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方舟 下

昼下がり、少女は眠れなかった。
過去のことを思い出そうとしてしまうのだ。
思い出せない。
自分の記憶がないことと、自分に価値がないことをどんどんと近づけてしまう。
止めることなどできない。それらを結ぶ糸をどんどん手繰り寄せる。
少女が持つ糸のもう一方の端には怪物が棲んでいる。その怪物はきっと少女を喰い殺すだろう。しかし、少女にとってその怪物を眼前に置くことでしか、この不安を拭うことはできないのだ。
どんどん手繰り寄せる。どんどん、どんどん…。

ふっと力が抜ける。糸が手から落ちた。
怪物がいなくなったのか、はたまた潜在下の恐怖が少女の手を止めたのか。
何もなくなった両手に残るは、平穏か、虚無か。
自分を形成してくれたものを思い出せないのであれば、それは存在しないも等価で、すなわち、自分という存在は形成されていないのだ。
自分がここにいるのは幻想だ。

少女はうさぎを抱きしめる。うさぎはあたたかいはずなのに、自分の内側はひどく冷たい。
冷たくて痛い。冷たくて吐きそうだ。
たまらず少女は目を開ける。
すると死神が優しく少女を見つめ、頭を撫でてくれた。
何故だかわからないが、涙が零れた。泣き声は上がらない。ただたださめざめと。
ぎりぎりまで入ったコップに、さらに蛇口を捻ったから溢れ出した一滴。
死神はその水滴を拾わない。
溢れ出した水滴同士を繋ぎ合わせ、絵を紡ぐ。
描かれたヒガンバナが、少女をやさしく見つめている。

ひとしきり涙を流した少女は、死神と外に出る。
自然と2人は花の前に座った。
風そよぐ。
少女はぽつり、ぽつりと話し出した。
なぜ記憶がないのか。
なぜ記憶がないのに思い出そうとするのか。
自分は一体誰なのか。
ここは一体何なのか。
ここにいた人たちはどこに行ったのか。
私はこのままでいいのか。

赤色の花はうつくし揺れる。
死神は何も答えない。
ひとしきり感情の澱を吐き出した少女は疲れて眠ってしまった。
死神は少しの間、青い月を眺め、少女をおんぶして帰路に就いた。


また7日が過ぎた。
家の前には、もう一輪、青い花が咲いていた。
死神によるとその花は、リンドウというらしかった。

それからは7日ごとに花が咲いた。
バラ。
アジサイ。
クローバー。

49日目。カーネーションが咲いた。
その日も少女は眠れなかった。
怖くなって目を開けた。しかし、その日、死神はちょうどうとうととしていた。
少女の心はきゅうっと縮こまり、そしてそっと外に出た。
色鮮やかな花の前に座る。
ねえ、私は誰なの……
今日は花たちに呼びかける。
答えはない。
少女の問いかけが、風となって灰色の空に消えゆく。
その様をぼうっと見送る。途端、花たちの名前を呼び続けた毎日が忌々しくてしょうがなくなった。
花と自分を繋ぐ糸。それを幾度引っ張るも、二つは決して一緒になることはなく、ただただ色のない少女を浮き彫りにする。
手に溢れる糸。少女の愛の証。しかし、それが徒労だと知った今では、この糸は何の意味を持つのだろうか。
この涙は流せない。自分の今までの感情を嘘にしてしまうことになるから。
わたしはきっとこの花を羨むためだけにこの花を愛していたのではない。
しかし、花はうつくしく揺れる。
これらが少女の中でせめぎ合って、暴れて、争って、わからなくなって。
――少女は花を手折った。
その刹那、少女の頭に情景が流れ込んでくる。

近所に仲のいいおばあちゃんがいた。
少女を見かけると飴をくれた。それはとても甘くて、甘すぎて、でもその甘さに没頭する時間がとても好きだった。
その夜、少女は外を散歩していた。
そうするとおばあちゃんが、少女を家に招き、ご飯を食べさせてくれた。
ごちそうだった。
だし巻き、きんぴら、おひたし、肉じゃが、お味噌汁。それにハンバーグも。
おばあちゃんは少女が嬉しそうに食べる姿に目を細め、頭を撫でてくれていた。

少女は花をもう一本手折る。

朝。
静かな寒さに覗く日の出。
少女はベランダでそれを眺めていた。
暗い夜がだんだんと明かりに代わっていく光景は美しかった。
朝が夜を制して一日が始まるのではなく、ただ夜が眠って朝が起きるだけのことなのだ、なぜかそう悟った。

