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命ある限りは

金曜ロードショーで『すずめの戸締り』を観た。

前作『天気の子』では
だれか一人を犠牲にして
みんながお日様の下でのびのびと生きるか

誰も犠牲にならない代わりに
みんなが雨の中で不自由に生きていくか
問いかけられた気がするけど

すずめの戸締りでは
同じような問いかけをされつつ
(お役目を与えられた人間の犠牲のもと成り立っている平穏)
それをラストまで引っ張らずに
新海監督が描く未来を見せてもらえたのが嬉しかった。


草太が要石となったことを知りつつも
しくじったが本望だと受け入れている祖父の思いは、自分たち家系が受け継ぐ血筋のお役目だとわかっていてこそなんだろう思いつつも辛かった


草太が要石として刺されたあと
「もう人じゃない」とダイジンが言っていたけど、

要石として封じ込められていたダイジンは
もともと草太と同じよう人間で
その昔災害や土地を鎮めるため
要石にさせられた人柱なのではないか。

人に生まれながら
役割を与えられてそのように振る舞うことで
カミとしての力が芽生え増幅されていく。

現代では”象徴”として存在する天皇が
その昔は現人神だったのも
同じようなことが言えるのかもしれない。



新海監督は何を知っているんだろう。

私たちの日常は誰かが傷つき
命を投げ出たりしながらやっと保たれている
まがい物のようなものなのだろうか。

どこかで誰かが草太の家系の人々のように
100万人が死ぬより自分一人が犠牲になれば良いという思いでいたりするのだろうか。


「すずめの手で元に戻して」と言ったダイジンと、「人間の手で元に戻してほしい」と言ったサダイジン。

誰かが誰かのため犠牲になることで土地を鎮めるような禍々しい歴史の繰り返しではなく、
あたらしい扉をすずめたちに開いて欲しかったのかなぁ。



結局自由になれず、すずめの思いに共鳴し
自身が要石になった(もどった)ダイジン。

草太が要石になる時の感情を思い出し
(元々が人間だったとするなら)
ダイジンもあんなふうに
要石としての役目を飲み込み
凍りつきながら眠っていったのかと思うと
切なくてたまらない。

要石に戻ってくれたダイジンを
草太(男)とすずめ(女)が
混沌に向かって突き刺す場面で
イザナギとイザナミが混沌に矛を刺し
国生みを行うシーンを思い出した。




常世で大きくなった自分に会い
同じく常世で子供の自分にあったすずめ。

夢の世界はあの世と繋がっているとはよく言うけどもしかしたら私たちもスズメと同じようなことを当たり前に毎日行っているのかもしれないね。

起きたら綺麗さっぱり忘れ
「たかが夢」と笑ったりしているから滑稽だけど。



すべてが起きた後も続く明日があって
生と死は同じもので、

私たち一人一人がそれを認識(思い出し)し
どう未来をイメージしていくか
どう今を生きるかで

想像もしてなかったような
明日が待っている可能性があるのかな。

生こそが夢幻で
たとえこの姿がかりそめであったとしても
命ある限りは
生きたいと真っ直ぐ思える自分でありたい。


ストーリー云々より、
何を伝えたいかが真正面から伝わってくる映画だったと思う。
観てよかった。











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