見出し画像

沖縄で考えたこと

一昨年、沖縄に来ていた僕には探している食堂があった。.
だが、どうしても見つからない。

いくら周辺を回っても、市場の置物のような、おばあにきいても埒が明かない。
前の場所から移転をしているらしいのだが、
スマホを使って住所を入力し、その周辺をうろうろするが
店が出ている風もなく、僕は早くも店探しにうんざりしてしまう。

僕はただ、美味しい餃子を食べたいだけなのである。
自家製ラー油の肉汁がたっぷり入ったあの沖縄餃子が食べたいだけなのだ。

この日は、早起きして朝早くから「てだこ浦西」まで延長した「ゆいレール」に乗って前田高地にまで足を延ばした。
映画「ハクソーリッジ」の舞台になった戦跡である。

画像1

画像8

前年にも沖縄を来訪したが、
僕は太平洋戦争の戦跡を巡ることをライフワークにしている。
思想はない。どちらにも振れない、右でも左でもない。ただ、未来志向でありたいと思う。
ただ、そこで起こったことに思いを馳せると見えている事実すべてを否定したり、お涙頂戴の戦争っていけないよね的な予定調和な「暴力」には眉を顰(ひそ)める限りである。

前田高地には平和碑があり、戦争の傷跡や前田城跡を紹介するコーナーが各所にあり、記念公園的なものになっている。

画像3

画像4

自分自身、前田高地に立ってみて初めて分かったことがある。
平坦な島である沖縄において首里や前田は高台であり、
戦略的に考えるととても重要な地域であるのだが、

画像5

その高台は海からは丸見えであり、そこへ艦砲射撃が雨あられと降り注ぐのだ。そんなことに思いを馳せてしまう。

海まで近く数キロしか離れていないから、
毎日のように砲弾が飛んできたであろうことは想像に難くない。
空を切り裂いて、音をたてて飛んでくる砲弾を
日本軍兵士たちはどんな恐怖と絶望をもって見ていたのだろうか。

目の前の海には見渡す限り米軍の艦艇がびっしりと並び、
それらが砲門を開いてひっきりなしに撃ってくる。
それを穴の中で耐え忍ぶ兵士たち。

画像6

画像7

沖縄守備隊第32軍司令部の高級参謀だった八原博通という男は
米軍と日本軍の戦力差を30対1だとほぼ正確に予想していたが、
その差をさらに分析していたアメリカ軍はこの島を「力押し」で攻略し、
圧倒的な物量で押し切る作戦に出た。
戦争は派手なほうがいい。これは大国に共通したやり方である。
大国が国力を見せつけるために物量にものを言わせる方法は今も変わらないが、
この時も同じでこの小さい沖縄を圧倒的な戦力でねじ伏せることができると踏んでいた。
(中世後期のオスマントルコの奴隷傭兵の圧倒的な物量での押しまくる戦法とそれほど変わらないのだが…笑)
結果論としてはそれは当然の帰結であるが、時間は掛かれど犠牲はあれどアメリカは勝利するわけだ。

しかし、どうみても沖縄戦は日本軍にとってみても本土決戦までの時間稼ぎでしかなかったと思われる。
日本軍は地下陣地をつくり文字通り「籠城」して、米軍の出血を強いた。
その間、数で勝る米軍は各所で力押しをして、大きい犠牲を払い続けたのである。
沖縄ではアメリカ軍の死傷者は22000人を超える。
4月から始まった沖縄戦の従軍者で日本の同盟国ドイツの降伏に喜ぶものは誰一人としていなかったという。
それほどまでに激しく日米両者ともに消耗していたのである。
アメリカの太平洋戦争における公文書では沖縄戦を「多大なる犠牲を強いた戦いであった」と締めくくっている。

画像8

日本軍の健闘も知られてしかるべき歴史的事実であるが、もうひとつの事実を忘れてはいけない。
先述の八原参謀は沖縄本島に米軍を誘い出して叩く戦法をとった。
彼は作戦家としては辣腕をふるったのだろうが、
住民たち一部を南部へ避難はさせたものの、なし崩し的に彼らを盾代わりに利用した。
こんな狭い島で20万人の一般市民が6万の日本軍残存兵と行動を共にしたのである。
これは狂気などではなく事実として認識されるべきだ。
非戦闘員を認識しない作戦だったのである。

第一次大戦で無差別な都市爆撃を非人道的だといった政治家がいたがそれ以上に
一般人を巻き込んで泥沼の戦争を継続するという非人道ぶりは類を見ない。
非戦闘員と戦闘員が混合するという状態は異常だ。しかも非戦闘員を盾代わりに使うだなんて!
最も混迷を極めたのは沖縄南部の摩文仁への司令部の撤退を始めてからである。
沖縄南部には住民が避難していてそこへ軍がやってきたものだから
米軍の攻撃を非戦闘員もうけることとなった。
特に6月23日以降日本側の司令部が崩壊してから
無秩序状態に放り出された非戦闘員たちの悲劇は安易にここで語ることはできないだろう。
あるものは洞窟で、あるものはぬかるみのような水田で、あるものはサトウキビ畑のなかで、あるものは肉親の目の前で死を迎えた。

