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【ミステリ小説】樹下美人の涙(前編)

 古墳の発掘現場で、赤外線アラームで監視された状況から持ち出された発掘品。
 不可能状況での犯罪に、名探偵「社響(やしろひびき)」が挑む!


 槇嶋(まきしま)古墳の石槨(せっかく)内部に、小型CCDカメラを取り付けた内視用アームが挿入され、内壁の映像が初めてその姿を現したとき、柿本耕作は発掘スタッフとともに押し殺した歓声を上げた。

 古墳の横穴式玄室は、最奥部でその幅がわずかに二・五メートル程度。羨道(せんどう)に直交するように、半ば砂礫に埋もれた石槨が安置されている。
 羨道の中に備え付けられたモニター画面の前には、スーツ姿で板につかない黄色のヘルメットを着用した、発掘責任者の阪西大学大友教授らが陣取っており、調査開始を待ち構えていた。
 今日は普段の発掘風景と異なり、耕作のようなジーンズに綿シャツというラフな格好のほうが少数派である。 

 この内視調査に先立つ六ヶ月以上の一次調査において、玄室を埋めていた土砂が重機を使って注意深く取り除けられ、その過程で盗掘穴の存在が確認された。

 この古墳は、玄室内にさらに横口式石槨を設け、内部に木棺を安置するという特異な構造が興味を引いていたが、盗掘が明らかなため内部状態に関して期待は薄かった。
 予想通り石槨が半ばほど露出した段階で、盗掘孔と見られる穴が南東角に開いていることがわかったが、撹乱土の侵入も少ないと見られた。
 そこで石槨内部を特殊カメラで非破壊的に動画撮影する、今回の二次調査が計画されたのだ。

 狭い玄室内には、蛇のような黒いコードがうねうねと這い回り、パワーサプライからPCやライト、モニター、カメラへと電気が振り分けられている。
 電源管理を担当している耕作は、不慣れな足取りで歩き回る教授連が、コードに足を引っ掛けるのではないかと気が気ではなかった。

 予定よりやや遅れて十四時過ぎから内視調査が始まると、一辺が三十センチ程度の南側盗掘孔から挿入されたアームの先端に取り付けられた小型カメラは、穴の直下にある亀のような動物をかたどった奇妙な土器を映し出した。
 盗掘を免れた数少ない副葬品として、一次調査でも確認されていた二十センチくらいの小型土器だが、カメラは異なるアングルからその姿を撮影することに成功した。

「八代君、カメラを天井のほうに向けることはできないか」
 サブ画面でモニターしていた、埋蔵遺跡調査センターの高市主任が、石槨の脇に膝をついてカメラを操作している学生に声を掛けた。
 学生は「はい」と返事をするとアームを微動させ、レンズを上に向けたようである。ハイテク装備の内視用アームではあるが、操作している様を一見すると、釣り竿でもかついでいるようにしか見えない。
 神妙な面持ちで竿を石槨の穴に差し込んで操作している学生の表情が、妙に不釣合いだった。

 なんだか胃カメラのようだな。
 モニターの画像を見た耕作がそう思ったのは、石槨の天板内部がうすく朱色に彩色されていたためである。

「思ったより明るいね」
 准教授の草壁が、耕作を振り返ってささやいた。カメラに取り付けられたLEDが、威力を発揮しているようだ。

 指示に従って天板内部が映し出されると、そこには一センチ径ほどの丸い金箔を朱線で結んだ図形が現れ、スタッフ一同の口から「おお」という嘆声が洩れた。

「星宿図だ!」大友教授が声を上げる。

 それは、石槨の天井を夜空に見立てた星座の絵柄だった。
 高貴な埋葬者にのみに許される意匠であるとされており、この図が描かれていることの意味を知るメンバーに、期待と緊張が走る。

「南側の壁面を写してくれ」
 高市主任の声に答えるようにカメラが南側を向く間、焦げるような期待感で耕作の胸はじりじりと熱くなった。
 この玄室にいる他の数人のスタッフも全員同じ思いらしく、カメラが南側内壁にその焦点を合わせるまで、声を上げるものはだれひとりいなかった。

 玄室に至る羨道は短く、南東に向いた羨門からの光が届くため、さほど暗くはない。
 古墳上部の土が除かれて玄室の一部が露出しており、石組みの間からはのどかな青空がうかがえる。
 前日に降り込んだ雨のせいで湿り気を帯びた玄室内部には、カメラのアームを操作する音とPCの排熱ファンの音だけが低く響いていた。

 閉所恐怖症ではないのだが、耕作はこうした石室内に入るといつも地震が起きて天井石に押しつぶされるのでは、という心配に駆られてしまう。
 千年以上も持ちこたえた玄室が、たまたまこの瞬間に崩れるなどという偶然は普通に考えればありえないが、理屈抜きの恐怖なのだ。 

 待つ間は長く感じたが、実際にはほんの数十秒後のことだろう。
 内視カメラが石槨の南内壁をとらえると、今度こそ狭い玄室内に歓声が上がり、耕作は小さくガッツポーズをした。

