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教育の現場がめちゃくちゃ大変で、先生たちが本当に疲弊していることを僕たちはまだ知らない。

最近、小学校の授業の現場についていろいろとお話をうかがっています。

なんかアレです。思った以上に現場は大変ですね。
多様性を処理しきれてないというか、社会が求めるほど現実は追いついていなくって、過渡期なのかなーと思うことがいっぱいありました。

たとえば授業中、真後ろを向いて後ろの子と遊び続けていたりとか、席を立ってしまう子とか、廊下に飛び出してしまう子とか、先生のはなしなんて一切聞いてないとか、まぁそういう話です。

これまでも同じようなことはあったのでしょうけれど、たぶんてっとりばやく「叱る」とか「怒る」とかいった規範を守らせる仕組みが機能していたんでしょうね。


ところが今はそれができない(やりにくい)時代背景があるので、それ以外の方法でこれを統制しなくてはいけない。いいえ、統制という言葉すら使えないのですね。

過渡期かな、と書いたのは「通過儀礼」みたいなものだと思っているからです。
多様性を許容するということは、本来「子どもを預ける親」と「子ども本人」も、「学校」や「先生」もみんな同様に自身の行動に責任を持つことが大前提なのですが、現状ではこの各自が持つ「責任」が十分に行き渡るほどに社会に浸透することなく、多様を社会が吸収することだけが先行して求められていて、だからやがてこれらの概念が浸透していけば、求めている多様性を本当の意味で許容できる社会が成り立つはずなのです。
なので、その移行期として、現状のような中間色はきっと避けて通ることができないんだろうなぁという意味で「通過儀礼」かなと。


叱らない、怒らない、つまりわかりやすい強制性を行使することのない高度な社会(ここでは授業のことです)を維持しようとすれば、社会を形成するひとはそれぞれ自分の自由を担保できる代わりに責任を負うということを知らなくてはなりません。

小学生のお子さんたちを対象にして、これを成立させるのは相当骨が折れると思います。なんでかって、まだ監督保護下に置かれていると本人も思っているだろうし、先生や親だってそう思っているだろうからです。

要するに、その概念を手放すところからスタートしなくてはいけないってことです。もっと言えば、そうした概念を手放したとしても、お子さん達の発達過程をふまえ、彼らがこの話を腹落ちできるほど成熟していないという視点に立てば、我々が思う「統制」を諦めなくては、多様性を前面に打ち出す社会を達成することは難しいんでしょう。



なので、今のスタンスで理想を追うのであれば、自身の責任についてまったく教えられていないお子さんたちに対して、ひとりひとり丁寧に時間を掛けて接することが目下もっとも選択しやすい方法だと思うのですが、授業の時間は決まってるし、なによりマンパワーは圧倒的に不足しています。

僕のイメージでは、これを本当にやろうとするのなら、お子さん一人に対して、ひとりの支援者がいる状況で、教員数人で授業を進める、ぐらいの状況が望ましいと思います。

授業を受けたくない子どもが、真に授業を受けたくなくなってしまう前に、時間とエネルギーを掛けて、授業を聞くという習慣を本人のものにできるような関わりを少しずつ積み上げるのです。


でもそんなこと無理でしょう。

だからこれまではある程度の強制性をもって、統制してきたのですよ。叱ったり怒ったり、なだめすかしたり、褒めたてたり、大げさに賞賛したりして。


過渡期と言える今は、すべてのひとがこれに積極的に関わり、理解を示し、全員で自律分散した社会を目指すことが大事なのかなと思う今日この頃です。
多様性を受容する社会は、そのためにコミュニティに属するひとりひとりが真剣にこれを考え、達成するために「自分にできることをする社会」です。各々が自律的に行動できることが求められるわけですね。

高度な社会は、黙ってるだけではやってこないという話。

どうしたらいいんだろうか。
なにができるんだろうか。


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