落語「紺屋高尾」の解題

トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出」という小説をご存じだろうか。あるコラムで、年の離れた(祖母と孫くらいの)バディものという紹介に惹かれて手にした本だったのだが。

凝った装丁と挿絵の本である。ごく短い小説なのに、この一編しか収録されておらず、独立した一冊になっている。

紙の質感は、挿絵の版画に見合った手触りと厚さで大変趣味がいい。
切れのよい文章。作家自身が愛し、よく自作の朗読に選び、そして多くの聴衆の涙を誘ったという作品世界。それに見合う装丁をと、この作品を愛する出版社なり編集者が吟味して選んだのだろう。

解説は村上春樹である。簡潔で、過不足なく作品の魅力を伝え、ページに、はかったようにきっちりと収まっている。作家への敬意と作品への愛にあふれ、それすらもこの本の大切な一部として。

イノセント・ストーリーと呼ぶしかない作品、と村上春樹は紹介しているがその内容は、誰もが子供の頃には持っていて、大人になり世間知を得てからは失われる、美しい一時の純粋な想いそのもの、とでもいうべきものだろうか。
まだ幼い主人公の少年と、60歳になってもまるで童女のような主人公の年の離れた「いとこ」、そして彼らの愛犬。少ない登場人物だけで紡ぎ出される、クリスマスの準備の日々とクリスマス当日、そしてそれらが失われる短い後日談を淡々と描く、ただそれだけの短い作品。

さて。
この本を読んでいる頃に立川志の輔さんの落語会に出かけたのだが、そこで聞いた「紺屋高尾」は、これもまた、ある種のイノセント・ストーリーなのではないか、と思ったので書いてみることにする。

「紺屋高尾」というのは古典落語の有名な演目である。
志の輔さん始め多くの演者がよく公演する演目で、人気も高い。
筋書きはというと。

吉原という江戸では有名な遊郭。そこの花魁道中(美人で人気のある花魁の行列=パレードのようなもの)で見た高尾太夫(太夫とは最も人気と格式の高い花魁=高級娼婦)に一目惚れした若い染物職人の久蔵。太夫というのは、お大名か豪商しか相手にしない、いくら夢中になっても何の望みもないと聞いて、思いが募り寝込んでしまう。
親方は久蔵の悩みを聞き出すと、いくら高級で格式が高いといってもお金があれば一目会うくらいは、と久蔵を慰める。それを本気にした久蔵は、高尾太夫に一目会うためだけに、3年間寝食を忘れて働き続け大金を貯める。  3年後、すっかり忘れていた親方だったが、気持ちが変らない久蔵にのために仲買をする人に頼み込み、豪商の若旦那ということにして吉原に送り出す。

ここまでが前段。
さて、吉原に出かけた久蔵はめったにない幸運が重なり高尾太夫に会い思いを遂げることができた。通常、この手の格式の高い遊女は一見さん(一回限りの客)ではなかなか会えないのだが、偶然が重なり高尾のきまぐれもあり、願いがかなうことになる。
その後、次はいつきてくれるのかと問う高尾太夫に、
久蔵は正直に「三年後に来ます」と答えてしまう。
遊郭では裏を返す、といって遊んだ後はなるべく早くに2回目の登楼(遊郭にあがること)をしなければならないのだが、そもそも3年も働いてようやく溜められた大金、そうそう2回目にこれるはずもなく・・。

その話を聞いた太夫は、3年もの間自分を一途に思ってくれた久蔵の真心に心を打たれ「自分の年季があけたら、あなたの女房にしてください」と頼みこむ。遊女というのは、親の借金のカタに遊里に売られてくる女性で、その借金を返せれば自由の身になれる。いわゆる年季という契約年限まで勤め上げて故郷に帰るか、あるいはお金持ちに身請けされる(借金を払ってもらい妾なり妻なりにおさまる)か。自由の身になる道はあるにはあったということだ。とはいえ、身体を壊すものも多く、当時の性病は悲惨な予後も多かった。ようやく年季が明けても春を売っていた過去は消えることはない。故郷に帰ることもままならず、そのまま遊里で下働きをするものも多かったようだ。
夢見心地のまま奉公先の染物屋に戻った久蔵の言うことを親方はじめ誰も信じないが、約束の日になりすっかり人妻の装いで店先に現れた高尾太夫に親方をはじめ染め物屋一同は仰天する。
久蔵は高尾を娶りのれん分けしてもらって店を出す。
高尾は染物屋のおかみさんとして働き始め、評判の美人でもあったので染物屋はたいそう繁盛した、という。

