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例えばその人が私を好きじゃなくても、私がその人を好きで幸せだと思えた記憶⑵

私とハル、そしてナナ。

-ナナには、本当のことを言っていた。
ナナは、重い話すら、普通に受け取ってくれた。
「そういうの、なんだかわかる気がする」
とか、言って。
上辺じゃないと思った。付き合いも長いから、適当なことをナナが言えば、私はわかる。
もしかしたら、私がそういうのを見抜くのを、ナナはわかっていたから、嘘偽りなく、真摯に答えてくれたのかも知れないけど…(2)より-

特別隠してた訳じゃないけど、自然と私が何故、カウンセリングや心療内科に通っているのか?や、それらが必要になった経緯を少しずつ具体的に、ナナに話していっていた。
特に、父からの性虐待のことは、ナナも流石に「えっ!?」と、声を漏らしていたけど、それでもすごく引く訳でもなく、変わりなく、私と付き合ってくれた。

私にとって、そのことは、とても重要だった。

誰にでも話せる話ではないし、ましてや、精神疾患のことや機能不全家庭についてや、虐待のことやなんかは、その時代のその世の中では、テレビや映画のドラマのような現実味の薄い話として、どこかひた隠しにされてきたことだったし、自分の身近にいる人間が、そういう問題に晒されているなんて、想像すらされていない。
あれから、20年以上は経ったけど、未だにテレビニュースのセンセーショナルな出来事としてしか、感じてない人の方がきっと多い気がする。

ナナは、私の言うことを、妄言としてじゃなくて、ちゃんと現実の言葉として受け止めてくれた、精神疾患の当事者などではない、普通の友人だった。
そして、それは、私の心を強く勇気づけてくれた。

ナナの前で、私は私のままで良いんだな…と、思えた。

ナナは、いつも私の話を、うんうんと聴いてくれた。傾聴が上手いんだと思う。
私が好き勝手喋っても、特に肯定も否定もしない感じがまた、居心地が良かった。

私のモラトリアムな期間が2年を過ぎたころ、ナナは専門学校を卒業して、就職をしたけど、仕事が合わなくて、辞めようかと悩んでいた。

私は、話を聞くだけで、賛成も反対もしなかった。ナナのことは、ナナにしか決められない。
ただ、ナナが私のことを、普通に受け止めて接してくれたように、今度は私が私の可能な範囲で、ナナがナナらしい選択ができるよう応援したいと思った。

結局、ナナは就職した会社を辞めて、フリーターになる道を選択した。
親からは、アレコレ言われたらしいが、無理に合わない会社で働き続けて、ストレスを溜めてしまう方が良くないような気がしたから、私はナナの選択を「良かったと思うよ」と、言葉にした。
ナナは照れくさそうに、「ありがとう」とか言ってた気がする。


私が通っていた、カウンセリング室と、ナナの勤めていた会社は、割と近くて、お互いに時間が合う時は、落ち合ってお茶したり、ご飯を食べに行ったりしていた。
その後、ナナが会社を辞めて、フリーターとしてアルバイトを始めたところも、なんとなくその最寄りのS駅付近だったから、その頃はよく、ナナと会っていた。

私は、ナナとの友情が深まっていって、嬉しい反面、ナナが他の友人と遊ぶことに、嫉妬心が湧いてくることに、自分で気が付き始めた。

最初は、若い女の子によくある感覚かな?となんとなく深くは考え無いようにしていたけど、気がつくと、ナナだったらどうするかな?ナナはこんなの好きかな?と、嫉妬心以外にもナナの笑顔が見たくて、雑貨やキャラクターグッズを見ていたり、ナナと一緒に行きたい場所を探していたり、頭の中がナナでいっぱいになっていて、モヤモヤしていたりして、ナナのことを考えずには居られなくなっている自分がいた。

心を許せる、友人の数が少ないから、もしかしたら執着して依存していただけかもしれない。
臨床心理士とか、精神科の医師からしたら、そうやって分析されてしまうのかも?
でも、あまりその事を当時のカウンセラーや主治医には、伝えてなかった気がする。
別に、信頼してなかった訳ではなくて、ナナを意識したり好きになることに、私自身がそんなに抵抗を感じていなかったからだと思う。

