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コーチングの歴史


◼️まえがき

最初にお伝えする「コーチングの歴史」ですが、どのように書こうか非常に悩みました。なぜなら、調べるほどに社会的に決して良いとは言えない要素が多くあり、コーチングそのもののイメージダウンにつながる可能性を懸念したからです。
それでも、コーチングについてのネガティブな側面もセットで理解することで、現在に至るまで多くの人々によって磨かれ発展してきたことも伺い知れます。
今では多岐に渡る分野で、コーチングの可能性が見いだされるようになりました。
さらなるコーチングの発展を考えると、どのような問題を解決してきたのか、また、残る問題や解決の可能性が、どこにあるのかを捉えることもできることから、今回「コーチングの歴史」を書くにあたって、関連団体の名称を伏せつつ、ネガティブな面をなかったことにしたり、故意に濁すことなく整理するという結論に至りました。
この考えのもと、可能な限りわかりやすくご紹介していきます。

1.概要

コーチングの歴史の概観


1960年代から70年代にかけてアメリカで起きた人間性回復運動の思想と、それにマッチした人間中心主義の人間性心理学の影響下で、コーチングは誕生しました。コーチングの原型となった自己啓発セミナー「est」は、洗脳被害を多く出し、社会問題となりました。その後、「est」で働いていた人物たちによって、現在につながるコーチングが作られ、人間性心理学の影響下に再度立ち返るコーチングアプローチや、人材開発の手法として発展したビジネスコーチングなど、それぞれに発展しました。
2000年代に入ると、アメリカ・イギリス・オーストラリアの企業は、自社で雇用するコーチの質を問題視するようになります。コーチングに影響を与えた人間性心理学と学問上の対立関係にある行動主義の心理学者たちから「認知行動コーチング」が提唱され、コーチング業界に参入。行動主義の心理学者たちは、それまでのコーチングが人間中心主義の理論にもとづかないことや、心に問題があるクライアントを見抜けず悪化させてしまうことなどを批判しました。2020年代に入り、日本では中小企業庁や経産省によって、コーチングを今後の経済発展のために活用することが示されていることから、ニーズに応えられるようなコーチングの質向上と活躍が期待されます。

2.コーチング誕生の背景

2-1.コーチング誕生に影響を与えた社会運動と中心地

人間性回復運動

1960年代から70年代にかけてアメリカでは、ベトナム戦争に対する反戦運動や、学生運動が盛んに行われていました。そして、人間性回復運動という社会運動が、西海岸から広まります。このムーブメントの中心地として、エサレン研究所がありました。1960年にリトリート施設として運営がスタートし、多くの哲学者や心理学者たちが、ワークショップを開催した場所でもあります。さまざまな思想・理論が、混在する折衷的な場所だったこともあり、エサレンのワークショップに参加した人々は、その後さまざまな自己啓発セミナーを独自にはじめました。コーチングの原型とされるセミナーを開発したワーナー・エアハルドも、そのうちの一人でした。

2-2.「コーチングの祖(ルーツ)」と呼ばれる心理学

カール・ロジャーズ&エイブラハム・マズロー

コーチングのルーツとして、人間中心主義の人間性心理学が、よく紹介されています(1)。
1963年に、心理学者のカール・ロジャーズ(Carl Ronsom Rogers)が、欲求段階説で有名なマズロー(Abraham Harold Maslow)の尽力を得て、人間性心理学の学会を創設しました(2)。
ロジャーズのカウンセリング理論に、パーソンセンタード・アプローチがあり、「傾聴」や「反射」などの技法面でコーチングは影響を受けているといわれています(3)。

このパーソンセンタード・アプローチは、精神病や神経症といった精神疾患がもとづく概念を否定し、外部の指標に頼らず、一貫してクライアントの感覚を頼って理解する姿勢を重視します。感覚を承認される関係性のなかで内省するクライアントは、次第に自己価値に重きを置けるようなパーソナリティに成長していく、という理論を持ちます(4)。

2-3.コーチングの原型

ワーナー・エアハルド

セールスマンをしていたワーナー・エアハルド(Werner Erhard)が、当時心理療法の第三勢力として広がりを見せていた人間中心主義のマズローやカール・ロジャーズの書籍を参考にしつつ、それよりも多く読んだ自己啓発本から、独自の成功哲学を構築して「est」というセミナープログラムを作りました。このプログラムに、トレーナーが参加者に問いかけをしていくというコーチングの原型があります(5)。自己啓発セミナーの中で提供されるそのアプローチは、大勢の参加者の前で一人の参加者に対し、罵詈雑言を含む問いかけをして答えさせていくことで、「無」の状態になることを目指し、それによって自由を得ることができると謳ったものでした(6)(7)。
それは、活力や生きる希望を見いだせたという参加者が多くいた一方で、洗脳を受けた特徴と一致する参加者を複数出したことから、社会問題化し、訴訟にまで発展しました。

