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【自己紹介】私を構成するもの

37歳でWeb開発の現場を目指して学習をスタートした”なかやん”と申します。

X(旧:Twitter)やオフラインイベントなどで色々な方に絡んでいっているにも関わらず、自身のことをあまり紹介できていなかったなと思ったので、自己紹介させて頂きます。

どこに需要があるのかは分かりませんが、どこかの誰かの役に立てると幸いです。

私の人生は病気との闘いでした

タイトルだけ見ると仰々しいのですが、私は小さいころから ”アトピー” という病気でした。

私は、幼少期からアトピーで肘や膝の裏が痒く、常に肌を掻きむしっていました。
小学生のころには、痒い範囲が広がり、見た目からしてアトピーだと分かる外見だったので、知らない小学生から「ゾンビ」と呼ばれたりしていました。

昔は「大人になれば治る病気」と言われていたのですが、年を取るごとにアトピーが酷くなり、中学生になると顔にも症状が出て全身に広がってしまいました。

薬でおさえる中学時代。病気が爆発する高校時代

様々な保湿剤や漢方を試しましたが、一向に症状が改善しないので、皮膚科へ行って薬を処方してもらって塗るようになりました。

最初は薬を使うことに抵抗があったのですが、医師より「副作用はないので大丈夫ですよ」と言われて使用することに。
その時の私は子供で、医師の言うことを信じ込んでいたました。

薬を塗り始めると、症状が治まり、同級生の女の子たちと同じような ”普通の人” の見た目になり、とても嬉しかったことを覚えています

痒くない、見た目で卑屈にならなくてよい、夜もぐっすり眠れる…
薬が効いていた間は、最高の気分で「これからアトピーが治って、楽しい人生が待っているんだ!」と思っていました。

しかし、薬の効果は長くは続きませんでした。

薬では、あくまでも症状を抑えていただけだったので、高校1年の時に、抑えていたアトピーが爆発してしまいました

いわゆる ”リバウンド” という薬の副作用で、薬にアレルギーを起こし、今まで以上の症状が出てしまうという、悪夢のような状況に陥ったのです。 

その後、私は若くして寝たきりになり、肌からは血と汁が噴き出し、ベッドから起きることができなくなりました。

高校も通うことができず高校1年の冬に中退することになりました。

青春時代はベッドの上で。

同級生の子たちが高校に通う中、私はベッドの中で動けず、毎日が生き地獄でした。

体を動かすと皮膚が破けて血と汁が出るので、ベッドの上で寝返りもままならず、若くして床ずれも経験しました。耳に膿が溜まって聞こえなくなったこともあります。

高校生である私のことを腰の曲がった祖母が介護するという逆転現象がおき、固形物が食べれないときは栄養剤などにストローを刺して口元まで運んで飲ませてもらう始末。

160㎝の私の体重がみるみる減っていって30キロにまでなると、階段上り下りをするだけで息切れしてしまって、階段が登れなくなりました。

生きていることが辛い日々で、もう二度とこの時代には戻りたくないなと心底思います。

大検取得。社会復帰に向けて

私のアトピーが一年の中で一番悪化するのは夏。
冬場の比較的症状がマシになった時期に、母から「そろそろ勉強して大学のこと考えたら?」と言われ、勉強をすることを考え始めます。

正直、勉強する気力も体力もありませんでしたが、高校を卒業していない人が大学にはいる際に必要な”大学資格検定”(現在の高卒認定)というものを受験することにしました。

一番辛かったのは、見た目から普通ではない状態で受験会場まで行き、椅子に座って受験しなければいけないことが辛かった…。
結果は無事に合格。頑張ったことが結果に結びついて嬉しかったことを覚えています。

その後も、寝込んだり元気になったりを繰り返しながら、少し体調のよい冬などは超短期のアルバイトをしながら、少しづつ社会復帰を目指していました。

高校3年生の年齢の時に、両親から「大検取ったんだから大学に行きなさい」と言われて、私の頭が悪い私は入試の無い専門学校に入学することにしました。

専門学校と通信の美術大学へ

通常の学生が夏休みの期間だけ通学させてもらった美大の校舎

専門学校に入学したものの、アトピーは良くなったり悪化したりを繰り返して、2年生の頃はほとんど授業に出れませんでした。
何とかギリギリ卒業できたという感じで、専門学校を卒業しても、すぐに就職するのは困難でした。

