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Matthias Bitzerの「canary chorus」を鑑賞する

とある非常に寒い1月の会社帰り、Matthias Bitzerというドイツ人のアーティストの展示を観に行った。普段行かないエリアにある土曜日も開いているギャラリーなので、ダンスのレッスンの後にゆっくり行ってもよかったのだが、なんせ繁忙期のため、ストレスが喉元まで出かかっていて、「もうだめだ、芸術鑑賞しないと吠えそう」という爆発までのカウントダウンが始まっており、友達の誘いを断り、一人、夜霧の中、見知らぬギャラリーへの道を歩いた。

前置きするが、今回の展示のタイトルは"canary chorus"(カナリアの合唱)という。
下に展示の説明を付けるが、それだけだと「えっ?カナリアの鳴き声?!シマ子さん、ひょっとして、ストレスがたまって頭までおかしくなっちゃったんじゃない?」と思われかねないので、そこはちゃんと前置きしておく(笑)

空気は息苦しく、カナリアの鳴き声は次第に弱々しくなっていく。そのさえずりは酸素とともに衰え始める。ここには永久的なものなど何もない。安定とは、無限に直面する有限の心の幻想にすぎない。

人間はあまりに短い人生を生きているため、現実を規制し、安定させられると錯覚している。人間はエッジをたどり、決定する必要があるが、それは絶えずエッジを再定義することでしかできない。一瞬よりも長い間、決定的な秩序を確立しようとする願望は、人間を欺くことがいかに容易であるか、そして人間自身を欺くのがいかに人間であるかを教えてくれる。

あらゆるアイデンティティーは、絶えず自分自身を構築し、解体せずにはいられない。一度自分の姿を認識できるようになった子供は、他人の中にその姿を探すことを止めない。彼は、自分に影響を与えたものと、自分自身が影響を受けたものを区別できるようになるのだろうか?

奈落の底を覗き込まないように、彼は死ぬまで身をくねらせ、形を変える。突然の方向転換が繰り返されると、どんな掌編も判読不可能になる。削除、修正、重ね合わせは、「ないもの」が「あるもの」として彼に現れたとしたら、彼がどんな人間であったのだろうかということから、彼をますます遠ざける。

チェス盤の騎士のように、黒から白へ、あるいはその逆へとしか動くことができず、一直線に進むことができない。

群衆の中で、途切れることのない視線と反射のゲームの中で、現実と想像の狭間で、私たちのこだまが反響する。大勢の中で、アイデンティティーは再構築され、仮面は定義される。しかし、もし誰も自分の姿を見ることができなくなったら、どうなるだろうか?

展示についての英文の説明書きを自動翻訳

なんというか、哲学的と言うか詩的と言うか、わかるようでわからない説明だと思う。何回か読み返してもやっぱりわからなくて、次第にカナリアが頭の中で鳴き始めて、ピピピピピ、ピピピリピ、ピピリピッ、ピリッピィーッ、ピッツピッ、ツ、ツ、ピーッ…ぱたっ、と突然、思考回路が停止して眠ってしまいそうな趣きがある。

そんな哲学的なMatthias Bitzerとは、については下をご覧いただきたい。

Matthias Bitzer 1975年Stuttgart生まれ。
カールスルーエ美術アカデミーを卒業し、ベルリンを活動拠点としている。
目に見えないものと現実との関係に魅せられ、ドローイング、彫刻、絵画を組み合わせた彼の芸術活動は、歴史や知識人への強い言及と、そのアイデンティティーへの深い考察を伴い、肖像画と幾何学的な構築物の組み合わせによる体験空間を創り出しており、彼曰く、"新リアリズム"という部類に属している。鑑賞者はその中に没入することができる。

英文の経歴を抜粋・翻訳

彼のHPとドイツ語のYoutubeも1つ載せておこう。
個人的には、作品もさることながら、本人自身もかなりイケメンなアーティストだな、と思う。

では作品へ移ろう。
こちらのギャラリーも、作品の説明が一切ついておらず、タイトルがわからないので、そこは各々の哲学的要素、詩的感覚で想像してみていただければ、と思う。

なんとかビームみたいなやつ(笑)
こっそりのぞいて自分を写したり下から見たりすると別の景色が広がって面白かった

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