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ある女性旅行者の死 【ADHDは荒野を目指す】

 3-16.

 パキスタンはフンザでの、ある夜のことです。

 その日、宿に他の旅行者はおらず、僕は一人テラスで夜空を眺めていました。
 満天の星空です。
 けれども、流石に退屈を覚え、僕は宿にあった情報ノートを手に取りました。

 情報ノートとは、旅行者が、様々な情報を書き残して行く為のノートです。
 インターネットが一般的ではなかった当時、それにより、国境の開閉や宿の宿泊費等、最新のリアルな情報が手に入れられるものでした。特に、旅行者がそれ程多くなく、かつ情勢不安定な、パキスタン以西の地域を旅する際には、本当に有難い物でした。

 そんなノートをパラパラ読んでいた時です。
 数年前に書かれた、ある長文が目に留まりました。

 それは、宿や情報の情報ではなく、大麻の購入方法や売春宿の場所などでもなく、そもそも旅の情報でさえありませんでした。

 このパキスタンである男性が巻き込まれた、とある事件の話でした。

 ――ある日、彼の泊まる宿の部屋に、一人の警察官が訪ねて来たところから、その話は始まります。

 警察官は言いました。日本人の手助けが必要なことがあるので、警察署まで来てくれないか、と。
 そこは小さな街で、外国人が泊まるような宿は限られています。恐らくその警察官は、そこに行けば日本人がいるかも知れないとあたりをつけ、見事にその男性を引き当てたのでした。

 暇にしていたその男性は、求めに応じて警察官の車に乗り込み、警察署に行きます。
 その中の一室に通され、中を見た途端、息を呑みました。
 部屋の中の寝台には、一人の日本人らしき女性が寝転んでいました――一目でそれが死体であると分かる、凄まじい形相で。

 怯えている男性に対し、警察官は、知り合いかと尋ねます。男性が何も答えられないでいると、警察官は、その女性のものらしき日本のパスポートを取り出し、写真や名前の載っているページを男性に見せます。
 顔にも名前にも覚えがありません。男性は急いで首を横に振ります。

 知り合いではないと判明したことで、男は部屋から連れ出され、もう帰って良いぞと警察官は言います。
 呆然としていた男性は、ようやく気を取り直し、慌てて尋ねます。どうして彼女は死んだのか、

 警察官は答えます。
 今朝、山中にあるテントの中で女性が死んでいると通報があったので、行って収容したところだ、と。
 そして、まだ解剖をしていないので死因は不明だが、恐らく殺されたのだと思う、と続けます。
 恐ろしい形相から言っても、その通りでしょう。男性は頷きます。
 警察官は続けて、他にもおかしな点がある、と言います。

 このパスポートは、ズボンのポケットに突っ込まれていた。普通の外国人にとって、パスポートは非常に大事なものなのだから、そんな風には取り扱わないだろう。誰かがそこに押し込んだのではないか。

 それにもう一つ、ズボンのファスナーが開きっぱなしだった。誰かが無理やり履かせたのではないだろうか。

 つまり、死体に細工した人物による殺人、恐らくレイプ殺人だと言うのです。

 殺人事件。その響きに、男性は怯えます。

 ーーでは誰がやったのか。
 男性が尋ねると、警察官はあっさり答えました。

 あの山は、アフガニスタンとの国境にあたるので、普通の人は住んでいないーー国境警備隊の兵士以外は。
 そして兵士であれば、そこにあるテントを改め、中にいる外国人にパスポートを提出させることが自然に出来る。

 つまり、兵士が犯人だろう、と。

 恐ろしい話を聞かされた。男性はショックを受けたまま宿に戻ります。

 それから数日後、その街に何人かの日本人が現れたと聞いた男性は、その人達を訪ねて行きます。
 案の定それは、被害者女性の両親と、付き添いの駐パキスタン日本大使館員でした。

 男性は彼らに対し、お悔やみを述べます。しかしそこで、思いも掛けないことを聞かされるのですーー彼女は、レイプ殺人などではなく、高山病で死んだ、と。

 それはおかしい、男性は思います。しかし娘を亡くしたばかりの両親に滅多なことは言えない。
 彼は急いで警察署に行き、前回話した警察官を捕まえ、どうなっているのかを尋ねます。
 すると警察官は言いましたーー彼女は高山病で死んだ、と。

 随分戸惑いましたが、暫くしてようやく男性は理解します。
 軍人が特別扱いされるのは、途上国ではよくあること。圧力だか忖度だかは知らないが、犯人である軍人を守るべく、事件は揉み消されたのだ、と。

 男性は激しい怒りを覚えます。
 そして彼は、大使館員に会い、縷々と事情を訴えます。このままでは被害者が可哀想過ぎる、是非抗議して真相を暴いて欲しい、と。

 ところが――大使館員はそれを聞き入れません。
 男性はさらに詰めよります、しかし大使館員は言うのです――これは、ご両親の意向だ、と。

 可哀想な娘をこれ以上、晒し者にしたくない、とおっしゃっている、と。


 両親も、大使館員も、彼女が殺されたことは分かっていて――それでも、黙っていると決めたのだ。

 そう理解した男性は、流石に口を閉ざします。
 彼一人で、両親や大使館の意思に反して戦うことなど、出来る筈がありませんから。


 それでも、と男性は記します。

 このままただ黙っているのでは、彼女が気の毒過ぎる。
 だから自分は、せめてもの行為として、この話を書くことにした――これを書くことで、卑怯な連中と戦いたいのではない。

 ただ、同じような悲劇がまた起きないように、ただ注意喚起をしたいだけだ、と。


 情報ノート文章は、そう結ばれていました。


 そして僕は、二日後にその街を離れました。

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