さて、ここからが解題編になる。
この話の肝というのは、高尾に逢いに吉原に向かう前に
仲買となる人物(医者ということになっているが、あちこちに出入りして顔の利く事情通といったところか)が久蔵に言うセリフであろう。

ここで藪井という医者は久蔵に、厳しい一言で念を押す。

ーーー
いくら3年間寝食忘れて稼いだ金だと言っても、
ああいう場所では必ず太夫に会えるわけではない。
むしろ会えないことの方が多いだろう。
それでも「会えなかったじゃないか」といって、私や親方を恨まれても困るそれをわかった上でいくんだよ、それでもいいかい。
ーーー

3年間努力して努力して、ようやく願いが叶う、
その本当に嬉しい瞬間に、ぽんとものを買うようにはいかない、
一目会うことも叶わないかもしれない、
そういうものをおまえは望んだんだよ、と大人の常識をあらためて示す。
こんな大金をそれでも使ってしまっていいのかい、と。
おまえさんの恋心を納得させるために、それだけのために使うことになるんだよ、と。

そんな風に大人の世界の常識をもう一度きっちりと見せつける。
だからこそ、3年の間、無理して稼いだ大金で、
会えるかどうかわからない(むしろ会えない確率の方が高い)花魁に会いに行く、という無茶と、
無茶と知りながらもそうするしかない、大人の常識や世間知、損得勘定では
どうしたって割り切れない、久蔵の思いの強さが際立つ。

一瞬で、聞く人に、ああ、こういう時期があったよなあ、とそっと遠い昔を振り返らせるような瞬間。

この一節があってこそ、久蔵の一途さに花魁が涙し・・というシンデレラストーリー(この場合は男性なのでシンデレラというのも変だが)が人の心を打つものになる。
こんないい話は現実にはないよね、そう思うからこそ、それをどれだけ説得力を持って展開するかが、演者の話芸でもあるわけなのだが。

イノセントストーリーと呼ばれるものには、
例えば母親を守るために、絶対かなわない大人に歯向かっていく男の子とか
いくつかの類型があるように思う。
大抵は無力で力のない弱きものが、それでも必死で何かにあらがう
自分がかなう相手かどうかを考えずに夢中で向かっていく、
それをしないと自分の中の大切な何かが失われるとわかっているかのように
意外なほどの「強さ」で立ち向かう瞬間。
そういった、ただ夢中で自分の心の命じる通りに突き進むことが
人生のある瞬間には絶対に必要なのだが、
とはいえ、大人になってからは往々にして背負うものの大きさから
その強さが失われてしまう。
だからこそ。
不意に現れるそんなまっすぐな「強さ」に人は心を打たれる。

『紺屋高尾』は、そもそも最初から大人向けの物語であるから
すこしその概念からははずれている。
童話でもジュブナイル(少年少女向け小説)でもない。
なにより遊郭という大人の世界が舞台になっている(映画ならR指定)。

もっというなら、落語という芸能自体がどちらかというと大人向けのもの。
ナンセンスや人の業の滑稽さを話芸できかせ、
そこでは、世間知のない人物は失敗し笑われる対象となり、
多くの場合、世間知のあるご隠居さんにさとされる愚者でしかない。

遊女を主人公にした話も数多くあるが、ほとんどが奸智にたけた遊女と
それを信じこむ客を笑う滑稽なはなしばかりだ。
だからこそ、遊里にはありえない純情な恋愛が、人を落涙させる上質な人情話として成立しえたのかもしれないのだが。

それとともに、久蔵がした一番の決断と言えば。
明らかに勝ち目のない賭けだとしても
どうしても賭けをしなければいけない瞬間に決断できるか、という
その選択をきちんとした、ということだろう。
もちろん現実には多くの人が苦い思いとともに、賭に負けていく。
その賭けを前にして、どうしても決断できない人もいるように思う。
むしろそこで引き返すようなへなちょこな人物の方が落語の主人公に
なりそうな人物のような気もするのだが。


この話は、落語によくある「一見ありそうだが決して現実にはありえない
ファンタジー」でもある。久蔵はまず勝ちめのない賭けに勝ちすべてを手に入れるのだから。

そのファンタジーをいかにきっちりと話の間だけ、本当のように聞かせるか
それが話芸の神髄、ということになるのだろう。

さて、次回はイノセントつながりで、
奈良美智の青森県立美術館での展覧会の話でも。

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