3.初期のコーチング

3-1.コーチングの礎

トマス・レナード

「est」の運営会社で、会計担当として働いていたトマス・レナード(Thomas J. Leonard)は、独立してコーチングを個人に提供するサービスを立ち上げます。
このとき、パーソナルコーチングの方法論が作られ(8)、コーチングの礎を築いた最大の貢献者だといわれています。より個人に的を絞ったスタイルに変化したものの、レナードの書籍からはエアハルドの成功哲学の影響を残していたと、のちに指摘がなされています(9)。その後の1992年に、レナードはコーチ養成事業をはじめ、1994年に国際的なコーチ団体を設立します。設立後すぐにレナード本人は去り、その団体は現在の日本でも最大の知名度を持つことになります。
このコーチングは、エアハルドやレナードの影が薄くなった分、潜在的に引き継がれていた人間中心主義のスタンスが多少浮き上がったったものの、コーチの問いかけに忍耐を要求する部分が含まれることから、創始者たちの名残が見てとれます。

3-2.人間中心主義の概念を多用したコーチング

ローラ・ウィットワース

レナードと同様に「est」の経理部で働いていたローラ・ウィットワース(Whitworth L.)は、1992年にコーチ養成機関を設立します(10)。設立にあたってレナードは当初、コーチのトレーニングを行うつもりはなく、ワークショップの資料をウィットワースに提供するなどの申し出をしました。しかし、直前になってレナードが返却するように迫ったため、ウィットワースは代わりに、ロジャーズの概念を多用しました(11)。
レナードは、同じ年にコーチ養成を開始し、二人はライバル関係として、しのぎを削る間柄となりました。

3-3.イギリスのビジネスコーチング

ティモシー・ガルウェイ&ウィットモア

元F1レーシングドライバーのジョン・ウィットモア(Sir John Henry Douglas Whitmore)は、est受講後、イギリスにコーチングを広めるにあたり、アメリカのコーチングをそのまま持ち込むことは難しいと考えて、エサレンでエアハルドのテニスコーチをしていたガルウェイ(W.Timothy Gallwey)の協力を得ることにしました。ガルウェイは、人間性心理学とスポーツ心理学、さらに仏教思想を取り入れた独自のテニス指導方法である「インナー・ゲーム」を体系化していました。そのアプローチを使って、エグゼクティブを対象としたスポーツコーチングを開始し、ビジネスへの応用をエグゼクティブたちから要望されます。その後ウィットモアは、同じくestを受講したアメリカの大手テクノロジー関連企業の人事担当者とGROWモデルを開発し、パフォーマンスコーチングを中心としたコンサルティング会社を設立(12)。これが、ビジネスコーチングのはじまりとされています(13)。

4.混迷期

2000年頃から、コーチング業界は混迷期に入ります。
北米・イギリス・オーストラリアなどの企業が自社で雇用するコーチの質を問題視するようになり、大学院レベルの行動科学の学位など高い水準を求めるようになりました(14)。
また、人間性心理学と学問上の対立関係にある行動主義の心理学者たちは、コーチや養成機関に対して多くの批難を向けながら、コーチング業界に参入しました。
それは、2001年にロンドンシティ大学の心理学教授をしていたパーマー(Palmer S.)が、認知行動療法とコーチングを組み合わせた「認知行動コーチング(CBC:Cognitive Behavioural Coaching)」を提唱したところからはじまります(15)。
2002年に、パーマーとコーチング心理学を定義したグラント(Grant A.M)は、コーチング市場にあるコーチ養成プログラムは、人間回復運動の思想とestのテクニックを使用しただけの理論にもとづかないものとし、なんでもありの折衷的なスタンスを問題視しています。それは、心理的問題を持つクライアントを見抜けず悪化させてしまうといった問題にもつながるため、明確な理論を持たないことを批判しました(16)。

5.現在

現在

日本では、教育分野や医療業界にも応用が進んだため、コーチングの研究も盛んになっています。
たとえば、ロジャーズの概念を多用したコーチングについての2013年の日本の研究では、コーチングを受けることの心理的効果として、緊張や不安、怒り、敵意、疲労が減少し、活気が上昇するという結果が見い出されています(17)。
一方で、日本のコーチング特有の偏りが、学術的に指摘されるようになりました。一つは、他国と比べてコーチングを専門職のものとして捉える傾向より、スキルとして捉える傾向の方が高いということがあります。同様に、日本においてコーチングが広まる過程で、コミュニケーションスキルとして認識されたことが、他の国に見られない特徴として挙げられています(18)。

