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これからがこれまでを決める「藤代聡麿」

 一年半ほど前のある日、お参りに向かう際にラジオでFM802を聴いていました。かかっていたのはアップビートという番組で、DJの加藤真紀子さんがいつもお昼時を楽しくしてくださっています。その日はゲストとして藤井フミヤさんが登場していました。

 「へー藤井フミヤか。TURE LOVEとかanother orionぐらいしか聴いてこんかったなあ」などと思っていました。その日は水曜日で、ゲストである藤井フミヤさんに大切にしている言葉を心を込めて朗読してもらうという「水曜一行朗読会」というコーナーになりました。

 カトマキさんが、「ではフミヤさんお願いします。」と促した後、

 藤井フミヤ「これからが これまでを 決める」

と朗読されました。「へぇ」ちょっと不思議な言葉やなあ、と思っていたんですが、半分聞き流しです。運転に集中。ただなんとなく考えると、意味が解りません。これまでが今の私を決め、今の私がこれからの私を決める、と考えるのが普通です。つまり、過去が今を決め、今が未来を決める。ところがこの言葉は、「未来が過去を決める」かのような形になっています。変です。

 カトマキさんも少し戸惑ったような声で、けれども中身には触れずに、「これはどなたかの言葉ですか?」と尋ねました。藤井フミヤさんは「これは、浄土真宗の名僧、藤代聡麿という方の言葉です」と答えていました。

 思わず「ええ!」と笑ってしまいました。まさかラジオから、FMから浄土真宗などという言葉が聞こえてくるなんて考えもしていませんでしたから。以降、注意して聴くことになります。

 特に藤井フミヤさんが浄土真宗のみ教えを聴いているわけではなさそうでした。新聞のコラムでたまたまこの言葉に出遇って、その大切さを感じて、自らの歌の歌詞にも使用したこともあるとのことでした。

 問題はその中身・内容です。「これからが これまでを 決める」
「これから【の生き方】が これまで【の意味】を 決める」と補足するとわかりやすいのかもしれません。過去に会った様々な出来事、苦しかったこと、つらかった思い出、悲しい別れはそれぞれにある。それらをそのまま悲しいことにしておくことも可能だけれども、今後の生き方次第にによっては、「先につながる大切な節目だったのかもしれない」とその「意味」を変えていくことは出来る。

 だから「過去は変えられないと思っているけれど、実は変えることができるんですね」と、しみじみと話していたのが印象的でした。

 なるほどと思ったのと同時に、ああ、死別という出来事についても同じことが言えるなあと思いました。大切な方との死別を、葬儀という儀礼によって悲しい別れの儀式としてのみ受け止めることは可能です。けれど本当の葬儀はそれだけでない、「仏さまとの出遇いの場であった」といただける世界が開かれる現場であるはずです。

 もちろん、別れの真っただ中で、そう受け止めることは難しいかと思います。だから、先人の方々は中陰参り(七日毎のお勤め・四十九日)や月参り(月々の命日のお勤め)、年忌のご法事などを通じてここを聴いてきたのでしょう。

「これからが これまでを 決める」

 どのような出来事にも「意味」は最初からあるのではない。「見いだしていく」ものだということにもつながってゆきそうです。


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