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ロンドン滞在8週間。日本の劇場にいけなくなったその理由とは?

3月〜5月のうちの数週間と8月の丸々一ヶ月をイギリス、ロンドンで過ごしています。
基本は毎日ロンドンのどこかの劇場にいるのですが、故に感じる日本とロンドンにおける劇場の楽しみ方、愛で方の違いがあります。

劇場について掘り下げる前に、「公共」という考え方について触れたいと思います。

日本で「公共」の場所というと、「みんな」のものだから、他の人に迷惑をかけないように振る舞う。そういう共通認識があるように感じます。電車内は静かで、電話の着信音があっただけで、目を向けられ、「あ、すみません、今電車内なんで」と、コソコソいい電話を切る。
「みんな」のものを「自分」優先で使う人を悪とする。

一方で多くの国では、そもそも「公共」の場所は「みんな」のものだから、それぞれが好きなように過ごし、それに対して管理者でもない自分がどうこういうものではない、コントロールできるものではない、という印象があります。驚くほど「公共」の空間は賑やかだし、隣人との境界線も緩いと感じます。

この「公共」のもの、「みんな」のものだか
ら、という考え方の違いが、そのまま劇場の内部にも入っていきます。

劇場も「みんな」と作品を共有する「公共」の場です。

日本では他の人に迷惑をかけない、という判断軸があるため、いろいろな予防策が働きます。

物音がたたないように劇場内の飲食は禁止、
着信音等がならないように電波抑制装置の発動といったルールや措置が講じられるのです。「みんな」が“鑑賞”に集中できる環境を作る。案内係は監視をし、少しでも物音を立てたり、身体を動かしたら、別の観客に注意される。

一方でここまでしてもビニール袋の没収や電子時計の音の遮断はできておらず、クレームやいざこざの原因になっています。これでは緊張感が解けないですし、リラックスして楽しめる状況であるとは言いにくいでしょう。

一方でロンドンの劇場にいると、数分に一回はグラスの倒れる音や話し声が聞こえ、なんなら電話の着信音が一度も鳴らなかったことは、記憶にありません。

先日BBC Promsのコンサートでは、ある観客の止まらない着信音が、演奏前の世界的ヴァイオリニストのイザベル・ファウストに、二度楽器を降ろさせました。もちろん決して歓迎されるべきことではないですし、それに対してフラストレーションを溜める方は、舞台上のアーティストを含めある一定数はいると思います。

来日したアーティストが、日本人の観客は静かで集中してくれるから良い、というのは、このようなことが日常茶飯事だからではないでしょうか。

ここまでは、ロンドンが非常にネガティブな印象を与える情報しかありませんが、それを上回るポジティブな要素を紹介していきます。

●飲み物やアイス片手に
 リラックスして楽しめる。
●大笑い、歓声がすぐに起き、
 舞台と客席の間にインタラクティブな
 コミュニケーションが起きる。
●隣の席の人と、なぜか話が盛り上がる。

「公共」の場だからこそ、「みんな」と作品を楽しむ、そう言った緩やかなコミュニティ、安心した空気が発生しているのです。極端な言い方をすれば、観客自身は、オーディエンスであり、かつ「みんなで楽しもう!」と空間を楽しく彩る側でもある、という印象を受けます。

家族や友達、パートナーと来る場所である劇場に、アジア人の男性が1人。この状態が珍しいのか、低くない確率で話しかけられます。ある劇場で、そこでは上演されていない別の作品について盛り上がることもあれば、オペラのプロデューサーをしていたことを話すと、友達を連れてきて「オペラ創ってたんですって!」とおばさまに囲まれたりと。1人で来たのに、独りではない感覚に陥るのです。

この「公共」の捉え方に加えて、作品を受容する際の心持ちの違いもある気がします。

日本では「鑑賞」と言われるように、舞台上のもの、舞台上から発されるものは崇高でありがたいものである、それを拝みに劇場に足を運んでいる、という要素があるように感じます。そのため間違いや自身の既知のものとの違い、流れを止める邪魔なものを嫌う傾向にあるのではないでしょうか。

ちなみにパフォーマンス研究の過程では、日本古来の芸能である能が、知識/勉強した者がその舞を観て、ホウホウ🤔と吟味する専門家中心のパフォーマンスであることが指摘されています。

また蛇足ですが、『沖縄文化論』という本の中で、岡本太郎が美ら瘡という考え方について述べていました。島国であるが故に、海の向こうからやってきたものに対して、それが例え疫病だったとしても、それを祀る祭祀が残るように、ありがたいものとして受け入れる傾向にあるのではないか。このように岡本太郎は島国の文化受容について考察していました。

確かにミュージカルが日本で公演される際は、必ずと言っていいほど「ブロードウェイ・ミュージカル」と冠タイトルがあり、「ルーヴル美術館展」といったような美術館の名前の展覧会が人気を博すように、海外の名前を祀ってありがたがる、そう繋がっているように感じます。

「鑑賞」者はこの形式の「鑑賞」を楽しいと感じているし、この形式の是非を問いたいわけではないです。僕には居心地よく感じることができない、ただそれだけのことです。それだけ周囲の環境によって、体験に対する印象が180度変わるという事実だけをお伝えできていればと思います。

この「鑑賞」という形式は、「集中」することを求めます。ただ「集中」しているのと、「集中しているふり」をしているのは異なるのではないでしょうか。

そもそも人間、動物は「集中」できないものだと思うからです。そこに思わず「集中」させる外部の力があって、「集中」できるのではないかと思うのです。「夢中」という状態と近いのではと。

となると外部の力次第で受け手のアクションが変わることになる。劇場の場合はパフォーマンスする側に当たり、責任が課せられているように感じるのです。舞台がとてつもない覇気を放つ時があります。その時、このロンドンの劇場でさえも空気が張り詰め、全員の全感覚がその対象に「集中」し、劇場空間は形容し難いものに変容します。

一方で日本では割と「集中しているふり」が多い気もするのです。静かだし、じっとしている。実際は飽きていても、「みんな」に迷惑をかけないようにじっとする。そのため「集中しているふり」をする。パフォーマンスする側の視点では、惹きつけなくても、客席をコントロールできているように見えるため、前述の責任を持つ必要がない。劇場空間の空気がヌメっとしたまま時間が進行していく。そのように感じるのです。

パフォーマンスする側の責任については、ロンドンで上演が長く続く舞台でも感じることがあります。10年以上週8回上演できるほどの人気作。目玉ゆえ観光客にセレクトされやすく観客は絶えない。故にスタッフも含めてヌメッとしているのです。

繰り返しになりますが、僕は「鑑賞」を楽しいと感じている方がいる限り、リスペクトしていますし、体験形式の是非を問いたいわけではありません。僕には合わない、僕は楽しくない、ただそれだけのことです。

劇場に行ってみて、
「つまらなかったなぁ」「楽しくなかったなぁ」と感じることがあるかもしれません。
それは作品本来の魅力のなさや、受け手である自分の落ち度ではなく、周りの環境によるものかもしれません。

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