そうか、これはわたしの記憶だ。
何の因果か、その花を手折ると、少女の記憶が戻るらしかった。
そう気づき、少女がもう一本の花に手を伸ばしかけたその時、扉がバタンと勢いよく開いた。
びっくりして振り向こうとする少女を死神が後ろから抱きしめる。
折られた花。少しだけ記憶を取り戻した少女。表情の分からない死神。うさぎが扉の陰から見つめている。
いきなりの出来事に当惑した少女はこう呟く。
「花、折っちゃった」
死神は首を横に振る。その顔は、悲しみとも喜びとも判別はできなかった。
死神は言う。
「ここはどこなのか、あなたはとても気にしていましたね。
ここはあなたの家です。この家も、私も、花も、すべてあなたのものです。
だから、安心して。ここは、あなたの為にあるのです。」


それからしばらく、少女が花を折ることはなかった。
死神が悲しむのだろうと勝手に思っていたし、またそんなに一人で悲しむことはなかったからだ。

しかし、りんごが下に落ちるように、心もいつか下に落ちるものだ。
眠れぬ夜は、そうっと抜け出して一本だけ手折るようになった。
裏山にあった秘密基地の仲間に入れてもらえたこと。
川の近くで遊んでいたら、おじさんが釣りを教えてくれたこと。
気になっていた男の子に告白されたこと。
嬉しかった。私はこれだけ愛されていたのだと。

どんどん花は増えていった。
98日目にはスイセンが咲いた。
その2日後、100日目にもホオズキの花が咲いた。
そして、死神がもうこれ以上花は咲かないよ、と言った。

少女が花を折る本数は増えていった。
そして最後の一本になった花を見て、死神が少女を手招きする。
「もうわかっているでしょうが、これはあなたの記憶です。
誰かが思い出した記憶が、ここで花の形に咲くのです。」
少女はそんなことは理解していた。
しかし、同時に疑問が首をもたげる。
なぜ、家族との思い出がないのだ。
やさしい記憶はすべて、よくしてくれた他人の話で、もっと家族で遊園地に行ったとかの思い出があっていいはずだ。それがない。
呆然とする少女に、死神は穏やかな声で話す。
「昔話をしましょう。
ここから見える青い地球に生まれ落ちた一人の少女は、一番身近であるはずの人から蝕まれていました。
人というものは容れ物と、その中身からなっています。
容れ物とは身体、肉体、外面、中身とは精神、魂、心と言われる類のことです。
その少女は周りから蝕まれた結果、自分でその容れ物を傷つけるようになりました。
それも目に見えぬ形で。
それほどまでにその少女の中身は強かったのです。
容れ物が磨り減っても、その中身が衰えぬほどに。
やがて容れ物は壊れました。
しかし、その中身は強く、強く生きていました。
だからここに来たのです。」
少女はすべてを思い出す。
哀しかった。少女は唯哀しかった。
何かを失ったわけではないのに、自分が損なわれたような気がしてならなかった。
けれども、容れ物は壊れたが、その中身は生きているということに一点の救いを求めた。
その光を注視すると、傍には死神やうさぎたちもいて、今まで自分が手繰り寄せ続けた糸の先に棲む怪物など、取るに足らない存在のように思えた。
しかし、なぜ今更こんな話をするのだろう、と不思議に思う。
死神は続ける。
「この最後の花を手折るとき、あなたは天国に旅立つのです。
天国ではあなたには幸せな日々が待っています。
抜けるように青い空、命芽吹く野原。
天使が水をくみ、精霊が服を着せてくれます。
昼は花咲き乱れる野原で歌い、夜は満天の流星に眠るのです。」
そうか、ここにいることの終わりは初めから決まっていたんだ。
初めて花を手折った時の死神を思い出す。
あれは哀惜か、祝福か。
いやだ。このままここを離れるのは。
やっとわたしを取り戻したんだ。
それに……
「あそこに暖炉の火があるでしょう。あの暖炉は私たちを暖めてくれます。それでいいのです。火があなたに当たってできた影など見ても哀しくなるだけです。だから、どうか幸せに、天国への旅立ちを。」
「いやだ、いやだよ……。わたしはもう、色のある世界では生きられない。わたし自身に色がないんですもの。だからわたしは何がこの身に降りかかっても、それはじぶんのせいだと、自分の色がないことが相手を傷つけるんだと。だから、その報いを受けることは当然だって。そう思って生きてきた。もうそんな日には戻りたくない。戻れないよ。容れ物が壊れて、中身も壊して、そのあとに、また天国で同じことを繰り返さなくちゃいけないの……?」
泣きじゃくる少女を死神はそっと抱きしめる。
「光は混ぜすぎると白に近づきます。あなたの中身は大きすぎて、多くのものを包み過ぎて眩いほどの白になってしまいました。だからあなたの色はないのではありません。とてつもなく大きいのです。」
少女の嗚咽をのせた風が花を揺らす。
静謐な夜に花弁が舞う。


あくる日、玄関から元気に走り出るうさぎたちに混じって、
もう一匹白い、白いうさぎが駆けていた。

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