「キトラ古墳以来の大発見だ」大友教授の声も興奮に震えている。
 モニターに映し出されたのは、大陸風の衣装をまとったふたりの女性立像だった。
 ひとりは赤色、もうひとりは黄色の衣装を身に付け、枝を延ばした樹の下に佇む全長三十センチくらいの彩色壁画。下ぶくれの顔立ち、唐様の髪型など、高松塚の有名な壁画よりもその面立ちはさらに異国的である。
 興奮した声がこだまするなか、普段から猫背気味の長身を、一層窮屈そうにサブモニター上にかがめて映像を確認していた高市主任が、緊張でかすれたような声を上げた。

「もっと近くに寄れないかな」
 カメラが壁画に接近するにつれ、その細部が明らかになってきた。壁画は凝灰岩の表面に、漆喰を塗り固めて描かれている。
 やや黄ばんだ漆喰は、ところどころはげかかって細かな亀裂が入っており、必ずしも保存状態が良好でないことが見て取れた。

「『樹下美人図』とでも名付けるかな。色使いが単純なことからみて、高松塚壁画の原型かもしれないね」
 草壁准教授の声に答える形で、メンバーが思い思いの意見を口にし始める。
―やはり、高句麗からの渡来人が描いたのかな。  
―中国の古墳内壁画によく出てくる構図ですね。
 様々な意見が飛び交う中、モニターを注視していた耕作は、「あれっ」と場違いな声を上げそうになった。

 最初は錯覚かと思った。だが間違いない。
 じっと見守るなか壁画に描かれた女性像の眼に、異変が起こっていた。
 画面右方向に向き、やや上向いた左側女性像の切れ長の瞳に、涙とみまがう水滴がたまり、やがてひと筋すーっと流れて画面下に消えていく。

「これは、まるで……」当惑気味に耕作はつぶやいた。
―まるで、泣いているかのようだ。

 その光景は、一千年の眠りをさまたげられた飛鳥美人が、悲嘆にくれるしぐさように感じられ、わけもなく鳥肌が立つのを覚えた。


 阪西大学史学科の大友教授を団長とする調査団が発掘を行っている槇嶋古墳は、六世紀から七世紀に造営された円墳である。
 測量の結果から基部の平均直径は三十メートル弱とみなされるが、造営時はもっと大きな規模を持っていたらしく、現在では竹やぶとなった頂部に露出した石組みは、横穴式玄室の一部である。

 これは後代になってからなんらかの理由で、墳頂の土石が取り除かれたために露出したもので、江戸時代には羨門は開口され人々はその存在を知っていたことが記録文書に残されている。
 その後理由は不明ながら玄室はもう一度封印され、半ば撹乱土に埋まったまま現在に至っていた。

 この古墳の発掘計画を中心となって推進してきたのは、学会ではなく地元の遺跡保存会である。
 以前ならば遺跡は開発の邪魔であり、むしろ迷惑がられたものだが、近年飛鳥でのあいつぐ貴重な発見により古代史が注目されてきたこともあって、発掘を後押しする機運が広がってきたのだ。
 そこで、地元考古学会の重鎮である阪西大学大友教授を中心とした、大学と埋蔵遺跡調査センターとの合同調査団が組織され、発掘が行われることになった。

 飛鳥で石槨内部に彩色壁画が見つかった高松塚古墳、キトラ古墳との類似性から、槇嶋古墳の石槨内部にも壁画があるのでは、と耕作はひそかに思っていた。
 そのため発掘補助作業員の募集があったとき、阪西大の史学科を卒業して就職もせずぶらぶらしていたという身軽さもあって、すぐに応募したのだ。

 その日の調査は、南壁の人物画を確認したあと突然カメラがダウンしてしまい、画像がモニターへ送られなくなったため、大友教授の判断で中断された。
「すいません」しきりに恐縮する高市主任ら機器スタッフを制して、教授はむしろ上機嫌に宣言した。

「残る壁面の調査も楽しみだが、とりあえず中断としよう。
 この成果は、高松塚古墳・キトラ古墳の発掘に劣らない重要なものと評価されることになるだろうから、今後の発掘方針は文化庁なども交えた学術会議の場で議論して決定すべきだと思う」

 そのワンマンぶりから“天皇”とあだ名される大友教授でさえ、このような発見を前にしては慎重になるのだな、と耕作は思った。
「さきほど撮影した壁画の映像を一般に公開すると、大きな反響を呼ぶにちがいない。

 とりあえず玄室に至る羨門は閉鎖し、一番近くの作業小屋には誰かが終夜常駐して、不審者が侵入しないように見張る必要があるな」
 最近では、無断で古墳内部まで入り込む考古学マニアもいると聞くし、これは当然の措置と言えた。
 そのため初日の宿直者として指名されたときも、耕作は進んで引き受けた。仮設とは言え宿直用の作業小屋はエアコンも装備されており、独り暮らしの耕作の老朽アパートよりよほど快適だという事情もあった。

 *

 古墳のすぐ脇に建てられた作業小屋は、主として発掘調査用具の保管や作業員の食事に使われ、学生たちは諧謔をこめてこれを“飛鳥の宮”と呼んでいた。
 だが実際は、その外観を古えの建築物に例えるならば、“板葺きの宮”と言うほうがよほど似つかわしい。

