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「面白さ」に囚われるな (毎日日記を書く ~99日目~)

 DCXです。


【 合弁花で花占いをする人】

あの人は私のことが……


好き!!!!(花びらを全てちぎる)



 私は小さいころから、面白いものが大好きでした。面白いものを見て笑ったり、面白いことをして誰かを笑顔にさせる、それが中学生くらいまでの私の生きがいでした。もちろん今でも、面白いものを見て笑顔になるのは、貴重なストレス発散の方法の1つです。

 なぜ面白いものが好きになったかというと、小さいころ見ていたアニメの影響かなと思います。自分はかなり小さいころ(幼稚園児くらい?)に「トムとジェリー」のアニメにはまっていました。それが面白さの追求の原点だったのでしょう。「ポケモン」シリーズのアニメも小さいころから見ていました。ポケモンのアニメも、タケシとかロケット団とか、ユーモアのあるキャラが多いですからね。その影響もあると思います。

 昔の自分が好きだったタイプの笑いは、言葉の聞き間違いとか、似ている言葉を使って面白くするみたいなのでした。面白い動きをしたり、替え歌を作ったりした記憶もあります。

 思えばある程度の時期まで、自分の行動原理には常に、「どうすれば面白いと思えるか」というのがあったのだと思います。

 しかし、「面白さのみ追求」するというのは健全なことなのでしょうか。周りから見ればただの愉快な奴だったかもしれませんが、当時の自分は、自分や他人の感情など一切気にせず、面白さを優先してしまってたのです。その結果、自分の感情をうまく表現できないまま、他人の気持ちを考える力が育たないまま、大人になってしまったのではないかと思います。

 当時の自分は、コミュニケーションの本質は笑いを取ること、つまり面白さこそ正義だというやや偏った考えでしたので、コミュニケーションには自分の気持ちを伝えたり、他人に共感したりが重要ということに気づくのが遅れてしまったのです。

 その結果いまでは、交友関係もあまり広くなく、誰かを笑わせることの喜びさえも忘れかけてしまう人間になってしまいました。少年時代の私が最も生きがいにしていた面白さの追求は、もはや過去のものになってしまいました。

 面白いことは良いことですが、それはあくまでも会話の潤滑油的存在であって、それだけで人間関係が成立するという単純な構造ではありません。潤滑油ギトギトのアヒージョみたいな関係は長続きしないです。笑いは用量・用法を守って適切に使うのが大切という話でした。

 それではまた。

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