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中央分離帯のエゴ。

中央分離帯ってシュールですよね。

高速道路で渋滞したとき、
「ちょっと大きめの中央分離帯なら、人って住めるだろうな」
って考えちゃう派です。

「でも食べ物の調達は、命懸けだよな。サービスエリアまでいくしかないけどな」とか、考えながら、道路公団にやとわれた人が、草を刈ったりしているときには隠れなきゃいけないし、スマホは太陽光で充電しなきゃいけないし、どう考えてもリスクしかない、この中央分離帯に住もうとは、誰も思わないな、と結論をつけるんだが。

でもまた別の日に、ちょっと良さげな中央分離帯を見つけると、ここはいけるんじゃね?とか、無駄に考えちゃうんだよなあ。水確保できるかな、雨水しかないかー、とか。

なんかこう、ポツンと一軒家的なことをする勇気はないし、自給自足に憧れているのではなくて、誰もいない場所で、こっそりと生き延びてみたい欲求があるんだよね。

或いは、何らかの理由で追われる立場になったときに、日本のどこに行こうか、とか。友達とか家族が類推できない場所、縁もゆかりもない土地だとしたら、やっぱり島根だよなあ、っていつも島根を推して、妄想をやめたり。

そしたらもう、島根県の高速道路の中央分離帯が最強なのでは!と閃いて、少しだけ身体がふわっと浮くような高揚感を得てみたり。

そんな、ばかばかしい妄想をしてしまうのが、高速道路で渋滞に耐える一般ドライバーだと思うんです。

そして、もし俺の寿命が尽きて、生まれ変わって別の生き物に転生したとしても、中央分離帯に植えられた樹々にだけはなりたくないと強く願うのです。あの、ニンゲンのご都合によって植えられ、粉塵にまみれ、誰からも見向きされない、悲しい生き物。

ところで、「涙の数だけ強くなれるよ。アスファルトに咲く花のように」って歌詞があるけど、あれって、勝手に土をアスファルトで固めておいて、その隙間から生えた草に感動するって、ニンゲンのエゴすぎますよね。あの歌は国民的な人気を得た歌だけど、あの歌詞だけはどうも腑に落ちない。

なんていう、植栽への同情や憐憫の気持ちがあって、僕は、中央分離帯に住む妄想が止まらないのかもしれません。でもま、そんな人間のエゴから目を背けることができない自分が嫌いじゃないです。

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