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台湾の元大統領とつながるADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 4-30.

 台北にある日本人子女向け学習塾・H舎を追われそうになった僕は、台湾人妻の一家から、塾を起業することを勧められます。
 僕に外国での起業など出来る筈がない。そう思う僕ですが、それでも少し心が動き、ある日、台北在住の日本人コンサルタントに会いにいくことにします。

 台北駅にほど近いビルの中に、そのコンサルタントのオフィスがありました。
 中には、コンサルタントである南野の他に、台湾人の中年女性がいるだけ。かなり小さな会社です。

 南野は六十過ぎの小柄な男性でした。
 彼は言いました――自分はかつて日本の大企業の台北支社長だったこと、二十年台北で働いた後、台湾で独立したこと。
 今台北で活躍している誰それは元々自分の部下だったこと、誰それは自分の教え子であることなど、得々と語ります。

 緊張しきりの僕は、ただその話に頷くだけです。

 やがて南野の自己紹介が終わり、ようやく僕の喋る番になります。

 ――塾を作りたいんだって?

 はい、と僕は急いで頷きます。

 ――事業計画書は?

 僕は驚いて口ごもり、それから急いで首を左右に振ります。

 ――資金計画は?

 ありません、と答えます。

 ――売り上げ予測は? 収支予測は?

 ありません、と僕は小声で答えます。

 ――それじゃあ全然ダメじゃん。

 僕は小さく頷き、ですから、と懸命に言います。
 ――そういったことが全然分からないので、お話をうかがえれば、と思いまして。

 ふぅん、と南野は頷き、それで、と言います。
 ――君はどうして塾を作りたいの?

 僕は急いで語ります。台北の日本人子女向け学習塾に二年間勤務したこと。そこが余りにひどい会社だったので退職しようとしているが、台湾人家族から独立を勧められたこと。

 へぇ、と南は言いました。
 ――日本人向けの塾があるんだね。面白い商売があるね。

 僕は驚きます。妻の方から既に、塾を作る希望があると伝えて貰っていた筈なのに。

 ――それで、その塾はどう酷かったの?
 
 僕は急いで説明をします。脱税をしていること、著作権違反をしていること、授業料返金をしないこと等々。

 なんだ、と南野は笑います。
 ――全部、普通の商売じゃん。全然ひどくないじゃん。

 え。
 僕は言葉を失います。

 ――それで酷いなんて言ってたら、台湾で商売は出来ないよ。

 僕は絶句します。

 ――まあでも。
 南野は僕の表情を見て、口調を変えます。

 ――でも、そんなのは良くないのは確かだからね。
 そして二、三度頷くと、まあ、と南野は言います。

 ――まず、教室を借りないとね。そして備品も購入する。それぞれ、人脈がないとすごく高くなる。
 ――それから社員を雇わないとね。講師もそうだけど、特に中国語の出来る台湾人が絶対に必要だしね。でも、いい加減な人間は雇えないよね。
 ――で、登記の手続きもしないとね。これも、市役所に日参しなきゃならないし、台湾の役所の仕事は遅いからどれだけかかるか分からない。

 ――小さくとも会社を作るのはね、本当に大変なんだよ。

 でも大丈夫だよ、と南野は言います。

 ――物件も、備品販売業者も、人材も、全部、うちが紹介出来るから。
 ――登記とかの手続きもうちがやる。
 ――それから社員の研修もうちがしてあげよう。

 ――あと、君は経理は何も分からないでしょ? こればかりは新入社員に任せる訳には行かないだろうし、うちの事務所でやってあげるよ。

 こんな感じかな、と南野は言います。
 ――こんな風に、全部うちにまかせてくれれば、それで塾は作れるからね。安心して。

 僕は頷きます。

 そして南野は笑顔になり、僕の経歴について質問をします。
 元気を取り戻した僕は、身を乗り出して答えます。灘校から京都大学農学部を出ています、と。

 ほう、と南野は言いました。
 ――李登輝さんの後輩じゃん。

 そうです、と僕は勢いよく頷きます。

 李登輝とは、台湾の元大統領で、台湾の民主化を果たした人物です。台湾が日本領だった時代、日本人として京都大学農学部で学んでいた経歴があります。

 ――へぇ、じゃあ今度李登輝さんに会わせてあげるよ。
 ――李登輝さんも喜ぶだろうからね。
 ――暇なとき教えてよ。セッティングするから。約束だよ。

 僕は驚きます。
 元大統領――言うまでもなく、雲の上の存在です。
 そんな人物に会わせてあげると、気楽に言えるこの人物も、そうとう凄い人物なのでは。
 そもそも妻の会社は大企業、そこのコンサルタントもやっているのですから、名士でない筈はないのです。

 そこまで話したところで、これで三十分だ、と南野は言いました。
 ――無料相談はここまで。

 本当はね、と彼は言います。
 ――最初の三十分でも、しっかりコンサル料を貰うんだけどね。でも、僕は若い人を応援したい。
 ――だから今日は無料にしてあげるよ。

 有難うございます、僕は深々と頭を下げます。

 ――塾を作ることに心が決まったら、是非また連絡してね。
 はい、と僕は頷きます。

 南野はそう言って、僕をオフィスの外に送り出しました。


 帰り道――僕は笑顔になります。

 ――苦手なことや面倒なことを、南野の会社が全部やってくれる。
 ――これなら、塾も作れるのではないか?

 ――しかも、李登輝さんにも会える!
 僕の気持ちは盛り上がります。

 ふと、思い出します――かつてアルバイトをしたことのある台北のM塾にて、代表に同じようなことを言われたことを。
 偉い政治家たちとつながりがある、いずれ会わせてあげる、と。
 ――勿論、全て嘘だったのです。

 南野も同じようなものはないか?

 いや、違う。
 M塾は、日本の大手予備校の名前をかたるただの零細企業に過ぎなかったけれども、南野の会社は大手企業との契約もある、れっきとしたコンサル会社なのです。

 それに、僕が李登輝さんの後輩であるのも事実です。
 実際、僕の所属したゼミの教授は、何度か李登輝さんと会っていました。

 どうやら本当に、元大統領につながることが出来そうです。

 南野について行けば――ただ塾を作ることが出来るだけではなく、台北で飛躍できるかも知れない。

 僕の気持ちは、舞い上がって行きます。


 けれども。
 その夜、妻にそういった気持ちを話そうとした時。
 妻は、真剣な顔をして、言ったのです。

 ――あのね。
 がっかりしないでね、と。

 ――あなたはね、台湾で塾をつくることは出来ないの。
 ――絶対に、無理。

 僕は唖然としました。

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