誹謗中傷して欲しいADHD 【ADHDは荒野を目指す】
5-3.
台北に小さな日本人向け進学塾を作った僕は、営業許可のないままに、無料での授業を始めます。
幸いなことに多くの生徒が集まりますが、ライバル塾であるH舎の嫌がらせが始まる。そしてある日の授業中、不審な台湾人一家が侵入してくるのです。
教室に向かう男の後を追って、僕は懸命に走りました。
ようやく追いついた時――男は既に扉を開けて、教室の中を覗き込んで居ました。
生徒達は驚きの表情で男を見上げています。
男は教室内を見回し――そして突然、奇声を上げました。
ホウ、ホウ、という、甲高い声を。
僕は必死に男の服を掴みます。
――やめろ、やめろ、出て行け!
僕が大声で言うと、意外にも、男は素直にくるりと振り向くと、出口に向かって小走りで向かいます。
それに気付いた女性も、僕と妻の寝室を覗くのをやめ、トイレに向かって声をかける。
トイレの中から、おどおどした二人の少女がすぐに出て来る。
そして四人はそのまま、振り向きもせずに塾から出て行きました。
僕は急いで扉を閉め、内鍵を掛け、大きく息を吐きました。
子供達を守らなきゃ――という意識よりも、コピー機業者という第三者が居たお陰で、咄嗟に勇気が湧いたようです。
――何あれ?
――怖かったんだけど。
――やばい人?
生徒達は、騒然としています。
コピー機の業者でさえ、好奇心に満ちた目で僕を見つめる。
僕は懸命に平静を装い、間違えて入って来た人だから、気にせずに勉強をしなさい、と伝えます。
――そして、頭を抱えます。
恐らく――というよりも、間違いなくあれは、H舎の息のかかった人間でしょう。
僕の塾の中に進入し、内部を観察して情報を掴み、さらにあわよくば生徒を脅し恐怖心を与える――その目的でやって来たのです。
そして、僕の迂闊さの為に、彼らの目的はほぼ達成されてしまいました。
大人が僕しかいないこと、教室が整っていることを知られた。
法律上、塾は住居にしてはならないのに、僕と妻が暮らしている部屋を見られてしまった。
そして、小学生である生徒達の前に、突然男が現れて奇声をあげられた――防犯対策が行き届いていない塾だと、生徒や保護者に思われても仕方のないようなことを、されてしまった。
そしてそれでいて――そんなことをした彼らを罰することはほぼ不可能でしょう。
彼らは、生徒になりたい、トイレを借りたいという進入の口実を持っていて、誰かを傷つけたりもしていない。
そもそも、どこの誰であるかはさっぱり分からない。
僕がアフリカで睡眠薬強盗に全てを奪われた時、或いは友人がナイフで刺された時――それらを思い出すまでもなく、特に目に見える被害もない今、警察に届けたところで、何も起こらないことは分かります。
どうしようもない。
僕は再発を防ぐことだけを――相手をしっかり確認しなければ絶対に扉を開けてはならないことだけを頭に叩き込み、その出来事を忘れることにします。
けれども、その後も厄介な出来事が続きます。
流石に、台北における日本人コミュニティでの評判を気にしてか、H舎が直接家庭や生徒に絡んでくる、ということはなくなりました。
――その代わりに、僕個人が対象になります。
頻繁に電話が掛かってきます。
教育局の役人を名乗る男性は、再三僕に言います。
――お前の塾は酷く評判が悪い。
――今すぐ営業をやめなければならない。
――そうでなければお前はどうなるか分からないぞ。
――いいな、親切に警告してあげているのだぞ。
初回は怯えて懸命に頷いていた僕ですが、二度目、三度目となると――そして、番号非通知の電話であることに気付くと、その人物の正体を流石に理解します。
――あなたの名前は何ですか?
――部署はどこですか?
