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憎悪のエスカレート

 SNSをしていたら、誰もが1つくらいは嫌いなものがあるだろうし、それを嫌いとつぶやいたり怒ったりすることもあるだろう。
 でもそういうネガティブな話題をずっと続けるのは、止めた方がいいように思う。

 何か嫌いな意見や話題があって、それを嫌いだと表明するためにSNSなどで揶揄したり怒ったりする行為は、ほとんどの人が自分の感情を外に出してネガティブな感情を消化するためにしているはずだ。まるで山の上で大声を出して、やまびこを響かせたらスッキリするように。
 だが実際は残念ながら、何かを揶揄したり罵ったりするたびに、その何かに対する憎悪や嫌悪感は増えていくように見える。
 どうやら憎悪は麻薬のようなものらしいのだ。
 さらに麻薬より悪いことに、憎悪は自分を正義にさせ、そうではない他人を悪とみなし攻撃させる。

 そしてそれはあらゆる立場に言える
 どんなにその憎悪に筋が通っていようと、己が世間的に正義の側だろうと、本当に、人が憎悪を表す限り、憎悪のエスカレートの存在はありとあらゆる立場に言えるはずだ。

それはどういう過程か

 それはたいていこんな感じだろう。
 最初は誰もがただの違和感程度の感情だ。そこからSNSで同じ意見の人間を探し、違う意見のものを発見する。
 自分と同じような意見に共感し、違う意見にはより違和感や不信感を持つ。違う意見に「ちょっとおかしくないか?」と言うかもしれない。
 それを続けていくうち、次第に自分と近しい意見の軽い悪口や憎悪に慣れる。逆に反対意見の極端な意見が目につくようになり、だんだんと違和感が嫌悪になる。
 すると嫌いな何かやその味方をする人を揶揄するようになる。自分の意見を正義の側に、反対の意見を悪の側に置くまでに至る。
 そうして生まれた対立からやがて相手を罵り、憎しみが憎しみを育てるようになる。
 自分の中からの憎しみはもちろん、相手から向けられた悪意や、自分と同意見の人が相手へ向ける憎しみも、全てひっくるめて自分の憎しみとして、自分"たち"が正しい側だとの思考を強化していく。
 そうしていくと最後には話題を二極化し、自分たちこそが正義の官軍で、嫌いな相手とその味方はもはや憎むべき敵の悪魔か頭のおかしな人かにしか見えなくなり、攻撃に終始する。
 攻撃するときはたいてい「これは向こうが攻撃されるような/疑われるような行為をしてきたから自業自得で当然だ」のような理由付けがされる。

 そうなると、向こう側の悪意や非道を伝える情報の多さのわりに、自分たちに都合の悪い情報は抜け落ちる。
 最初は目的なんてなかったはずなのに、いつのまにか「敵であるあいつらがおかしいことを証明して倒そう」という目的ができている。
 その目的達成のために真偽不明の噂や勘違い、あるいは扇動から出た「○○はxxの可能性がある」といった相手へのネガティブな憶測が「○○はxxらしいぞ」になり、すぐに「○○はxxだ」と断定になってしまう。
 時に相手に蔑称をつけて呼んでレッテル貼りをしつつ、内輪で連帯感を深めたりもする。蔑称は相手を記号化することで「敵が人間である」という前提を薄くして、倫理観を捨てやすくする。
 そして「敵と味方」で思考を二極化させてしまい、おまけにその過程で出た噂や罵倒や人格否定も、他の人の憎悪を増幅させる装置としてSNS上に残る。

 騒動の中心人物などではない、まだ違和感程度の人や、もっと無関係な野次馬などから出る無責任な軽口や邪推などの「軽い憎悪」も大きな問題となる。
 そういった一見問題ないような軽い憎悪や悪意も、SNSに転がっている量が多いわりに、それらを延々と摂取し続けていくうちにいとも簡単に自分の立ち位置や倫理観を見失わせてしまう。まさに麻薬のように、どんどんとより強い憎悪を求めさせてしまう。
 しかもそれが自分と同意見か異なる意見かは関係なく、憎悪自体への抵抗を麻痺させる効果はあるのがさらに厄介だ。
 この軽い憎悪による憎悪への慣れと、反対の人間への揶揄や罵りによる正義感の強化。
 こういった憎悪のエスカレートを、それぞれの話題のそれぞれの派閥に分かれてお互いがお互いにやりあうので、SNS上の舌戦は狂乱の域にまで簡単に達してしまう。