 それでも飯場で使用されていた施設を流用した二階建てのプレハブ小屋は、機能的には贅を尽くした古代の宮殿に勝るだろう。
 一階部分には、発掘作業に使うスコップ、ノコ、ナタ、移植ゴテ、ジョレンや手押し車などを収納する倉庫や簡易トイレ、十人程度が利用できる食堂などがあり、二階部には資料の一時保管室と休憩・仮眠用の部屋を備えて、宿泊も可能な造りになっていた。

 その夜耕作は、二階の机に座って自分が持ち込んだノートパソコンで作業日報を記入しながら、昼間の内視調査を思い返していた。壁に留めてある、トレンチ(試掘溝)の位置を書き込んだ古墳平面図が、開いた窓から吹き込む風に揺れている。
 窓の外は人工の光が一切なく、月明かりのみがあたりを照らしており、昼間はウグイスが鳴き交わす谷間も、今はしんとした静寂の中に埋もれていた。

 このあたり一帯は、段々畑の合間にところどころイチゴ栽培のビニールハウスが建っているほか、日本の原風景を留めている。古墳を建造した人々は、なぜこのような山と山のすき間のような狭い空間を、自分たちのモニュメント建設地に選んだのだろう。
 今から千年以上前、実際にこれらの建造物を作った人々がこの地で生活し、日々の営みを行っていたのだと思うと、耕作は自分こそがその時代にタイムスリップしたよそ者のように感じてしまう。

 耕作は、調査から引き上げる時に草壁准教授が述べた意見を、思い出していた。  
「高松塚古墳やキトラ古墳とちがって四神の図柄が壁面になかったけど、盗掘孔の近くにあった亀様土器が、玄武を表わしているのかもしれないね。

 もしかしたら四神を壁画として描く代わりに、土器で作った像を安置したのじゃないだろうか。四方に備えられた土器のうち、玄武だけが盗掘を免れて残ったとは考えられないかな」

 四神とは東西南北を守る獣神であり、高松塚古墳でもキトラ古墳でも石槨内に描かれていた図柄である。
 亀蛇合体図として表される玄武は、北方を守る神であった。

 小柄でやや丸い体型の草壁は、大柄な耕作と並ぶと童顔ともあいまって子供のように見えるが、こと古代史に話が及ぶと卓抜な眼力をもっている。
 耕作は、草壁准教授の考えを面白い、と思った。
「あの土器は最初妙な形だなと思いましたが、よく見ると亀と蛇が交錯した姿をモチーフにした玄武と見えなくもないですね。
 もしこれが玄武だとしたら、北側に安置されていたものが盗掘の際に現在の位置に運ばれたのでしょうか?」

「宝刀や銅鏡、勾玉などと違って高く売れる見込みがないから、盗掘者たちもそこに放り出したのかもしれない。
 でももしあの像が玄武を表しているのなら、考古学的資料としての価値は高いね」

 耕作は作業日報を入力する手を止めると、ノートパソコンにコピーしておいた昼間の映像ファイルを再生した。
 もう何度も見返したものだが、見れば見るほど草壁の説は慧眼だと納得する。

 槙嶋古墳は、現代の行政区では古墳が集中する地域に属さないため、その存在はほとんど注目されていなかった。
 今回の内視調査もごく限られた専門家の興味を引いただけで、この古代史ブームのさなかに取材も地元メディアが二社だけという布陣を見れば、いかに期待されていなかったかがわかろうというものである。
 しかしこの調査によって彩色壁画が発見され、四神を表す土器が見つかったとなれば、学会はもとより一般の注目度もぐんと上がると予想される。教授連の鼻息が荒くなるのも無理はない。

 映像ファイルの最後のほうで女性像が表われると、耕作は目に涙のようなしずくが溜まるところで画像を静止させ、瞳を凝らしてみた。

 やはり錯覚ではないな。   
 涙する樹下美人図― 

 発掘スタッフの間でもこの映像は議論の的になったが、なんらかの人工的な原因による錯視ではないか、という意見が大勢を占めた。
 二十年ほど前、斑鳩にある藤ノ木古墳の石棺に初めてファイバースコープが入った時、内部に真珠がちりばめられていると話題になったが、のちに間違いとわかった。当時の内視鏡は魚眼レンズだったため、光のいたずらが真珠のような映像を見せたのだ。
 今回の調査に使われたCCDカメラは、はるかに優れた撮影機器だったが、それでもなんらかの理由による錯像ができないとは限らない。       

 この映像が公開されると、人々の興味はむしろ涙する壁画のミステリーに向かうかもしれない。
 古くはツタンカーメン王から、アルプス山中で発見された五千年前の凍結ミイラまで、発掘や遺跡調査にはその手の怪談がついて回るものだ。

 発掘スタッフに降りかかる古代の呪い。

 普段ならそんな話を笑い飛ばす耕作も、大発見の夜にただひとり謎の映像を見ていると、不安な思いに駆られる。
 なにをバカな。と頭を振ったとき、一階でガタン、と音がして椅子から飛び上がりそうになった。    

