて、得する情報だとミスリードさせて、など何かしら琴線に触る内容を想像させなければ本文に繋がるクリックをされることはないのだ。
さて、翻って自分自身のことを考えてみる。上記の事実を踏まえ、どのような態度でタイトル表記に臨むか、見解をまとめなければならない。
必ずしもテキストの質(内容)で、読者の満足を得られるとは限らない。宛もなくノープランの勢いで書き始めたテキストに群に、何らかの共通点を見出し、なんとか一つの記事にする、の繰り返しだ。こんなの相手のある性交渉ではない。まるで何も生まない自慰行為に他ならない。せめてもの償いとして、量的には満足頂けるよう、4000字を目安に何とか日本語を書き連ねている。
私は致命的な事に、リズムのあるテキストというのが上手く書けない。リズムのある文章であれば、一度その波に乗ることができれば、内容がなくとも心地よく文末まで運んでくれる。
この間Twitterで、長文を読めない人が増えているという内容を目にした。確かに内容ではなく、長い事を指摘され、多分最後まで読んで貰えてないのだろうと感じるシーンはままある。でもそれはTwitterという限られた量に収める事を前提にした文化を背景にしたものであり、noteとは求められる土台が違うだろう。Twitterと比較すれば、長いテキストを読んで貰える土壌はあると思う。というか、量的に位、要望に応えてくれよと思う。だから、最後まで読む読まないは読者に委ねるとしても、読み応えのある量位は提供しようと思う。
と、ここまで2635字であります。
よくもまあ同じ内容を、右から左からちょんちょん突いて、いつまでも前にも後ろにも進まないまま、同じ場所で足踏みを続けているものだと思う。
私は、リズムのあるテキストも、ユーモアのあるテキストも書けない変わりに、いつまでダラダラと長く書き続ける能力だけ与えられたのだから、存分に発揮しないわけにはいかないじゃないか!草

さて、そろそろタイトルにどういう姿勢で向き合うか決着をつけていかなければならない。
よく就職活動対策に、新聞のコラム欄の要約を◯文字で毎日まとめるという定番の課題がある。限られた文字数で要約を纏めるというのは結構難しい作業である。それは大前提で置いておこう。私にその要約の才があるとは、とても言い切れない。
まあ某新聞のように、完全な擬似餌釣りタイトルを繰り広げるなら、それはそれで開き直って闘いようはある。だが私は流石にそこまで汚くなれない。
起承転結もない、ただダラダラと長いだけの文章に何を勿体つけるか!と、お叱りを受ける事であろう。内容の意図とは全く違う釣りタイトルであっても、クリックされる事が正義と考えるなら、それはクリックした私の負け。完敗である。釣りじゃないかと思いながらも、最後まで記事を読んでしまえば、相手の術中に完全に踊らされているわけである。貧乏症のわたくし、一度読み始めたテキストはどんなオチになるのか確かめずにはいられない。釣りだ、タイトルと内容が違うと判明しても、つい最後まで読んでしまう。できるだけ一次資料に触れ、要約ではなく全体を見ることでミスリードを防止する。歴史について興味を持ち、事実関係を知ろうとした経験があれば違和感のない感覚だと思う。一部だけを読み、ミスリードしたまま声を大にするような恥ずかしいことをするくらいなら、そのことについて全く知らない方がずっとマシである。

また脱線した。
そんなわけでね、全くの擬似餌を使うのは性に合わないので、やらないとしても、一回でも多くクリックしてもらえるように、工夫していこうと思います。
それを繰り返しで行くことで私の記事なら、アップされれば読んでやろうか、と思ってくださる方が1人でも増える日を夢見て。

ところでトップ画のぬこ様可愛すぎんか?めちゃくちゃ気に入ってるスクショであります。

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