「老舗」=漬け物石?

 また変なことを書いていると言われそうなタイトルだ。安心して欲しい。決して寝不足で頭がおかしくなったわけではなく,吾輩は至って正常である。

 漬け物石ときくと何を思いつくだろうか?実は私の漬け物石に対するイメージは「重い」と言うことだけである。
 そう,本日の文章の狙いは,脈々と複数の世代によって受け継がれた物事の重さについて書くことである。つまり日本の学校で頻繁に話されている「綺麗事」である。

 題材自体はあまり面白くない自信があるが,同時にただの引きこもり予備軍なりの結論に行き着く自信もある。少なくともただの綺麗事で終わらせるつもりはない。読者の皆様,安心して欲しい。

 さて,本日は伝統や老舗など自分たちの前の世代の人間に受け継がれた物を扱うわけだ。何故こんなことを思いついたのか。

 実は,自分の周りには親がこの職業で自分も…という人や,代々自分の家系がこと仕事をしているから継がないと…という人がまあまあいる。(もちろんそうで無い人も多い。)
ちなみに吾輩の家系は普通の出稼ぎ・会社員の一族なので継ぐべき会社も事業もない。つまりは根無し草だ。

 ある集団を維持していくとは1から集団を作るより大変な気がするのだ。常に集団をメンテナンスし,生き残るためによりよい方向へ進まなければならないというプレッシャーは半端な物ではないだろう。根無し草の想像を絶すること間違い無しだと思う。

 日本には伝統工芸や芸能を含め「脈々と受け継がれた物」を大事にしようとするマインドがあると感じることが多い。これは報道や学校教育を受けている中での体感である。
さて,ここで問題。「脈々と受け継がれた物」において尊敬されるのは?
空くまで吾輩が思いついた答えだがやはり「流れを作り始めたパイオニア・創始者」だろう。やっぱり時間的に早く始めたものがもてはやされるのだろう。

 確かにある事業を始め100年以上の流れを作ってしまうならそれだけでも結構な偉業だ。芸術や芸能,学問においても賞賛されるのはやはり〇〇の祖などと呼ばれるような人であろう。

 個人がそのパイオニアを崇拝してる分にはこちらはなんとも思わない。ただこれが集団になった途端,話は厄介なことになる。
 あなたは言われたことがないだろうか?「今の世界今の自分がいるのは世の中の仕組みを作った先人のおかげだと。」
 まあこれはある意味事実だ。手近な所で言えば,このnoteというアプリが作られなければ私は文章を書き始めなかっただろう。

 しかしその主張を重んじる人間に言いたい。勘違いしないでほしい。今の自分を作り出したのは確かに両親であり先人かもしれないが,その他にも自分で手に入れた要素も多くある。自分で歩かなければ見えなかった景色,自分で話してみなければわからなかった言葉,自分で味わってみなければわからなかった感情,自分で奏でなければ出せなかった音。その全てが今の自分を作ったのだ。

 私が出会った言葉にこんなものがあった。「この世界は未来の世代からの借り物だと思え。」私は先ほどの先人崇拝論よりはこちらの方が素敵だと感じる。同時にこっちの方がこの世界を大切にできる気がするのだ。
 今の時代人の物を粗末にするのは思ったより難しい。逆に自分の物を大切にすることも思ったより難しい。この言葉を肝に銘じると,この世界が自分だけものではない気がしてくるのだ。そして自分の物を粗末にする傾向がある人間からすればこちらの方が世界を大切にできるのではないか。

 先人崇拝に陥るとどうしても「自分たちの世界は自分たちで動かさなければならない」という考えに近くなる気がする。この考えたと世界は「自分たちが受け継いだもの」であるからである。

 世界は自分の物ではない。ましてある一定の集団のためにあるものでもない。その考えに気づけない限り,先人への感謝も同胞への責任感もただの重しになってしまうだろう。

 さてタイトルの「漬け物石」である。責任感も感謝も素敵な感情なのかもしれないが,それを人の体や心を縛り付ける道具にしてはならない。人の自由な考えを奪う重しになっては元も子もないのだ。
 もしそのような圧迫が横行する世界になれば,責任感も感謝もおいしいものを作るための「漬け物石」より下等の物になってしまう。私はそれでも構わないがきっと微妙な気持ちになる人間は今の日本ならば少しはいるだろう。


 先人を敬うのは大事かもしれない。だが来たるべき次の世代に返せるだけの未来を作らなければならない。老舗も伝統も人を縛り付ける物でなく,「返せる」未来のための物になればいいと思う。

 結局綺麗事っぽくなってしまった。大分頑張って本音に近くしたのだが,自分の文章力が情けない。

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