 トントンと軽快に階段を駆け上がる音がして、片手にチューハイの缶を掲げた額田千紗がドアから顔を出した。    
「へへー、来ちゃったよ」
 語尾が“よぉ”になっている。ご機嫌な証拠だ。壁画の映像に夢中になっていて、彼女が運転する軽自動車の音に気づかなかったのだ。

「酒気帯び運転は、厳禁だぞ」  
 千紗は、阪西大の後輩で発掘スタッフのひとりである。
 いつもは補助作業員のおばちゃんたちに混じって、違和感のない作業服姿が多いのだが、今日はノースリーブのブラウスにハーフパンツと、露出部がまぶしい格好をしている。

「古にありけむ人もわがごとか 妹に恋ひつつ寝ねかてずけむ(万葉集 巻第四)」(昔の人たちも私のように、妻が恋しくて寝付けなかったのだろうか)の心境だった耕作としては、内心の喜びを悟られないようしぶい顔をしてみせた。

「ひとりで宿直なんて可哀想や思て、差し入れに来てやったのに」すねたように口をとがらせる。
 千紗が差し出すチューハイの缶を見て、「宿直なのに、酒を飲んだらマズイだろ」

「差し入れに行け言うたん、草壁先生やで」
 内視調査後、成果公表の段取りに追われる大友教授は独り大学に戻ったが、草壁准教授が大学側メンバーを引き連れて慰労の会を行っているらしい。
 その席でふたりの仲を知っている草壁が、急遽宿直を命じられた耕作に気を使って、差し入れに行くよう千紗をたきつけたのだろう。

 慰労会の状況がラインで送られてきていたため、耕作も宴会のことを知っていた。だが今日に限ってはうらやましいと思わず、むしろ古墳の近くで夜を過ごせるのを喜んでいた。
 それでも今は、千紗が来てくれたことがうれしかった。
 無性に誰かと発見のよろこびを分かち合いたかったのだ。それが自分の好きな女の子ならば、言うことはない。

「壁画が見つかったんやて? 映像があったら見せてよ」 
 耕作は千紗にせがまれて、先ほどまで見ていたパソコン上のファイルをもういちど初めから再生した。
 そして自分の手柄のように、発見の経緯を説明する。

「へえ~、高松塚古墳の壁画に似てるね」
「樹下にたたずむ女子の構図は、トルファンで出土した画の流れを汲むもので、八世紀頃の中国の古墳内壁画にも取り入れられたこの時代はやりのものらしい。
 高松塚壁画よりも裳裾のひだの色使いがシンプルで、ひょっとしたらその原型なのかもしれないな」

「なんや、妙に詳しいやんか」千紗が冷やかすように言う。
「実は今調べたところなんだ」
「描かれてるのは、何の木なんやろ?」
「ペルシアから西アジア、インドで描かれた類似の図柄ではブドウの木が描かれているけれど、それが中国にわたって桃の木が取り入れられるようになったそうだ」 
「なんかこの絵では、柳の木のように見えるけど。柳の下やとユーレイみたいやな」
「柳の下の幽霊図は、日本の江戸時代の特徴だよ」
「結局のところ、古墳てお墓やろ? 墓をあばいて祟りとかないんかなぁ」
 
 すでに千紗の興味は、それ始めている。「でも祟りを鎮めようにも、埋葬されている人の名もわからへんしね」
 確かに、被葬者が特定されている古墳のほうが珍しい。

 樹下美人の涙、かあ。千紗はチューハイをごくごくと美味しそうに飲み干しながらつぶやく。
 酒は千紗のほうが強い。耕作はひと口含んだだけでもう赤くなっている。
「せっかくのお披露目なのに、なんで泣いたんかなぁ」
 千紗の話題は、その表情のようにくるくると変わる。
「錯覚でなければ、結露のような現象かなあ」
「ロマンのない奴っちゃな」

 パソコンを覗き込んでいた千紗が不意に振り返ると、その顔が真近にあり、オカッパのように切りそろえられた黒い前髪から、ふわりといい香りが漂って、耕作の煩悩を刺激した。
「耕作もこの絵の人は、美人やと思う?」
「そ、それは見る人の判断だからね」どぎまぎする耕作に向かい、千紗はさらに顔を近づけた。
「飛鳥美人よりも、ウチのほうがずーっとええやろ?」唇を寄せてくる。
 一瞬、仕事への責任感と欲望の間で不毛な戦いをする。もちろん勝負は最初から決まっていたのではあるが。


 翌朝、早い時刻に携帯のコールが室内に響いた。
 あわてて枕元をさぐるが、鳴っていたのは自分のではなく、机の上に置かれた宿直者用の携帯電話だった。

「埋蔵遺跡調査センターの高市主任が入院した」飛び込んできたのは、草壁准教授の切迫した声である。
 宿直室の狭いベッドの隣で寝返りを打つ千紗の背中を見て、きれいだな、と呆けたことを考えていた耕作は、「はい?」と間の抜けた返事を反した。

「君は今どこにいる?」
「“飛鳥の宮”で、宿直明けです」
「ああ、そうだったね」電話を掛けてきたのは草壁のほうなのに、混乱している様子である。
「すぐに郷土史資料館まで来てくれ」それだけ言うと、通話は一方的に切れた。

