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答えを自分の中に見い出すチカラ

芸術などの表現活動において、わかりやすくない作品というものに出会うことは少なくない

人はわかりやすいものを提供されたとき、あたかもたいそうなものを見たような満足感を感じ、それがダイレクトに良い作品だった、と安易に評価につなげてしまうという経験はないだろうか

果たして良い作品だった、と決めるその根拠となるのはどんな要素なのだろう
といつも疑問に思っている

たとえば、本は何のために読むのだろう…
と考えてみた
知識を得る、という目的がいちばんしっくりくるかもしれないし、その事実については疑う余地もない

さて、問題はその先だ

得た知識をどう活用していくか、が本来知識を得るということの本質的な目的となるのではないか

なぜなら、情報を丸暗記して憶えたところで、そこからの発展性はないと考えるからである

そもそも知識を得るということは、世の中に溢れている情報収集にほかならず、自分自身の血や肉となってくれるのは貯金した情報量ではなく、その情報をもとに自分の行動に消化していったり(それを経験ともいう)、人と意見を交わすことでいままでに考えつかなかったようなアイデアを生み出したり、などに役立つ保有アイテムを増やす行為なのではないか

わたしたちは自分で考え行動する、ということで自分の現実を作っていく

決定するプロセスにおいて、情報は大きな役割を果たしてくれる  ただし、そこで大切なことは、その情報自体が決定してくれるわけではないのだ
あくまでも決断するのは他人ではなく、自分自身であり、その結果を引き受けるのも自分自身だ

何が言いたいのか、というと
つねに私たちは、誰かに与えられるのではなく、自分の中で答えを探しているのだ

というか、答えは自分の中にしかない

なにが正しくて
なにが間違っているのか

それすら自分での判断となる

やっとここで最初の話に戻ると

芸術を見るということ、それはその作品から私自身は何をどう感じたのか

心が揺れたのか
はたまた何も感じなかったのか

演出家の意図を感じることはとても意義のある事だと思う  ただそこで終わってしまうのはもったいない
その意図について納得したのであれば、何にどう納得したのか、そこを深堀りしていくことが自分を知る道筋となったり、自分の意見を持つ、ということになるのだろう

良いとか悪いとかの世間的な評価よりも、自分の軸を持ちながら感性を揺さぶられたり、新たな発見をしたり、時にはショックを受けたり…

そんな中で自分にとってはどんな作品だったのか、と照らし合わせながら私なりの批評なり、答えなり、もしくは、それでも理解出来なかったり…

とあれこれ考える過程の中で考えるチカラってついていくものなのかな