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離婚道#11 第2章「主役降板」

第2章 離婚ずっと前

主役降板

 それは吉良雪之丞と出会って5カ月後の平成13(2001)年8月のことだった。
 門前仲町の私の部屋に、雪之丞が来るという。私はワインと食事の用意をして待っていると、紺地に白の亀甲文様の越後上布じょうふ(※⑬)に藤布ふじふ(※⑭)の帯を締めた雪之丞が、真っ白いテッポウユリの花束を手にやってきた。
「わぁ~、すごいねぇ!」
 カサブランカなら2本もあれば豪華な花束になる。しかし細長いラッパ状に開く一輪咲きのテッポウユリの場合、数本ではさまにならない。10本ものユリがきれいに束ねてあった。
 私の歓喜には無反応のまま、雪之丞は部屋に入ると、ユリを手渡し、
「結婚しよう」
 私は「はい」と即答したのである。
 ……なんでやねん! いま思えば、全く信じられない。
 人生の大きな決断なのに、私は思考する間をまったく持たなかった。
 プロポーズの予感はあった。そういう流れの中にいたのだ。結婚で新たなステージに移ることがわかっていたし、ただただ胸が躍っていた。
 まあ、いい。結婚とはそういうものだろう。つきあっているカップルが、勢いで入籍することはよくあることだ。
 問題は、仕事。
 とくに私の場合、長年の努力の末、そしてコケの強い念が天に通じたのか、実力以上の結果を出して、奇跡的に勝ち取った「新聞記者」という職業であった。しかも、記者歴8年、社会の木鐸たる記者の王道から外れていたものの、執筆量など紙面への貢献度から、独自路線で評価される満足感を味わっていた。よって、記者の仕事をどうするかについて、いつくかの問答があったことはあった。
 まず雪之丞は、自分の稼ぎがあることを説明し、生活の不安がないことを強調した。
「私には東京と京都を中心に大鼓の弟子がいるから、その月謝がある。雪花堂で教えている吉良流身体操法の受講料もある。それに、学校や企業の講師として舞台理論を教えているし、いくつかの高校の特別授業やクラブ活動で能楽理論を教えている。契約している企業や団体からの顧問料もあるから、毎月の収入は安定している。舞台のプロデュースや監修の仕事は順調だし、こっちの収入の方が実は多い。だから経済的には、まどかの生活は全く困らないよ」
 雪之丞の豊かな生活を支えている収入源がこの時初めて明かされた。黙って聞いていたが、(へぇ~、そうなんだ……)と軽い驚きがあった。
 大鼓の月謝収入と各種顧問料が固定給のように安定しているのは知っていたが、完全紹介制で教えている吉良流の気功を取り入れた独自操法は、入会金10万円、1回の受講料は3万円という高額でも予約が絶えないそうだ。
 雪之丞の講演ビデオを借りて観ていたから、年数回の講演活動のことは知っていた。私が観たのは、ある共同組合が主催した日本の舞台芸術についての講演。雪之丞の話しぶりは堂々としていて、しぐさや表情には人を惹きつけるカリスマ性があった。能の精神性が欧米でどう評価されているかなど、日本人としての誇りを感じさせてくれる内容で、言い過ぎない控えめな感じも知性が感じられた。これなら講演依頼も続くだろう。
 能楽プロデューサーとしての収入は、その関わり方にもよるが、中には1本数百万円のこともあるという。
 また仕事について、雪之丞はある考えを述べた。結婚後は私を、自身が経営する「有限会社 雪花堂」の役員にしたいという。
 雪之丞は明らかに、私に仕事を辞めてもらいたがっていた。そして、それを雪之丞からは口にせず、私が自分から「仕事を辞めます」と言い出すように話を進めた。いま思えば、最初から雪之丞には小賢こざかしいところがあったのだ。当時の私はその老獪ろうかいさを見抜けなかった……。
 雪之丞のプレゼンテーションは続いた。
「私の仕事はそれなりの人に評価されているが、私はまだまだこれからなんだ。まどかは私を高めてくれる。まどかと一緒なら、舞台芸術に革新をもたらすような新しい芸術を作れると思う。私が編み出した身体操法も、日本発信の新しいメソッドとして完成させたい。世阿弥の芸論をさらに深化させた芸論を私は生み出したいとも思っている。私には、まどかのサポートが必要なんだ。一緒に舞台革命を起こそう」
 それに対し、私は、
「結婚して、吉良先生の仕事をサポートしていきます。けれど、……」
 と、雪之丞を支えることは当然としながら、新聞記者の仕事に対するこだわりを語った。紙面の実情も説明した。
「いま、月1、週1の連載を複数抱えていて、全部私が立ち上げた企画モノです。その成果として、本も出版できました。文化面の紙面は、曜日によっては私ひとりで埋めている状況だし、私がいま辞めたら、紙面が埋まらない」
 が、雪之丞の押しは強かった。
「まどかは新聞記者として、自分の能力を無駄に消耗しているとは思わないか。生活は不規則だし、いつも疲れている。中央新聞社で仕事を続けていても、異動もあるし、このままずっと文化部で好きなことを書けるとは限らない。まどかは勘違いしているようだが、まどかが抜けても紙面は埋まるよ。まどかの代わりはいるんだよ」
 そうは思いたくないが、そうかもしれない。雪之丞は続けた。
「私と一緒に仕事をすれば、やりたくない部署への異動もない。私と一緒にやっていく人間は、まどかのほかにいない。代わりがいなんだ。それに、取材して書くという記者の仕事はたかが知れてる。しかし、私と一緒にする舞台の仕事では、自分たちが挑戦者として見たことのない世界を見ることができるんだよ」
 記者のような「傍観者」ではなく、「当事者」として、新しい景色を見る――。
 なるほど、それはすごい。このあたりで、私の心はたかぶっていたかもしれない。
 私の中で、雪之丞をサポートする仕事の重要性が膨らんできた時、雪之丞はさらにもうひと押しした。
「私は52歳でまどかより20歳も上だから、現役であと20年。これからの10年間が勝負だと思っている。私は『信じてこそ歓喜が得られる』と思っている。一緒に舞台革命を起こした時、吉良雪之丞は今よりもずっと高い世界で評価されているはずだ。その時まどかはまだ若い。誰もが書けない『吉良雪之丞の物語』を存分に書けばいい。そんな大仕事は、一新聞記者ではできない。まどかの立場と能力を最大限に生かせることになるはずだよ」
「………」
 何も言えなかったのは、震えるほどの感動が走ったからだった。
 興奮していた。
 新聞記者を経て、雪之丞の舞台革命を支える仕事をし、成し遂げられた先で「吉良雪之丞物語」を書く――なんて壮大な仕事だろうと思った。
 だが、本当にそんなこと、できるのだろうか……。
 冷静に考えようと思った。だが、昂っている私は想像が膨らむ一方。舞台革命をし、その後、「吉良雪之丞物語」を書く。それができたとしたら、まさに、中2で夢見たマーガレット・ミッチェルじゃないか! 信じてこそ歓喜が得られる……たしかに、人生はその通りかもしれない。
 すると雪之丞は、手提げバッグからFAXの印画紙を取り出して、私に見せた。
「今度、女流写真家が『雪月風花』という写真集を出すんだ。彼女が撮影したさまざまな花ごとに、文化人が短いエッセイを添える。私は蓮の花をテーマにエッセイの依頼を受けたのだが、そのゲラ刷りを読んでほしい」
 