 郷土史資料館は、最寄り駅の近くにある市営施設である。
 耕作は千紗を揺り起こすと急いで身支度し、彼女の運転する軽の助手席に窮屈そうに納まって、資料館に向かった。

 ハンドルを握った千紗が尋ねる。
「入院したってどういうこと? 高市さん、どっか悪かったっけ?」
「確か狭心症の持病があると聞いていたけど。でもなんで郷土史資料館なのかな」
 耕作の頭には、昨晩冗談半分に話した「祟り」の話が一瞬よぎったが、口には出さなかった。

 資料館までは、車で一五分程度である。
 白壁造りの民家をイメージしたらしい、中途半端なデザインの建物の横にある駐車場には、赤色灯を回転させているパトカーが二台横付けされていた。

 好奇心丸出しの千紗は自分もついて行きたがったが、一緒にノコノコと顔を出して昨夜のことがばれるのも嫌だったので、大人しく帰るよう説得する。
「何があったのかわかったら、連絡してよ」彼女はそう言いおいて車を発進させた。


「困ったことになった」
 耕作が正面玄関から資料館の事務室に入ると、そこに詰めていた草壁准教授が青い顔をして言った。
 大友教授にも連絡したが、すでに東京に向かって出発したあとだったと言う。

「主任は?」
「集中治療室のある大学病院に搬送された。予断を許さない状況らしい」
「いったい何があったのですか?」
「ぼくも呼び出されたばかりで、まだ詳しいことは聞いていないのだが・・・」草壁が説明した。「昨夜遅く警備員が収蔵室で倒れていた高市さんを見つけて、救急車を呼んだらしい。ご家族にも連絡して今病院に向かっている、とのことだ」

 確か高市主任は離婚して、今は独り暮らしのはずである。連絡したのは実家のほうだろうか。
「発掘スタッフの方ですか?」耕作の背後から男の声がした。
 振り返ると、背丈は低いが頑丈そうな体格の、四角ばった顔をした壮年という表現がふさわしい男と、体積はそのままに身長だけ引き伸ばしたような若い男が立っていた。
 ふたりは、教授たちとは異なった種類の圧迫感を身にまとっている。

 耕作がそうです、と返事をすると、
「少しお話を伺いたいのですが」ていねいな口調ではあるが、有無を言わさぬ迫力で年配の男が言った。
 心配そうな顔付きの草壁を目で制して、「いいですよ」と答える。

 ふたりは、普段打ち合わせに使われている小会議室に耕作を招いた。入り口に立っていた制服の巡査が、男を見てあわてて敬礼する。
 机をはさんで背の低いほうの男―坂上と名乗り、警察バッジを見せた―が座り、若い男が手帳を広げてその横に座った。

「埋蔵遺跡調査センターの、高市皇二さんをご存知ですね?」坂上刑事が口を開く。「失礼ですがお名前を」
 若い刑事が、手帳にペンを走らせて耕作の名前を書き留める。
「高市氏が昨晩、この資料館にいたことをご存知でしたか」
 耕作は首を横に振った。「いいえ、はじめて聞いて驚いています」

「この郷土史資料館は、古墳の発掘調査団とも関わりがあるようですね」
「発掘した資料の一時保管に使わせてもらっています。調査団というより、埋蔵遺跡調査センターの業務として高市さんが常設展示の嘱託を務めている、という縁からだと聞いています」
「高市氏がなにか人間関係のトラブルに巻き込まれていた、ということをご存知ないですか?」

 耕作はこれも否定したのち、「高市主任は、狭心症の発作を起こしたのではないのですか?」
 ふたりの刑事は視線を交わした。「その点はまちがいありませんが、少し気になる点がありましてね」
 坂上が、とってつけたように話題を変える。「私も古代史にはいささか興味があるのですが、昨日は大きな発見があったそうですね」

 耕作は質問に答えて、昨日の内視調査のことを説明した。
「壁画ですか。それはすばらしい」まんざら口先だけでもない様子である。

「ところで……」坂上は、スマホ画面を見せた。「この遺物に見覚えはありますか?」
 写っていたのは、草壁が玄武ではないかと推測した土器である。「発掘で見つかった副葬品です。一体どうして?」
 改めて画面を見返すと、亀をとりまく蛇の頭部が折れていた。
「ひどい―。この写真はいったい?」
「高市氏が倒れていた収蔵室の机上に、これがありました」

 坂上はさぐるように尋ねた。
「この副葬品は、価値のあるものなのですか?」
「世俗的な意味では全くないでしょうね。ただの粘土の焼き物です。
 でも重要な発掘の成果です。いったいなぜここにこれが?」
「それが、気になっていることなんです」

 それまで聞き役に回っていた若い刑事が、唐突に口をはさんだ。
「昨晩はどちらに?」
 耕作は、宿直を務めた経緯を説明した。
「その宿直は、おひとりでですか?」

 困ったな、と思った。
 宿直の夜を千紗と過ごしたことがばれると、彼女に迷惑が掛かる。そう考えると、とっさに「はい」と答えていた。
「昨晩、宿直の際になにか気づいたことはないですか?」
「いいえ!」