よくわからないけど、私は、そもそも変わり者の状態で、変だから、同性を好きだと思うくらいは、そこまで「変」のうちに入っていなかった。

ただ、男性人格の18歳くらいの男の子が、妙にナナを手に入れたがったから、それはちょっと困ったな…とは、思った。
彼は『ハル』といって、自分自身やモノに当たり散らして、場合によっては、気に入らないと、他の人にも、暴言を吐いたりするので、危険極まりない人物だった。
私は、ハルが出てくると、怖くて、それを抑えようとし過ぎて、OD(多量服薬)を衝動的にしてしまいがちだった。

ハルはしきりに、ナナに
「可愛いね」「手が繋ぎたい!」「結婚しようよ」
と、ナンパなことを言うようになり、私はせっかく積み上げた、ナナとの信頼関係が、ハルのせいで壊れないか、とてもハラハラして困った。

ハルの言葉は、私の言葉でもあるけど、ナナは、私が私でしかないと思っていただろうから、困惑させたと思う。

ハルは、すぐに口に出す。
相手がどうとるかや、困らないか?ちゃんと考えてくれない。
私は、ハルと同意見だったとしても、ちゃんと考えてから発言したい。
とても折り合うのが難しい人格の1人だった。

でも、さすがにこの辺りのめんどくさい説明をナナにすることは出来なかった。
解離性障害の知識がある人でも、当事者は、一人一人その表れ方が違うので、1人の当事者を理解するのに、とても労力と時間を費やすのに、特に予備知識も無いナナに、説明するには、私は混乱の中に居すぎて上手くできそうになかったから、困惑させてるとは、知りながら、適当にハルが消えたタイミングとかに「…なーんてね、冗談!へへっ」とか、誤魔化すばかりだった。

それでも、胸が苦しい日もあったし、嫉妬心でイライラすることもあって、なんとなくナナに当たってしまった日もあったように記憶している。

私が、冗談だよと、言ったからか、誤魔化し続けたからか、そもそもナナに私に対して、恋愛感情みたいなものが無かった為か?
ある時また、ハル(外見は私)がナナに
「手を繋ぎたい!結婚しようよ!付き合って!」
と軽く言ったら
「ヤダ、キモチワルイ。友達なら良いよ」
と答えて、その事がキッカケなのか?ハルが諦めたらしく
あまりしつこくそういう軽口を叩かなくなり、いつの間にか、私の中のハルは口を閉ざし、治療の中で年月をかけて統合されていき、ナナも私も、普通に異性と恋愛をして、結婚をして、友人として今も続くという状態にある。

けど、未だにナナがちょっとでも、苦しそうな、困ったような顔をすると少しだけ胸がチクッとする感覚がある。
それは、ハルが遺したものなのか?
それとも私自身の失恋の記憶なのか?
なんだか曖昧で、正体不明な感覚だ。

ただ、ナナのことは、恋愛感情があるにしろ無いにしろ、大切なことに変わりはない。
お互い、ライフステージや生活環境が変わったり、物理的な距離も遠のいてしまったので、ポツポツとしか連絡しないし、コロナのこともあって年単位で会えないこともザラになってしまって、一緒に過ごす事がすっかり少なくなってしまったけれど、フラれても一緒にいられる、関係が続けられる人はそう居ないと思うので、私は良い方に考えることにしている。

ハルは、ナナのことを自分の思う通りにしたかったのかも知れないけど、私は、思い通りにならなくても、ナナをナナのまま、受け止めたかったし、人として愛したいと思えた、初めてのヒトと思っている。

それを、恋愛というならそうなのかも知れない。
どっちにしても、私の勝手な『片想い』なので、noteに記録はしても、このことは、そっと私自身の心の宝箱に閉まって置くことにする。

だから、彼女は私に、ヒトを想うこと、愛することをちゃんと教えてくれた1人なんだと思う。

無理に自分の人生に、相手を巻き込んでするのは、本当の恋や愛じゃない気がする。
相手と一緒に過ごす中で、自然と生まれるもの、
たまたま上手くいくこともあれば、なかなか上手くいかないことだってある。
それでも、その人を大切に思えるかどうか?

ずっと一緒にいるだけが、答えじゃない。

そばに居ても居なくても、心の中で、その人が幸せそうに笑っているか?

そんなようなことかなと、私は思う。

それでも、恋や愛の歌がずっとずっと歌われてきてるように、コレは私の考え方、捉え方であって、尽きるところ、正解なんてないし、人それぞれ…永遠の謎でテーマなんだろうけどね…。

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