 「エコーチェンバー効果」という、同意見しかないような閉じたコミュニティで、お互いの同意見が強化されあうという現象がある。
 対してSNSのような開いたコミュニティでは、違う意見も簡単に見つけられる。だから一見、人々の意見や憎悪は強化されないように考えられる。
 だが実際には「同じ意見の人々同士で意見を強化しあう」よりも「違う意見に反発して、さらに自分の意見を強化する」方が強いように思える。
 より悪いことに、たいていの派閥には「敵対派の一部の極端におかしな発言や、いきすぎた罵詈雑言」を見つけてくるのがとても上手い人が存在する。そうしてその情報を味方同士で回して「我々が正しい側だ」と、考えの先鋭化をしていく。
 その際には「自分と同意見の人のおかしな発言」は、あくまで一部の人間だからと無視や切り離しをする行為もほぼ併せて行われるはずだ。
 たしかに自分と同意見の人の一部が過激な発言をしたからといって、同じ意見の人たち全てが過激なわけではない。だがそれは相手にとっても同じことだ。誰かの個人的発言はその個人の責任であって、全体には追わせられない。
 誰もレッテル貼りをされるべきでないと同時に、するべきでもない。

軽はずみな発言はやめて

 SNSで議論という名の狂乱が進むうちに、全く話を知らない人がたまたまRTで流れてきたまとめサイトのスクリーンショットやツイートを見て「(全く知らないけど)〇〇の方が悪い」と軽はずみに放言するのが散見されるようになる。
 そういう人々は無関心ゆえにそういう発言をするので、話が届きにくいからどうしようもない気もするが、ただただ「やめてほしい」と言いたい。「黙れ」と言うつもりではなく「つつしんで」と言いたい。
 あらゆる話題にはそこに至った経緯というものがある。そのたまたま見かけたツイートが、何かを意識的または無意識的に隠していたり、根拠の薄い情報だったりと、何かに都合のいいように書かれている可能性がかなりある。
 そうでなくとも、ツイートの140文字+画像4枚で話題の全体像を描くことが可能なら、人類はあんなに分厚い本をいくつも出版していない。(だからといって長い文章だから中立的だとはならないことは当然だが)
 そしてその無責任な意見は無責任ゆえに大量に流れ、根拠のない話だったとしても「多くの人が言っているから本当では」とさらに多くに広まってしまう。
 とにかく、氷山の一角が白いからといって、海中の大部分も同じく白いのかどうかは、実際に潜って確かめてみないことには分からないのだ。

それはゲームではない

 私が伝えたいのは、あなたはRPGの主人公でもストラテジーゲームのプレイヤーでもないし、今あなたが憎んで敵とみなしている相手もRPGのスライムやラスボスではないということだ。
 RPGで主人公の勇者が敵を倒すと褒められるのは、そのゲーム内で敵キャラクターが絶対悪の、倒すべき悪役だと設定されているからだ。
 ラスボスの一味が村人を襲ったり絶対的な悪事をして、奴らを倒してくれと王や住民に頼まれ、倒すとゲームがハッピーエンドになるからだ。
 でも現実やネットやSNSには絶対悪はいないし、誰もあなたに倒してくれとは頼んでいないし、まずもってハッピーエンドなんてない。
 現実には「倒すとそのへんの問題が全部解決する悪役」なんて都合のいい役割は、残念ながら存在しない。

 「頼まれなくても国とか社会とか、もしくは私自身が被害にあうから反対のために蜂起しないといけないんだ」との反論もあるだろう。例えば政治など、たしかに間違っていると自分が思う政策に間違っていると言うべき場面がある。その時に誰かに頼まれるのを待っていても何も始まらないから、それは正しいと思う。

 だが、たとえ相手がどんな暴虐非道や罵詈雑言の限りを尽くしていようとも、はたまた何かの間違いで誰かに頼まれようとも、それはあなたの方も誹謗中傷や悪意で返していい免罪符には決してならない。
 RPGの主人公は、敵の方が先にしていたのを理由に村人のタンスからお金を盗んではいけないのだ……本来は。