「直接関係のないようなことでもいいのですが。たとえば不審な人間が古墳に入り込もうとしたとか」
 再度否定する耕作に向かい、坂上が尋ねた。
「でも四六時中見張っていた、というわけではないのでしょう?」
「それはそうですが……」耕作は口ごもったのち、「玄室の入り口には、赤外線感知式のアラームが付いています」と説明した。

 もともとこのアラームは、子供などが迷い込むことがないように市から設置を要請されたもので、三メートル以内に人が接近すると、その存在を感知できる。
「誰かが入り口に近づくとライトがつき、警報が隣接した宿直用の作業小屋に発令しますが、昨晩は一度も鳴りませんでした」
「間違いなく、警報のスイッチは入れてあったのでしょうね」

 耕作はうなずく。
「参ったな」坂上が頭をかきながら言った。「皆さん、この副葬品は昨日古墳の石槨内にあったものだ、とおっしゃるんですよ。いつこの資料館に運ばれたのでしょうか」

 耕作はあっ、と思った。
 そうなのだ。自分が古墳のわきで張り番をしていた昨夜来、誰も玄室に近づいたものはいない。
 それがこの資料館で破損した状態で見つかるとは、どういうことだろう。
 見つめる写真の中で、破壊された玄武の頭部が邪心をこめた視線を送ってきたように思えた。

 結局一時間くらい掛かった事情聴取から解放されて、耕作が事務室に向かうと、廊下の陰から話し声が聞こえてきた。
「資料館のホームページにも、同じ書き込みがあったようですが……」「発掘を中止せよとの脅迫は、“ふるみやのごけ”の関係者のしわざだろうが」漏れ聞こえてくる言葉の端は、穏やかでない。

 ひとりは草壁准教授で、もうひとりは声からすると老齢のようだ。
 ふたりとも会話に夢中で耕作に気がつかないため、わざと靴音を立てるようにして近づくと、草壁の相手は資料館長の藤原だった。

 耕作に気づいた藤原は、少し慌てた様子で挨拶を残して館長室のほうへ歩み去った。取り残された草壁が、耕作に向かって気まずそうな笑みを浮かべながら話し掛ける。
「君も例の副葬品の写真を見せられただろう? 
 あれは内視調査でも映像に写っていたが、昨日から今朝にかけて誰もさわっていないだろうね」
「もちろんです」

 宿直時に異常がなかったかどうかも確認されたため、ここでも千紗とのことを伏せて答えねばならず、耕作のうしろめたさは倍増である。
 しかし実際何事も起こらなかったのだから、なんとも答えようがない。

 ―いや、もしかしたら千紗との行為に夢中になっているうちに、誰かが古墳内に侵入してあの土器を持ち出したのだろうか? 
 しかしアラームは正常に働いていたはずだが。
 昨夜のことを頭の中で反芻する耕作に向かって、草壁が困ったように、

「実は土器の実物が紛失していないかどうか、警察に確認を頼まれてしまってね」と言った。
 高市主任が倒れていた収蔵室で破損していた土器が、石槨内部にあった土器と同一の物か確認するため、現場に同行して欲しいと坂上刑事から要請を請けたとのことである。

「ついさっき、やっと先生をつかまえることができたのだが」
 大友教授の携帯にやっと繋がり、事情を説明して指示を仰いだそうだ。
 責任者として草壁准教授が立会って警察に協力するように、とのことである。昨夜の宿直者として、耕作にも立ち会って欲しい、と草壁は不安そうな顔で言った。
「アラームについて聞かれたので、機器に詳しい院生の八代君を呼び出すために電話をしたのだが、不在だったのでメールを入れておいた。おっつけ彼も来てくれるだろう」

 草壁准教授が運転するBMWは、段々畑の間をぬって走る幹線道路から、手作りの標識が指し示す小道へと折れ曲がり、やっと車一台が通れる農道を通って、古墳の入り口近くにある作業小屋の前に停車した。
 耕作にとっては、ついさっき千紗の軽で来た道を引き返した事になる。坂上たちはパトカーで来るものと思っていたが、案に相違して地味な国産車で草壁の車の後ろにつけた。

 耕作は“飛鳥の宮”と称する作業小屋のカギを開けて、一同を食堂として使っている一階の大部屋に招じ入れた。
 ふたりの刑事は、壁際に積んであるダンボール箱からはみ出した、埴輪や土器などの出土品を物珍しそうに眺めている。

「あとで現場にご案内しますが」
 耕作は坂上に請われて、食堂の壁面に設置されている警報管理システムの説明を始めた。
 メインパネルを開いて作業履歴を照会すると、直近にスイッチを入れたのが昨日の16時15分、解除したのが今朝の7時6分であることがわかった。

「昨日調査の片付けが終わって、スイッチを入れたのが夕方四時過ぎ、今日も調査のための立ち入りがあるかもしれないので、今朝資料館に向かう前に解除しておきました」
 さらに警報の発令履歴を確認すると、昨夜は一度も警報が発せられていないことが示された。

