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バーフバリ 伝説誕生/王の凱旋

『バーフバリ 伝説誕生』(2015)
『バーフバリ 王の凱旋』(2017)

『RRR』でS.S.ラージャマウリという監督を知って、
『RRR』の興奮の余勢をかって、熱狂的に観た。
 やはりすごい。
RRRでは、舞台は1900年代前半だったが、バーフバリシリーズの舞台は
もはや、年代すらわからない伝説の中が舞台。

 そこで描かれるのは、バーフバリの名を冠する親子(二人ともプラバースが演じている)の物語。この親子、肉体的にも精神的にも超人的で、完全善の存在である。ほとんどすべての民が、バーフバリを求め、その期待に応えるバーフバリ。『RRR』でもそうだが、ラージャマウリの映画は、ここまでの超絶主人公に感情移入するようにはできていない。感情移入するには主人公が超絶的すぎるのだ。そこに神を投影し、神々の戦いを観客は怖れと興奮をもって見守るようにできている。その体験が、妙に心地よい。

 もちろん『RRR』よりも前の作品だが、アクションの独自性は健在。バーフバリ1(伝説誕生)では、自分が伝説の王の血を引くとも知らないバーフバリ(子)が、滝から落ちて来た仮面の主を求めて、滝を登っていくシーンで15分くらいかけたところで度肝を抜かれた。
 考えても見てほしい、ただひたすら滝を登るだけで15分。多少の退屈は否めないところだが、これが不思議なことに退屈しない。退屈しない自分に驚く。
 バーフバリ2(王の凱旋)では、王の責務に目覚めたバーフバリ(子)が城攻めをする際に、5人くらいで円になって、盾を外側に構えて砲弾になって、投石器で飛んで城の中に着弾するシーンに笑ってしまった。
 考えても見てほしい、人間投石器である。盾で着地してバウンドして無傷みたいなシーンで、流石にリアリティの警報が鳴る。バーフバリがやることだったらなんでも受け入れる気持ちにもうなっているが、バーフバリ以外は普通の兵士が投石器で飛んでいく。普通の兵士となると、それはやっぱり「んなわけねーだろ」という気持ちがふと浮かんでしまう。けど、口は「うん、なるほど。その手があったか」とつぶやいている自分に驚く。

 この荒唐無稽なアクション大作に、正しい伝説の色合いを与えている要素として、そのストーリーがある。シヴァガミという女性の太守からバーフバリ(父)への王座の遷移があり【母から子へ】、バーフバリ(父)の兄の王座の簒奪と、バーフバリ(父)の殺害がある。
 そして、産まれてすぐに捨てられた、王の記憶を持たないバーフバリ(子)がいて、バーフバリ(子)は父の悲劇の伝説を伝えられ、王座を簒奪した父の兄を殺し、自分の母を救い、元々の父の王座を奪還し、王として戴冠する【父から子へ】。

 この母権性社会→父の宗教→子の宗教という変遷は、S.フロイトの名著
『トーテムとタブー』に描かれた、失われた古代宗教の誕生と変遷を精神分析的に推定した権力の流れに見事に一致する。フロイトは、ユダヤ教からキリスト教へという宗教の歴史を「父(神)の宗教から、子(キリスト)の宗教へ」の変遷と分析している。そして、キリスト教の言う「原罪」の起源を、この時の神殺し(父殺し)に求めている。これは、『シン・エヴァンゲリオン』でも扱われたテーマだ。

 この、人間の根源的な無意識層に横たわる物語を、ラージャマウリは独自のアレンジを加えながら、見事に映画の中で描き切った。それが、この荒唐無稽な物語に、伝説としてのリアリティを与え、観客をぐっと感情移入させたのではないかと考えた。


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