このように、明るい報告がありながらも、コーチングのアプローチが、心理学的理論を伴わずに広まった弊害として、さまざまなコーチングのあり方が、同じ「コーチング」という言葉で一緒くたになっている状況が続いています。
そうした問題を孕みつつ、最近では、国がコーチングを活用する動きが活発になっています。

経済面では、中小企業庁が2023年に策定した「経営力再構築 伴走支援ガイドライン」のなかで、経営力再構築伴走支援モデルの三要素のうちのひとつに「対話と傾聴による信頼関係の構築」を挙げ、コーチングを「対話と傾聴」とほぼ同義のものとして紹介し、やりとりを通じて意味が共有され、その意味づけが変化するような双方向のコミュニケーションに役立てることが目的として示されています。

教育面では、経済産業省が2022年にまとめた「未来人材ビジョン」では、「一人ひとりの認知特性・興味関心・家庭環境の多様性を前提」とした教育のあり方にコーチの活用が盛り込まれています。

中小企業庁も経済産業省も、コーチングのあり方として、相手に対する理解を対話に役立てて支援する点が共通しています。

上記の期待が寄せられていることを踏まえ、今後のコーチングの発展のために、心理学的理論が伴っていることと、各ニーズに応えられるようなコーチングの分類と質向上が、大切になってくるといえます。


【引用文献】

(1)O'Conner, J.&Lages,A,2007,How coaching works.London:A&C Black.杉井要郎(訳),2012,コーチングのすべて,英治出版,p.42.
(2)ロイ・J デカーヴァロー,(訳)伊東博,1994,ヒューマニスティック心理学入門 マズローとロジャーズ,新水社,p.35-36.
(3)西垣悦代,2015,西垣悦代•堀正•原口佳典(編),コーチング心理学概論.ナカニシヤ出版,p.14.
(4)Rogers,C.伊東博(編訳)1967,ロージァズ全集8,パースナリティ理論,岩崎学術出版社,p225.
(5)神谷 光信,2009,キリスト教から見たestの問題点,関東学院大学「キリスト教と文化」第8,p.117-122.
(6)Elizabeth Puttick,2009,現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ,(英訳)クリストファー・パートリッジ,(編)井上順孝,(監訳)井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清,悠書館,pp.569-570.
(7)塩谷智美,1997,マインド・レイプ 自己啓発セミナーの危険な素顔,三一書房,p154-155.
(8)O'Conner, J.&Lages,A,2007,How coaching works.London:A&C Black.杉井要郎(訳),2012,コーチングのすべて,英治出版,p.33.
(9)西垣悦代,2015,西垣悦代•堀正•原口佳典(編),コーチング心理学概論.ナカニシヤ出版,p.15.
(10)O'Conner, J.&Lages,A,2007,How coaching works.London:A&C Black.杉井要郎(訳),2012,コーチングのすべて,英治出版,p.33.
(11)西垣悦代,2015,西垣悦代•堀正•原口佳典(編),コーチング心理学概論.ナカニシヤ出版,p.15.
(12)西垣悦代,2015,西垣悦代•堀正•原口佳典(編),コーチング心理学概論.ナカニシヤ出版,pp.16-17.
(13)O'Conner, J.&Lages,A,2007,How coaching works.London:A&C Black.杉井要郎(訳),2012,コーチングのすべて,英治出版,pp.32-35.
(14)Corporate Leadership Council,2003,Maximizing returns on professional executive
coaching. Washington, DC: Corporate Leadership Counsil.
(15)Neenan, M. & Dryden, W. 2002,Life coaching: A cognitive-behavioural approach.London: Psychology Press. 吉田 悟(監訳)2010,亀井ユリ(訳)認知行動療法に学ぶコーチング,東京図書.
(16)Grant.A.M,2007,Past,present,and future:The evolution of professional coaching and coaching psychology.In S.Palmer&A.Whybrow(Eds.),Handbook of coaching Psychology:A guide for practitioners.Hove,East Sussex,UK:Routledge.pp.23-39.
(17)浜田 百合,庄司 裕子,2013,コーチングの心理的効果に関する研究,日本感性工学会論文誌,Vol.12,No.2,pp.311-317.
(18)西垣 悦代,2014,日本のコーチに対するウェブ調査:コーチの現状と展望,支援対話研究,2,4-23.


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