「二階の宿直室にも端末があって、もし警報が鳴ればわかります」
 耕作は見守る両刑事と草壁の前で、アラームをオンにして見せた。   
「今システムを立ち上げたので、誰かが古墳の羨門に近づくと警報が鳴ります」
 その言葉が終わらないうちに、まるで示し合わせたかのように警報が響き渡った。


 アラームは、部屋の天井付近にあるスピーカーからかん高い音で発している。耕作はシステム・エラーでないことをとっさに見て取ると、ドアに向かって駆け出した。

 “飛鳥の宮”の一階入り口は、古墳の横穴式玄室の入り口にそっぽを向くように逆側にあるため、羨門にたどりつくには建物を回り込まなければならない。
 羨門は道からやや上がった古墳の中腹にあり、回りには雑草が茂っている。
 入り口には、大人の腰くらいの高さにフェンスが設けてあるが、黒いジャケットを付けた背の高い男が、フェンスから身を乗り出して、中を覗き込むようにして立っていた。

「君は誰だ。ここで何をしている?」
 すぐ後を追ってきた若い刑事と、見かけによらず機敏な身のこなしで遅れずについてきた坂上刑事が、男に向かって誰何する。

「社(やしろ)先輩!」
 振り返った男の顔を見た耕作は、思わず声を上げた。
「発掘の関係者ですか?」やや息が上がっている坂上が、耕作に尋ねた。

「大学の写経部の先輩で、社響(やしろひびき)さんです」
「写経部?」
「ええ。精神の安定には写経が一番です。ひとつ試してみては?」
 事態を知ってか知らずか、社本人が涼しい顔で答えた。端正なその顔は、清涼飲料水のCMに出てくるような涼やかさである。

 ふたりの刑事は毒気を抜かれたかのような顔をしていたが、我に返った坂上が、再度問いただした。
「写経はわかったが、ここで何をしているのかね?」 
「メールで呼び出されたんですけどね」
 ごそごそとポケットから、黒い携帯を出して見せる。なんと折りたたみ式のガラケーである。

 >急な呼び出しですまないが、すぐに古墳まで来て欲しい。

「あっ!」やっと追いついてきた草壁が、事態を飲み込んだようすで叫ぶ。「しまった! アドレスを間違えた」
 どうやら院生の八代を呼ぶため、スマホのメモリから送信先を選ぶ際、一行ずれたアドレスを指定して送信してしまったらしい。
「なるほど、“やしろ”違いですね」
 間違えて呼び出されたにもかかわらず、こちらの社は迷惑そうなそぶりも見せず、暢気に構えている。

 耕作は社に小声で尋ねた。
「草壁先生ともお知り合いですか?」
「妹が先生のゼミなんだ」
 耕作が入学した時、社響は確かに先輩だったのだが、留年を繰り返すうちにいつしか耕作のほうが学年を追い抜いた。こちらが卒業した今でもまだ学生の身分らしい。
 理由は定かではないが、教授たちですら一目置くらしいこの男は、阪西大の歩く都市伝説とも言える存在だ。

 一同出鼻をくじかれた形だったが、このアクシデントでアラームが正常に機能することが確かめられた。
「これがセンサーですね」
 羨門の前に立ちふさがるフェンスの横扉付近に、白い小型の箱が取り付けられている。
「フェンスは大人ならば簡単に乗り越えられますが、このセンサーはここに近づく人を赤外線で感知します。そして先ほどのように作業小屋に警報が発令され、こちらではライトが点灯して警告する仕組みです」

 古墳の横穴入り口上部に、ライトが取り付けてある。
 今は昼間だから点灯しても目立たないが、夜ならば充分威嚇効果がありそうだった。少なくとも良からぬ意図をもって近づいた人間は驚くだろう。

 耕作が作業小屋に戻ってアラームを解除したのち、玄室内に入って問題の副葬品を確認することになった。
「発掘責任者の大友からは、できるだけご協力するようにと指示を受けています」
 草壁准教授が先に立ち、フェンスの鍵を開けて先導する。ふたりの刑事があとに続いて羨門をくぐり、しんがりを耕作が務めた。

 古墳内部は天井の石組みの隙間から光が差し込むため、完全な闇ではないが暗反応で一瞬目がくらむ。
 ただ内部の空気は冷んやりとして心地よかった。
「マイナスイオンが豊富だね」
「先輩、なんでついてきているんですか」耕作が社をとがめる。
「そっちから呼びつけておいて、それはないだろう」

 耕作と社がこのようなやりとりをするうち、先頭で石槨に達した草壁はライトで中を照らしていた。
 問題の亀様土器は、盗掘孔から直接見える位置にあるはずである。

「ない……」

 呆然とつぶやく草壁の声が、玄室内に反響する。
 耕作は慌てて駆け寄って覗いてみたが、石槨の中に副葬品はなくなっており、うすく積もった土の上にその形を写したくぼみだけが残っていた。

「状況を整理してみましょうか」
 坂上が言った。
 ふたりの刑事は、作業小屋一階の大食堂のテーブルに陣取り、先ほど調べた石槨内の状況について確認を始めた。

 部外者の社が、当然のような顔で差し出されたお茶に手を伸ばしている。
「亀様土器の実物が紛失していることから見て、昨夜昏倒していた高市氏のそばで破損していた土器は、この古墳内部にあったものとみてよさそうですね。
 この土器は昨日発掘調査を行った際、まちがいなく石槨内部にあったわけですね?」
「ええ、内部を撮影した映像ファイルにもちゃんと映っています」