《「はちすの恋」 能楽プロデューサー 吉良雪之丞
 朝のやわらかい光の中で、露を帯びた純白の蓮の花が輝いている。
 人に品格があるように、花にも品格があることを、蓮の花は見る者に気づかせてくれる。蓮の花の品格は、汚れなき凛然たる気品である。泥中から咲きながら、泥に染まらないことも、そのことを際立たせている。
 蓮の花を冠にいただいた恋がある。
「蓮の恋」と呼ばれ、良寛りょうかん七十歳、貞心ていしん三十歳、仏道の師と弟子としての出会いから、良寛が亡くなるまでの四年間、互いに慈しみ、いたわり、純真で燃えるような恋だった。
 良寛は貞心尼に、己の表も裏も見せて、「蓮の恋」はハラリと落ちた。
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」――良寛辞世の句を浮かべながら、陽光を浴びる蓮を前に大きく息を吸い込む。すると、ほのかな甘みが鼻腔に広がり、えもいわれぬ清らかな気分になる。》
 
「先生、すごくいい文章だよ」
私は思わず感嘆の声をあげた。
「『花の品格』という表現は先生らしいし、『ハラリと落ちた』なんて文学的表現も洒落てる。読後感もいい。すごいよ」
 新潟で生まれた私にとって、越後出身の僧侶で歌人、書家としての評価も高い良寛(1758-1831)はとても親しみがある。良寛は晩年、弟子の貞心尼を愛し、その最期を貞心尼が看取った。その後、貞心尼は、良寛との唱和の歌を収めた良寛最初の歌集『蓮の露』を完成させた。良寛の晩年の肖像を世に伝えた貞心尼の功績は大きく、貞心尼は江戸時代三大女流歌人のひとりとされる。
 雪之丞のエッセイに感動している私に、雪之丞は決定的なひと言を注いだ。
「良寛は私、貞心尼はまどかなんだ。私はそんな思いでこの文章を書いたんだよ」
「・・・・・」 
 私はもう興奮状態の絶頂にあった、と思う。
 雪之丞の才能は確かだった。その雪之丞が成そうとする仕事は、世阿弥の芸論を深化させた新しい舞台芸術だという。その仕事に当時者として関わり、その先で、私は雪之丞の物語を書く。
 貞心尼が、歌集『蓮の露』を完成させ、良寛を世に出し、今に伝えたように、私が雪之丞の芸術を世界に送り出すのだ――。
「吉良雪之丞物語」が多くの人に感動を与える作品にするためには、私が雪之丞のそばに常にいる必要がある。私も全力で取り組む仕事なのだと覚悟しなければならない。新聞記者との〝兼業〟など、絶対に無理だ。
 あれこれ考えながら、私はとてつもなく興奮していた。
 花瓶に生けたテッポウユリ。その甘い香りを蓮の花の香りと錯覚する中で、やっと、雪之丞が求めていたであろう言葉を出した。
「先生、私、新聞社を辞めて、吉良雪之丞を全力で支えます。だから、絶対に舞台革命を実現しましょう。そして後世の舞台人のために、私が『吉良雪之丞物語』を書きます」
 自分の人生の「主役」をいったん降板し、吉良雪之丞を支えるという「脇役」に徹するという、私の一世一代の決意表明だった。
 
※注釈
⑬越後上布じょうふ 「上布」は苧麻ちょまや大麻から手紡ぎした細い麻糸を用いて平織にした上質な麻布。江戸時代に上納布、献納布として発展した。新潟県小千谷地方で苧麻を原料に生産される「越後上布」は昭和30(1955)年、沖縄県宮古島の「宮古上布」とともに国の重要無形文化財に指定され、着物通の憧れの存在。ほかに「能登上布」「近江上布」「薩摩上布」などが知られ、夏物の最上級である上布は、通気性に富み、さらりとした感触が心地いい。

藤布ふじふ 藤の皮の繊維から作った糸で織った布。縄文時代を起源に、日本最古の織物と伝えられる。藤布の帯は、素朴で野趣あふれる深い味わいがある。

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