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【読書記録】はじまりの樹の神話

岡田淳 作の『はじまりの樹の神話』が劇団四季のミュージカルで上演されることを知った時は胸が躍った。
岡田淳作品のファンだからである。作品のファンを通り越して、もはや岡田淳さんのファンと言えるかもしれない。それほど、好きな作家の作品がミュージカルになると言うのである。それも劇団四季の!心躍らずにいられないニュースだ。
しかし、こそあどの森シリーズの中でも一番分厚いと記憶しているこの本。内容がうろ覚えであった為、久しぶりに『はじまりの樹の神話』のページをめくった。

物語はある日、こそあどの森に大昔から樹がやってくることから始まる。
主人公のスキッパーは突然現れたホタルギツネに頼まれて樹にくくりつけられていた少女を助け、少女とホタルギツネはこそあどの森で一緒に暮らすことになる。しかし、少女とホタルギツネはそれぞれの使命を感じ始め、物語は動き出す。

登場人物それぞれの考えや行動、気持ちの変化が日記の様に時系列で丁寧に描かれており、最後まで予想がつかない展開に一気に読み進めてしまい、ページ数の多さを感じさせない。
そして最後のスキッパーの一言。
「そうだったんだ」を読んだ瞬間に、えも言われぬ壮大な気分と共にジーンとするのだった。

印象に残っているセリフがいくつかある。
1つは戦うことを決めたハシバミに、スミレさんが言う言葉「ハシバミ、最後にひとついわせてくれる?あなたは逃げたことをずいぶん気にしているけれど、あのとき逃げたから、多くのことを学べたのじゃないの?ときには逃げることも必要なのよ。これからだって、そうよ。逃げてもいいのよ」
「逃げてもいい」この言葉はここ数年よく聞くようになった。
何事も途中で投げ出さず、忍耐こそ大事、と教えられていた時代から、それもそうだが、最近はあまりに辛い時は「逃げる」という方法もあることを教えられている。「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマがヒットしたのも記憶に新しい。
驚くべきは、この本の初版は2001年なのだ。なんと作者は20年も前からその事実に気づき、物語を通して子ども達に伝えてくれていたのだ。
小学校の図工の先生だった作者は、現代を生きる子ども達を間近で見ながら、このことを伝えるべきだと感じたのではないだろうか。研ぎ澄まされた感性でものを見ている文化人の言葉は、時代よりも早く、私たちがGoogle先生に問いかける何年も前に、一つの真実を教えてくれるのである。
この本を読んで20年も前にこの言葉に出会えていた子ども達は今、逃げることも選択肢に入れて社会で戦える大人だ。幸運で幸福である。本を読む意義はそこにあると言っても過言ではない。もちろんそれだけではないが。
これからどんなに時代が巡ろうと、最もはやく重要な情報を手に入れる術は本ではないかと思い直した。「戦う」ことと「逃げる」ことどちらを選んでもいいのだ。正解も不正解もない。選んだ方に道がある。

もう一つの印象に残った言葉は、アケビとスグリの「服は気持ちを変えるから!」という言葉だ。これには「なるほど!」と膝を打った。私は服を消耗品の様に考えていて、できるだけ安い服を何十年も着続ける。傷んでいなければ気に入ってなくても何年も同じ服を着たりしている。勿体ないからだ。しかし、機会があって、例えば卒園式に袴を着たり、スーツを着たり、友達の結婚式にドレスを着たり、はたまたほとんどはかないスカートをはいたりすると、それだけで気分が上向きになる。服というのはそういう力があるのだ。今まで服というものをないがしろにしてしまっていたかもしれない。最近みたアニメ、鬼滅の刃でも「人は心が原動力だから」とか「心を燃やせ」というメッセージをよく耳にする。「服は気持ちを変えるから!」心を動かせる服は重要なんだ、と気づくきっかけとなった。

最後に、この物語の中では、太古の昔、人間が敏感であったであろう「感じる力」「第六感」のようなものが描かれいることにも関心をもった。現代には様々な障壁があり鈍感になってしまっているが、例えば「気」と呼ばれる様な目にみえない力が本当にあるのではないかと思う。「目にみえない」が為に本当にそんなものはあるのか、と疑われ失われつつある人間の力。私も全面的に信じられるわけではないが、「ない」とも言い切れないのではないかと思う。そこで、とある番組で落合陽一と二宮和成が、対談中にこんな話しをしていたことを思い出した。
「1つの町が同じものに集中する、 解明できないけどものすごいパワー」
二宮和也さんは嵐としてコンサートをしている時にそのパワーを感じるのだという。なかなか一般人には体験できないことだが、想像するに、それは「気」と呼ばれるものと似ているのではないかと思う。
人間が発する「気持ち」や「思い」は何らかの力として働くのではないかと。それが結局は「祈り」に繋がっているのではないかと。太古の昔から人々は飢饉や疫病が流行るなど困りごとがあると「祈り」を捧げた。一人の「気」では変わらないものも大勢の「気」が集まれば変わることもあったのではないか。音楽や踊りなどは大勢の心を1つにする為の手段でもあったのだ。
「祈れば通じた」ことがあったから「祈った」のだと思う。それは全て偶然だとは言いがたい感覚があったのだろう。人や物や自然からは目に見えなくても何かしらのパワーが発せられているようだ。
科学では証明できないものは信じられない。もちろん私も同感である。
しかし、今科学で証明できているものは、太古の昔から存在し、かつては証明できなかったものばかりだ。
『はじまりの樹の神話』の登場人物であるハシバミやホタルギツネは、心の声で会話することができる。しかしその為には感覚を研ぎ澄まさなければできない。
この本を読んでいると、「目に見えないけど有る」ものについて、有るかもしれないなあ、いやきっと有るに違いない、と思わせてくれるのだ。それはとても視野が広がり、希望が持てることでもある。

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