寛容になりましょう、でいいのか/不適切にもほどがある!
如何ともしがたいモヤモヤを抱え、ときに我慢しきれずそれを放ちつつも、最終話まで何とか観たドラマ「不適切にもほどがある!」について。
…とは言えドラマ鑑賞中ずっと不愉快だったわけでもなく、人生の最終回が決まっていることの切なさに感じ入ったり、昭和/令和あるあるにクスリとなったり、令和にタイムスリップしていた主人公が元の時代に戻り、かつて昭和に生きていた頃には当たり前だった当時の常識に疑問を呈する場面でさもありなん、と頷いたりもしました。
(ただ、女性教諭へのセクハラとケア労働の強制については、本人にではなく、それを強いている側の人たちに向けて注意してほしかった)
最終回のミュージカルパートは「寛容になりましょう」という歌でした。
これが2024年時点での制作者側の「結論」ということなのでしょう。
寛容、
寛容……
寛容という言葉に、わたしはいいイメージを持っていません。
細かいことを気にしがちなわたしは「寛容になれよ」だなんてカンチューハイ2本飲んでなくても、今までの人生で事あるごとに、やたらめったら言われてきたから、かもしれません。
それらの記憶の中でも、街がフレッシュな方々で溢れる今時分、最も強く思い出されるのは20年ほど前、わたしが新入社員だった頃のことです。
***(以下、性被害の話が含まれます)
物腰が柔らかでいつも優しく親切なお爺さん、という雰囲気の他部署の部長に、わたしは入社当時から何かと世話を焼いてもらっていました。
知識も経験も豊富で、困ったときは本当に頼りになる方でした。
ある日、わたしは彼に階段の踊り場へ何となく連れていかれ、何となく肩に手を置かれました。
あれ?と思う間もなく、その手は徐々に肩から胸上(鎖骨と胸の間辺り)に移動し、もう一方の手はさりげなく腰に回され、何となくその辺りをさすられ続けました。
最初は仕事の、真面目な話をしていたはずなのに、それはいつしか雑談に移り変わり、砕けた口調になり、じゃれ合いのようになっていきました。
これが胸のふくらみを揉む、とか
尻のでっぱりを撫でる、まで進んだら
いくら温室育ちで迂闊なわたしでも
「これはセクハラだ!」と
確信したことでしょう。
でも、社会経験豊富なお爺さんは
ヒヨッコ1年生より1枚上手でした。
自分の呼び出しを拒みにくいであろう世間知らずの新入社員を人目に付きにくい場所へ連れ出し、これはただのスキンシップで、性的な目的はなく親近感の表れなのだという体をギリギリ保てるように手の置き場を計算した(としか思えない)点などに、彼の狡猾さがよく表れています。
とは言え、今だったら体に触れた時点で完全にアウトでしょう。
一発レッド退場です。
…いえ、
当時のわたしもセーフだとは思いませんでしたし、100%不快でした。
いくら優しく親切でも、職場のお爺さんに体を撫で回されるのが心地いいわけありません。
だからわたしは上司にも先輩にも、相談しました。
でも、彼らは一様にこう言ったのです。
あー…
あれはもう病気だからね
しょうがないよ
言っても聞かないからさ
まぁ、許してあげてよ
「寛容な心」でさ
相手はもうお爺ちゃんなんだし
その結果、わたしは同じような目に繰り返し繰り返し遭い、2年後に退職するまで嫌な思いをし続けました。
助けを求めても無駄だと思いました。
諦めるしかない。寛容になるしかない。
笑顔でかわすのが賢い女なのだと。
***
言うまでもなく、被害者がハラスメントに対して「寛容」になる必要はありません。ドラマ制作者側にもそういった意図はないでしょう。
でも、「寛容になりましょう/大目に見ましょう」と人気ドラマで訴えることは、泣き寝入りが横行していた時代に、寛容にならず、大目に見ず、刺し違える覚悟で闘った数々の人たちのお蔭でようやく少しずつ怒るべきときに怒れるようになってきた弱者の口を、再び塞ぐことになりはしないでしょうか。
ほら、そんなに目くじら立てないでさ
怒らなくたっていいじゃない
悪気はないんだからさ…
否!
不快だと感じたら、わたしたちは怒っていい。
寛容にならなくても、大目に見なくてもいい。
大事なのは、放っておくべき問題と、見過ごしてはならない問題を見極める為の思考力と判断力を培うことだと思うのです。
***
そんなわたしたちに必要なのは
「寛容」ではなく
「尊重」ではないでしょうか。
若き日のわたしが、あのお爺さんに「寛容」になる必要は断じてなかった。
でもお世話になっているし、などと逡巡することなく、あの場で警察を呼んでやればよかった。
スマホはまだ無かったけど何かしらの方法で録音や録画をすればよかった。
上司や先輩の口調から考えるに恐らく他にも被害者はいたはずだから、彼女たちと徒党を組めばよかった。
わたしも刺し違える覚悟で闘えばよかった。
ただ、そもそもあのお爺さんがわたしを「若い女」ではなく「人」としてきちんと「尊重」していたら、初めからあのようなことは起きなかったのではないか、と思うのです。
被害者であるわたしが
逡巡する必要も
我慢する必要も
闘う覚悟を決める必要も
無かったのではないか。
わたしは、そう思うのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?