そこで、体調の良い日にアルバイトをしながら、通信の美術大学に通うことにしました。(その頃は、学校卒業後は働いていないといけないという時代だったんですね…田舎だったし。)
通信大学だったおかげで、体調の良い日に勉強をして、何とか卒業することができました。

コネクションを活用して舞台制作会社へ。そして倒産。

美術大学卒業後は「融通がきくから」という理由で、知人の舞台制作会社で働くようになりました。

体調をみながらイベントのお仕事があるときは誰よりも一生懸命働きました。

お給料は安かったですが、体調と相談しながら働ける職場は少なかったので、「このままこの会社で働いて正社員になれれば、最低ラインの生活はできるのではないかな?」と思っていた矢先、経理担当の方がお金を持って逃亡し、会社が倒産してしまいました

その後、私のお給料も未払いが何ヶ月間かありましたが、諦めるしかなく、半強制的に就職活動をすることとなりました。

またアトピー悪化、日本の病院へ入院

その後、派遣会社に登録して短期的なお仕事を中心に働いていましたが、私のような長期的に働けない人間は仕事がほとんどありません。「アトピーが出ない職場」というのが、当時の私にとってはとても高いハードルでした。

そのうち無理がたたったのか、病状が再度悪化。
「仕事をするよりも病気を治した方が良い」という結論に達し、親から借金をして日本の病院に入院することになりました。

過去に薬で辛い思いをしたため、田舎にある薬を使わない治療で有名な病院に3ヶ月程度入院し退院してからも真面目に治療に取り組みましたが、結果としてこの治療でアトピーが治ることはありませんでした。

その後も短期派遣で働いたお金は全て治療に注ぎ込み、様々な治療をしてきましたが、思うようには回復はしませんでした。

治療のためにアメリカへ

アレルギー治療のクリップテスト

日本中の治療を検索しては試す日々を繰り返し、「もう一生治らない病気なんだ…」と諦めかけた矢先、アメリカに渡米してアトピーを治療した方のブログを発見します。

渡米治療について必死で検索して調べ、再度親にお願いをして渡米治療をすることにしました。(親からは猛反対を受けましたが、何とか借金という形でお金を工面できました)

詳しいことは割愛しますが、この治療を選択したことは私の人生のなかの大きな転機になりました。「一冊の本が書けるのではないか?」というくらい紆余曲折、様々なことが起こりました。日本の病院での検査ミスで、薬が受け取れないこともあったりしました(笑)

すぐには ”普通の人” にはなれなかったけど、日常生活を送るのに不自由しないくらいにまで改善し、それが私にとっては涙が出るほど嬉しかったです。

渡米した事をきっかけに、私にとっては最高の治療に出会うことができました。本当に渡米して良かったと思っています。

治療費を稼ぐためにパソコンを勉強したい!

渡米治療を終えて日本に帰ってきても、親からの借金を返済しなければいけないし、治療自体は今後も続きます。

そのために、まずは ”アトピーと共存しながら働ける仕事” について考え、その結果「PCを使ったオフィスワークが良いのでは?」と思い、PCスクールの受付のアルバイトに応募。無事合格。

結果として、アルバイトとして2年、正社員として2年、約4年ほどこの会社でお世話になることになりました。

最初はPCのタイピングすらままならない状態でしたが、最終的には簡単なセミナーくらいは実施できるくらいになりました。仕事と勉強を両立させて、がむしゃらに走り続けました

プログラミング言語が存在することを知ったのもこの頃です。

この頃は、今後も治療を続けていく上で、どうしても治療費が必要になるため、「どうやって同じ時間で稼ぐのか?」「もっと誇れるスキルが無いとダメなのではないか」ということを考えはじめ、お給料を上げたいという思いから転職を決意します。

コロナをきっかけに退職。意図せずフリーランスに。

長らく後任の方が決まらず、時期を逃したものの、コロナ渦のタイミングでPCスクールを退職し、その後、就職活動を行う予定だったのですが、元同僚から事務員を探している知り合いがいると言われ、面接に行くことに。

面接先の企業はWeb制作会社で、業務委託という形で良いお返事が頂けました。正直、正社員雇用を目的として就活していたのですが、「これもご縁だから」と唐突にフリーランスになることを決意。