 まだ土器が紛失した驚きから立ち直っていないらしく、憮然とした口調で草壁が答えた。
「映像フィルムですか?」
「映像ファイルです。デジタル化した映像情報になっています」

 アナログ世代らしい坂上はやや鼻白んだが、その動画を見たいと言った。 
 耕作は二階から自分のノートパソコンを持って降りると、昨夜千紗にも見せた映像を再生した。

 亀用土器は、映像の冒頭に現れる。刑事たちが覗き込む中、耕作はそれが現れたところで動画を静止させた。
 坂上が、写真と見比べながら感想を述べる。
「確かに同じもののようですね。撮影されたのは何時ごろですか?」
「調査が始まったのが昨日の14時過ぎでしたので、30分ごろでしょうか」

 草壁は坂上からの要請に応じ、マスター・ファイルを担当者から警察に提出させる、と言った。
「担当者というのは、彼と間違えられた学生さんですね」
 社を指して、部外者がここにいてもらっては困る、と言外に匂わせたが、本人は一向にひるまず興味深げに聞き入っている。

「ほかになくなっている副葬品はありませんか?」
「保管資料も照合しなくてはわかりません。早急に確認させましょう」草壁が約束した。
「これは、高市氏本人が持ち出したのでしょうか?」写真を指し示して尋ねる。「こうした副葬品は、勝手に持ち出したりできるものなのですか?」

「それは考えられないですね。発見された遺物は出土状況を写真その他の媒体で記録したのちに、所定の手順を踏んで保管措置を取ります。
 専門家である高市さんが、その手順をはずすとは考えられません」
 有名な捏造事件以来、現場もナーバスになっているのだ、と草壁は言い添えた。

「気を悪くなさらないでいただきたいのですが、他の発掘調査現場では作業者が副葬品を隠匿して、私物化するトラブルも報告されていると聞いています」
「仮に主任にそのような出来心が生じたとしても、機会がなかったと思いますね」
 
 草壁は、二次調査当日の様子を説明した。
「衆人環視の内視調査の際に持ち出すことは論外だし、機材の撤収はここにいる柿本君と院生の八代君が行いました。
 その後皆そろってのミーティングを行いましたが、その間長い時間にわたってミーティングの席を離れた者はいません」

 耕作もその意見を支持するようにうなずく。
「アラームは、ミーティングが終わった直後にスイッチを入れています。以前ホームレスが古墳に入り込むトラブルがあったので」耕作が補足した。
 坂上は耕作を見据えて、
「では宿直の柿本さんに再度お聞きしますが、昨夜変わったことがなかったのは確かですか」
「・・・特に気づきませんでした」
 もっとも変わったことは千紗の来訪だが、もちろんそれは伏せておく。ある程度察しているらしい草壁も、何も言おうとしなかった。

「問題の土器は、昨日の十四時半に行われた調査で確認されている。
 その後夕方から夜間は宿直者が常駐し、アラームが発令されないのを確認。一方同日深夜零時頃、郷土史資料館では発掘主任が昏倒し、そのそばで同じ土器が破損した状態で見つかった・・・と。
 ではこの土器は、誰がいつ資料館に運んだのでしょうか?」

 皆の視線が耕作に集まる。耕作はその意味を理解し、慌てた。
「ぼくではありませんよ」
「しかしあなた自身の証言も含めると、古墳内にあった土器を持ち出すのは誰にも不可能と思えるのですが」

 気まずい沈黙を制して、場違いにのどかな声が割って入った。  
「ほかにも可能性はありますよ」すっかり存在を忘れられていた社である。
「断片的に聞いた情報からなので、状況を完全に把握しているわけではありませんが」お茶をすすりながら前置きをして、「もし昨夜見つかったという土器が、ニセモノだったとしたらどうです」
「・・・?」
「資料館の収蔵室でみつかった土器は模造品であり、今朝方宿直者がアラームをオフにして出かけるのを見はからって、古墳に侵入して本物のほうを持ち去ったとしたら、状況を説明可能です」
「いったい、なぜそんなことを?」
「それはわかりません」きっぱりと言い放つ社に、一同はあ然とする。「あくまでも可能性の問題です」

 ふたりの刑事は顔を見合わせたが、気を取り直すように坂上が言った。
「被害届けを出されますか?」
 草壁は多少憂鬱そうに、大友教授に事の次第を報告して指示を仰ぐ、と答えた。
 もし身内に、副葬品を無断で盗掘して私物化しようと企てた者がいた場合、文化財保護法に違反するとみなされて管理責任を問われるかもしれない。
「傷害事件の可能性もあるので、事の真相は明らかにする必要があります。もっとも高市氏が回復すれば、ご本人の口からいろいろなことがわかるでしょうが」
 そしてこれが最後という風に、「もし何か思い出したことがあれば、連絡をください」と付け足した。(後編に続く)

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