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息する手段は枝分かれをして

しばらく会えずにいた友だちを訪ねた。歩けるようになったちいさな娘は彼女によく似てとてもとても可愛らしかった。時間を空けても当たり前に笑って過ごせる関係性が心底ありがたい。私の生活の中に、彼女がまた現れてくれたことが嬉しい日曜だった。

少しの間、なかなかnoteを書けずにいた。手書きの日記も昔に比べて飛ばし飛ばしになった。文字に心を乗せていく作業はずっと必要不可欠だったし、私にとっては生きることの一部とも言える。それなのに書く作業から離れていたのはたぶん、「離れられるようになった」からだ。

日常を紡ぐことが習慣であるには違いないのだけれど、自分を見つめ整えるための役割として機能していた。誰にもこぼせない胸の裡を、開いて受け入れてくれるのはずっと自分だけだったから。自らの言葉でほどいて結んで綺麗にしていく(醜いものにできあがったとしても)その工程は、私が息をするための手段だったのだ。

季節が何度か巡るうちに、私自身ももにゃもにゃとかたちを変えた。封じた身体の中で熟成させてきた諸々の感情を、人と共有できるようになった。読み手がいる場で書いているとはいえ、相手の顔は直に見えない。だからこそ綴れる思いもあるから良いのだけれど、生で放った感情を受け止めて、生で投げ返してくれる安心に、私は幸せを感じた。
そうか、整理できないまま、傷んだまま、気持ちを人に伝えてもよいのか。それでも抱きしめるように頷いてもらえるのか。身を以てした優しい発見。嬉しいから続けていきたい。

そうしているうちに、指を滑らせる頻度が減ったのだ。書くことをやめるつもりは全くないけれど、今の自分に満足している。文字に起こしたい時にはこうしていつでも戻ってこられるから、ゆたかな土壌さえ守っていけば良い。「今がちょうどいいや」と思えることが増えて、生きやすくなった気がする。少しは鈍くなれているのかな。

瞬きしている間に春が終わりそう。まっすぐ顔を上げられないほどの日差し、私はその下で日々を送る。自分の変身を楽しみながら、日常を愛していきたい。

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