しかし、フリーランスは甘くない!24時365日ずっと仕事をし続ける毎日…電話対応も私が担当していたため、夜中の3時に電話がかかってきたら飛び起きて電話に出ることもしばしば…(そういうサービスだったというのが大きいですが)

ただの事務員にも関わらず、コーディングやSEO対策などのWeb制作に関して沢山の事を学ばせて頂いて感謝していますが、体調と相談して約1年半程度で契約を終了することとなりました。

IT業界の片隅の教育者に。

その後、PCを使った仕事がベースとしてお給料を上げれる仕事はなんだろうか?と考えた時に、”エンジニア” という単語が頭をよぎりました。

沢山の求人を見て、「いや…エンジニアはさすがに無理だろう…」と思っていたのですが、「やる前から諦めるのはよくない!」と考えて手当たり次第に応募。

結果的にはSES企業の面接に行って「講師やりませんか?」と提案され承諾。

現在は、SES企業で講師という名のもと、採用面接やキャリア相談、社内用HPの作成・運用、評価基準作成、勉強会開催、リーダーエンジニア育成、社内のイベント企画、資料作成、など、”何でも屋さん” をやっています(笑)

ちゃんと学びたい。情報大学入学。

大学ではテキスト代がすごいことになる…

何でも屋とはいえ、講師という立場から「自分がしっかりと学ばなければ!」と思い、通信教育の情報大学に通うことを決意

きっかけは、教師をしている友人からの「国立大学の入試で情報の科目が必須になるらしいよ?大学行って教職取ったら?」という一言でした。

「将来病気が悪化しても、教員免許持ってたら、フルタイムで働かなくても何とかなるかも…エンジニアの人たちにも勉強した内容を教えることができるし…」と考え、大学の入学願書を提出。

ありがたいことに短大卒業の単位を使い、3年次編入で無事に入学することができました。

大学の単位の取り方が分からず四苦八苦したものの、学習ペースが掴めてきたころに「実際に現場で役立つコードが書きたい。成果物をつくりたい!」と思い始めRUNTEQというプログラミングスクールへ入学を決めます

まだまだ学ぶぞ!RUNTEQ入学!

RUNTEQのYouTube「エンジニア転職チャンネル」は随分前から拝見していて「スクールに通うならここが良いな」とずっと思っていました。

HPを拝見してもカリキュラムがしっかりしていて、生徒同士で支えあう環境を提供しているということが何よりも魅力的でした。

エンジニアの育成に携わらせて頂いている中で、成長する人は ”周りを巻き込む能力” があり、あまり成長しない人は ”一人で頑張ろうとする” 人だと、痛いほど理解していたからです

大学との両立が不安で1年半ほどただのYouTubeのファンだった私ですが、現在の会社を2023年12月で退職することが決まり、「退職するならRUNTEQで勉強する時間が取れるかも」と、少し早いタイミングで9月から学習をスタートすることにしました。

私が叶えたいこと

同じ治療をした人達と遊んだ時の写真。今は元気もりもり(笑)

子供のころから人と違う見た目に劣等感を抱き、”普通” であることがとても困難な人生でした。

・ご飯を食べる
・学校に行って勉強する
・友達とおしゃべりする
・ぐっすり眠る

そんな当たり前なことが手に入れられない方々は、私以外にもまだまだ世の中に沢山いらっしゃると思います。

私の若いころに、”オンライン受験”や”ネット高校”、”リモートワーク”などが世の中に普及していれば、ここまで苦労することも無かったかもしれません。「世の中の進歩がもっと早ければ…」と思うことが未だにあります。

病気の人やそうでない人でも、世の中のルールに適応したくてもできないマイノリティな方々のために、何かできることはないかと考える日々です。

それが、仕事としてなのか、ボランティアとしてなのかは分からないし、自身の身の回りの方に向けてなのか、見ず知らずの誰かに向けてなのかも分かりません。

ただ、医療や文明が発展したことにより、運よく楽に生きられるようになった私は、これから誰かの役に立つような何かを創り出したいなと思っています。

それが、エンジニアとしてなのか教師としてなのか、医療分野なのか全く違う分野なのかは分かりませんが、光の当たらない人生も、もがき続ければ何とかなると、楽しくなると体現していきたいです。

困っている人達に一筋の光が差し込みますように。

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