目の前で子供や親や身内が斃れていく様は筆舌しがたいものがある。
悪いことに日本軍の無秩序性とアメリカ軍の残虐性の掛け算がこの死傷者を生んだ。

僕は息子がその場所に置かれた時のことを考える。
とてもじゃないが正気を保ってはいられない。

牧志の市場を考え事をしながらぐるぐると回っていると
唐突に「天国酒場」に出逢う。「天国」とはこれ如何に。。
入ると1000ベロセットを見つける。
三杯のドリンクと一品で1000円という構図。
外の席に座ると千ベロセットを頼む。
何か飲まないとどうしようもないところまで来ている。コインを渡されてこれで飲み物を頼めという。

なんかメダルゲームとかにありがちな形状。
ウーピンハイを頼む。すぐやってくるが氷多め。
二口で杯が空いてしまう。うーむ。

食べ物は鮪の刺身にしたが、簡素な感じの鮪刺。
まあ1000円なら文句は言えないよな。
仕方がないのでコロッケを一つ頼む。

突然、宙を切り裂いて砲弾が飛んでくる。

市場に着弾。轟々と響き渡る、爆発音。
遠くからの腹に響くような艦砲射撃の音がする。
数秒して虚空を切り裂く音がする。
目の前で榴弾が炸裂する。耳をつんざく轟音と地面を巻き上げる炎。

僕の耳のなかで「忘れてないよ」と島袋君が言う。
独特のイントネーションで。

「絶対に、忘れてないよ、沖縄は」

大学の時に深夜バイトであった島袋君。
海人のTシャツを着て猪首の色の黒い青年だった。
荷分け作業をしながら、彼から夜通し沖縄の戦争の話を訊いた。
おばあの話。いまだに悪夢にうなされる親戚の話。
僕は初めて聞くことだらけだったんだけど、
沖縄に行って彼の話で色々と分かりかけたことがある。

76年前、確かに沖縄で戦争があった。
たくさんの人が死んだ。巻き添えになった。自ら命を絶った。殺された。
被害者でもあり、加害者でもあって、そして侵略者でもあって、被侵略者であった。
僕は教訓を語りたいのではない。事実を知りたいのである。

僕たちは76年前の事実を受け止めなくてはならない。せめて、事実は事実として。
見ないふりは決してしない。善悪を受け止められるよう、多少、自らの器をひろげよう。
感じるのは「罪悪」ではない。
事実を知って、自らのなかにその事実を容れるのだ。
自らの底に手を入れて感受するしかない。

断定をするな。

自らの深き底の淵に立ち、自ら問わなければ何も進まない。
歴史を学ぶならその歴史を作ることと知るべきだ。
知ることは恐ろしい。本当に知る人の底浅さが知らされてしまう。
底浅いながらにも事実を自らの体に容れるべきだ。

数年前にドイツに行った。

フランクフルトの博覧会を見るのが目的の研修旅行であったが、その街を見て回ることができた。
その街のユダヤ人資料館には落書きがあった。
ゲットー(ユダヤ人の隔離地域)だった場所にそれはある。
彼らの墓地も近くにあるのだが、ドイツ人たちは目に見える場所に負の遺産を置いている。
たしかに周囲にはネオナチやレイシストたちも多く、そこで自らの考え方を話すことはとても勇気がいることであるが、
彼らは差別を認識しているのだ。もしくは、彼我を区別することを認識しているのだ。
身近に差別があるのにも関わらず、我々日本人のように人はみな平等だと教えられて、それを疑ってみない環境にはいない。
身近に差別があり、その環境の中で色々な考えを育んでいるのだ。
だが、これほどに負の遺産があっても差別主義者は生まれる。

それが自然なのである。
ただ、事実を事実として受け容れることがなければ歴史を歪曲することと同じだ。

被害者であったことが、加害者であったことが重要なのではない。
もしそうであったら経験者のみが歴史を語ることができるような偏狭な状態になる。
そんな歴史になんの意味があるというのだろう?

僕たちは自分の子どもや孫たちへ続く歴史を作っていけるのか?
いまだにのたうち回っている人々への共感をどれほどまでに感じることが出来るんだろう?

歴史は慣れることを目的としない。
ドイツは歴史的環境に慣れてしまったし、一方で、日本は

歴史を知ることをしない。


どちらに優劣をつけられるものではないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?