男は即座に、それは明かせないことになっている、と答えます。
そしてさらに散々僕を罵った後、最後には何故か必ず英語で、サンキューと言って電話を切る。
そんな直接的な物だけでない。
台湾日本人会は、毎月機関紙を発行しています。台湾在住の日本人ほぼ全ての家庭に届くものであるため、そこには日本人と関連のある多くの企業が広告を出しています。
H舎も勿論広告を出しています。
カラーで二面、デザインの凝った、如何にも広告料が高そうなではありますが、広告内容を変えることは滅多にありません。
けれどもある月、その半分ほどががらりと変わりました。
――私たちの塾は、社会人経験のない人物によって作られた、誹謗中傷ばかりをしている塾とは違い、誠実に生徒やご家庭と向き合い、真っ当な商売をしています。
そういう一文から始まり、自分達の塾が如何に素晴らしい場所で、そこから独立した若造が如何に駄目な人間であるかを、延々と書き連ねたのです。
僕の名前や塾名を明示はしませんが、誰がどう読んでも、僕のことだと分かる人物に対して、
――社会経験のない、責任感のない、泥棒のような、恩知らずの、不誠実な、子供を預けては絶対にならない人間。
そんな罵倒を浴びせかけてくるのです。
これには、勿論僕は笑いました。
流石に常軌を逸しています。
それは、一流企業の駐在員で構成されている日本人会の、機関紙なのです。
ゴシップ誌やスポーツ新聞などではない。
台湾に暮らす日本人の生活に利する為に作られている、実用的なものなのです。
広告以外の紙面にも、例えば日本語の通じる病院の場所や、サークルや県人会のメンバー募集通知、或いは台北日本人学校の行事案内など、上品な内容が並んでいるのです。
そんな本に、いきなりぶち込まれる長文――仮にその内容が真実であったとしても、読者に非常な違和感を覚えさせるものです。
これはむしろ、営業許可が下りていない為、広告を出すことも出来ていない僕の塾にとって、いい宣伝になるのではないか――そう思えるぐらい。
そして同時に、思います。
もしかしたら――金村も、大した人物ではないのかもな、と。
一人でH舎を作り、大きくし、大金を稼いでいる人物。
その間、脱税や著作権法違反等、様々な非合法手段を使ってきたのに、一切警察のお世話にはなっていない。
――ペーパーテストが出来るだけの僕とはレベルの違う、明晰な頭脳の持ち主だ。
僕はそう思っているからこそ、彼に対して怯えて来たのです。
それなのに、この広告は――余りに愚かです。
それに加え、例えば生徒の家庭に脅したこと、奇妙な台湾人一家を送りこんで来たこと、教育局の役人を名乗る男に嫌がらせ電話をかけさせたこと――全て、それほど効果的であるとは思えない。
むしろ、人々の反感を買う、悪手であるように思えます。
もしかしたら、と僕は思います。
金村が成功しているのは、彼が賢いからではなく――恥知らずであるからでしかないのか?
ろくなライバル塾がない台北においては、H舎は悪評を気にする必要がないため、様々なあざといことをしてきた。
もしライバル塾が現れれば、H塾も評判を気にして、真っ当な行動をするようになるだろう。
――そう思って来たのですが、そうではないのかもしれない。
今後も、恥知らずのままの経営を続けてくれるのかも知れない。
それならば――彼らを嫌い続ける家庭は、今度も一定数現れ続けるだろう。
そして僕が、今後も清廉潔白な経営を続けていれば――そういう人達の心を掴むことが出来るだろう。
ADHDの頼りない社長でも、実績のない塾でも、あちらの塾に子供を預けたい――そう思ってくれるだろう。
勿論彼らは僕に対する攻撃を続けるだろうが――その多くは大して効果的ではない。むしろ自滅につながっているようにも思える。
これなら――僕でも、彼に十分伍して行けるのではないか?
H舎がもっともっと誹謗中傷をしてくれれば――僕の評判はもっともっとあがり、そして大勢の生徒がやってくるのではないか。
僕の心には、そんな明るい展望が浮かんで来るのです。
――けれども、そんなある日。
途轍もなく効果的な、攻撃が飛んでくるのです。
その日、授業の始まる直前、インターフォンが鳴りました。
生徒が来たのか。何気なくカメラを見た僕は、首を傾げます。
そこには、シャツ姿の中年男性。見覚えのない顔です。
そして彼は言いました。
――私は教育局の役人だ。
――無許可で塾を営業していると聞いた。
――調査をするので、中に入れろ。
心臓が、跳ね上がりました。
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