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空港で不安に震える犬とADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 8-37.

 ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。

 バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したことを機に、三十歳で台北に移住、日本人向け学習塾を開業します。

 ライバル会社の嫌がらせや、多忙の末の離婚などがあり。
 さらに、ADHDであるために、管理能力を一切持たないせいで、部下に資産と会社を奪われたり、独立をされたり、訴えられたり――様々なトラブルに見舞われますが。
 それでも、台湾社会の中、懸命に十数年を生き抜きます。

 けれども、四十歳を過ぎ。
 日本に住む父を癌で亡くしたこと、コロナ禍により営業停止処分を受けたこと、犬をもらい受け生活リズムが変わったこと。

 それらのことが原因となり、僕は日本に帰ることを決意。

 塾の売却にも成功。

 月日は瞬く間に過ぎ去り、あっという間に、帰国の日が来ます。


 準備を万端整えることなど出来ない、ADHDである僕は。

 荷物をまとめることこそ、時間ギリギリで完了しますが。

 予約していた空港行きのタクシーに乗り込む時に、早速トラブルが起こります。
 ――犬がいるなんて聞いていない。
 ――犬がいると車が汚れる。
 ――あらかじめ清掃費五万円を支払うのなら乗せてやる。

 滅茶苦茶な話です。
 そもそも、予約の段階で、犬がいることは告げている。
 しかも、犬はゲージに入れているし、おしめも着けているので、車が汚れる筈がない。

 万一汚れたとしても、五万円というのは余りに法外。

 僕はそう主張しますが。
 運転手も、自分の主張を譲ろうとしない。

 そうこうしている内に時間が過ぎて行く。

 こんなことが理由で乗り遅れてはたまらない。

 これ以上交渉するのも大変だし。
 どうせもう、台湾元を使うこともないだろう。

 だから、もう諦めてお金を払おうか。

 面倒なことが大嫌いで、お金にこだわるのも面倒なADHDである僕は、一旦はそう思いましたが。


 それでも、諦めずに説得を続けていると。

 やがて、運転手側が面倒になったのでしょう。

 じゃあ特別料金はいらない、と言って僕と犬を乗せてくれました。
 僕も少し図太くなったな、と少し満足します。


 かくして、無事に空港に辿り着きます。

 コロナ禍中の空港は、恐ろしく閑散としています。

 かつてはあれだけ大勢いた人々も、殆どおらず。
 賑わっていたお土産屋もレストランも、一切営業をしていない。

 その中を、犬を入れたゲージをカートに載せて進む僕は、十分に目立っていたようで。
 少なからぬ人々が話しかけてきます。

 それらを適当にいなしつつ、カウンターに行くと。

 勿論、行列などなく、すぐにチェックイン手続きが始まる。

 犬を入れたケージも、あっという間に、ベルトコンベアに載せられて遠ざかって行く。


 言葉をかける時間もなく。
 震える犬を、僕はただ見送るしか出来ません。


 待ち人の殆どいない空港内で、あっという間に、全ての手続きを終えて。

 ゲートの前のシートに、僕は腰掛けます。



 あとは、アナウンスに従って、飛行機に乗り込むだけ。

 日本語のアナウンスに従って、ぼんやり座っていれば、日本に着くのです。


 台湾に住んで十五年、日本を飛び出して四半世紀近くに及んだ長い旅が、ようやく終わったのです。



 何か、感慨が湧いてくるのかと思っていましたが――そんな物は一切やって来ません。

 今朝早くからバタバタし、興奮状態にあるのも確かですが。

 それ以上に。
 これからのことが、不安でならないのです。

 日本に到着した後、僕はどうなるのでしょうか。



 まず、犬の健康状態の問題。
 慣れた顔から引き離され、数時間もの間揺れる機体の中で轟音に囲まれた犬は、貨物室から無事に出て来られるのかどうか。

 無事に犬と合流出来たところで。

 海外からの渡航者は、コロナウィルスに関するPCR検査の結果が出るまで、二週間隔離されることになっている。

 その間、ホテルに行くのがルールなのですが――そのホテルには、犬は入ることは出来ない。

 一応空港のペットホテルに預けることは出来るようなのですが。
 二週間もの期間、健康状態に問題のある犬を、未知のホテルに預けておく――しかも僕が会いに行くことが出来ない――というのは、非常に厳しい。

 ただ、自宅等、他者に接せずに暮らせる物件があるのであれば、ホテルに入らず、そこで二週間の自主隔離をすればよい、となってはいます。

 とはいえ、僕達が到着するのは千葉の空港であり、母の住む家は西日本にある。

 そして、隔離期間にある渡航者は、公共交通機関の使用は禁じられている。
 つまり、飛行機を乗り継いだり、新幹線やバスに乗ったりして、実家に向かうことも出来ないのです。

 それでも、唯一の救いはあり。

 車に乗るのであれば、そんな渡航者であっても、自宅に移動することが許されているのです。

 だから、隔離ホテルに入りたくない人は、知人に迎えに来てもらったりして、それぞれの家に帰っていると聞きます。

 つまり、犬連れかつ知人のいない僕も、空港のレンタカーを借りれば、空港から脱出出来るのですが。

 問題は、そこから。

 僕は、様々なことが気になり過ぎるADHDです。
 しかも、何かが気になりだすと、他のことが意識から外れてしまうADHDです。
 車の運転など、怖くてならない。

 しかも、若いころにお金のなかった僕は、日本にて免許を取得することは出来ませんでした。
 台湾に定住した直後、『まっすぐ百メートル走らせることが出来れば合格』という実技試験と、親切にも日本語に翻訳された筆記試験を、ほとんど準備せずにパスして、あっさり免許を手に入れただけ。
 そしてその後、一度も運転などしていない。

 つまり僕の車の運転経験といえば、右側通行の台湾で、十年以上前に、ほんの少し走らせた――それが全てなのです。

 そんな僕が、千葉から西日本まで、一人で運転して行かなければならないのです。


 不安しかありません。

 とてもではありませんが、長い旅の感慨にふけっている状況ではないのです。

 スマートフォンを用いて、車の運転方法や、日本の道路標識や、交通事情について確認するのに、とにかく必死なのです。

 煽られたらどうしよう?
 事故を起こしたらどうしよう?
 子供をはねてしまったらどうしよう?
 犬の容体が悪くなったらどうしよう?

 そんな、様々な想像が頭に浮かび。

 不安に震えてしまいます。



 ――そうしている内に。

 航空会社の女性職員の、搭乗を呼びかける声が聞こえてきました。

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