 そしてもし本当に実害があったならば、王や村人に頼まれる勇者の現代版といえる警察といった適切な機関や弁護士などに相談、対処してもらえばよく、現代において私刑をなそうとする勇者はやはり必要ないのだ。

 「向こうが悪意のもと挑発して煽ってきているから、こちらが怒るのも仕方がない」という反論もある。だがそれは「相手の手のひらの上で転がされている」と言っているようにしか見えなく思える。
 煽りや挑発をする人は、相手に怒ってほしくてしている。向こうが煽っていると感じたならば、無視して相手にしない方が煽っている相手にはむしろ効果的ではないだろうか。
 どちらの側にも本心ではつかず、ただ人々が争うのを見るのが楽しいから焚きつける、「対立煽り」と呼ばれる暇な人もいることを考えると、無視した方が結局はあなたのためにもなるはずだ。

相手の悪意を見出したら

 人を攻撃するときに「相手の方が悪意を持っているからやり返す」という理由はよくあるが、相手から悪意を感じたとき、それが本当は相手からの悪意でない可能性がある。
 その一つは心理学でいう防衛機制の「投影」だ。
 投影の説明は引用しよう。引用文中の例えがまさにである。

自分の中にある受け入れたくない不都合な感情や衝動を、他人のものだと思い込むこと。例えば、同僚の一人が嫌いだとして、他人を嫌う自分の感情を認めたくないために、「相手が私を嫌っている」と自分の感情を相手に押し付けて自分の好ましくない感情をないものにしようとする。

投影とは|解説と具体例 | カウンセラーWEB:心理学・カウンセリングの基礎知識

 投影などの防衛機制自体は、自分の心を守るための無意識なメカニズムであって、別に心の病気ではない。どんな人にも普通に起こりうる。
 だが自己の感情が相手にあると転嫁している状態が健全ではないのも確かだ。
 もちろん相手から感じた悪意の全てが投影であるはずはない。本当に悪意を向ける人もいる。だがこういった心の動きがないか一度立ち止まって考えてほしい。

 もう一つは小野ほりでい氏の記事を貼ろう。

 記事中に『偏見や差別に基づいた見方も必ずしも悪意が伴うわけではない』『「自分も無意識にしているかもしれない」という意識と、そうなったときに認めることが大事』といった話が出てくる。
 「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」と説明される「ハンロンの剃刀」も有名だが、誰かがあなたを傷つけたとしても、それは必ずしも悪意とは限らないのだ。
 それはあなたが悪意はないのに誰かを傷つけることがありうることからも明らかだ。

最後に

 最初は違和感程度でも、他人と同調や反発をしているうちに憎悪に慣れ、考えを私と相手で正義と悪に分け、より強い憎悪に過激化してしまう憎悪のエスカレート。
 もう一度言うが、これらはありとあらゆる立場に言える。どんなにあなたの側が正しいと確信していようがだ。
 「正しい」とは、誹謗中傷や人格否定をしていい権利ではないのだ。
 だからこれらをあなたの「敵対相手」と照らし合わせるためではなく、自戒のために使って欲しい。自分や同意見の人に「ちょっと待ってくれ、それは少しやりすぎじゃないか?」と言うきっかけにして欲しい。

 なぜならば、そもそも私がこの文章を書いたきっかけがそうだからだ。
 私は最近のある騒動の話題を追ううちに、どんどん自身とは反対の過激で異常な意見がいくらでも見つかり、深追いしていった。そうしてふと「相手のおかしさを証明してやろう」と思いかけている自分に気づいて「それは一体なんの意味があるのか」とおののいた。
 そしてまさに戒めと、覚え書きのために書いたのだ。
 だからなるべく色々な話題のどちら側にも当てはまるように一般化したはずだが、やっぱりどうしてもバイアスは抜けないかもしれない。

 憎悪や悪意は誰かから受けるのはもちろん、自分から出すのもどちらも心がすさむし、殺伐としてしまう。
 だからどうせなら、好きな何かや話題を語ってほしい。
 憎悪のエスカレートがあるならば、好意のエスカレートも確かに存在するはずだ。

P.S.

 RPGのくだりを書いているときに、Undertaleっていいゲームだなあと思ったので、まだ知らない人はみんなやろう。

 あまりポジティブな話ではなかったし、最後に見出しの綺麗な桜の写真を置いて取り繕って終わろう。



読んでいただきありがとうございます。