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【書籍】「競争原理」という人類史最大の嘘【全文公開 ④】

  有限性から無限性へ
 
 競争に必要な条件とは何でしょう。
まず私以外に「他者」が必要ですね。そして世界が「有限」である必要があります。自分以外がいるから、そして欲しいものが限られているから、競争が起きて奪い合います。スポーツでも1位や優勝は限られているし、戦争やビジネス、男女の出会いや現代人の精神的な悩みについても「競争」をベースに語ることができます。
 食料やエネルギー、住居から欲しい物あれやこれやと、全ては限られているので、世界の国々はあの手この手で何とか少しでも多く確保しようと奮闘します。そのためには外貨が必要となり、自国の産業を強化するなかで優勝劣敗が起こる。「競争」自体は疑いの対象とならず、人類文明の発展に必須な原理として崇め奉られ、我先に、取ったり取られたりと、生活のあらゆる場面にまで浸透しています。
 競争原理によって有限のリソースが最適に配分され、業界内での競争からイノベーションが起こり、企業同士の競争で決定された適切な価格は、消費者に恩恵をもたらすというわけです。
 
 競争が私たちにとって真の豊かさへ導くものであれば、この本を書く動機はなくなります。でも世界の隅々で、社会のいたるところで、競争による弊害を目にします。「自由競争」という先行者を覆せないルールによって富は先行者に集中しつづけ、世界の細部にまで流れなければならない富の血管は、先行者という肥大化した血栓によって完全に目詰まりしています。飢餓や貧困、低収入による家庭不和など、世の中に渦巻く数えきれないほどの不幸を作り出しているものは何でしょうか。
 
 ここで単純化した状況を設定してみます。よかったら想像してみてください。
 部族単位で疎らに点在していた古い時代、争いの絶えない二つの部族があります。彼らは狩猟の場や水を確保する場面で出くわし、そのたびに言い争いが起きます。やがて武器による戦いにまで発展し、双方に大きな被害がでました。ここで長老同士による話し合いの場が持たれました。お互いが自らの主張を述べるのにも疲れ「わしらの若いころは仲良くやっていたものだ」と意気投合します。そして争いの始まった原因を、周りにいた部族双方の者たちが言い合いました。そして日照りのつづいた季節のあと、水場から必要以上の水を持ち帰った事件が発端だと分かりました。あとから水場にきたもう一方の部族と言い争いになったのです。それを知り、必要以上の水を持ち帰るという部族の者たちの穢れを謝罪した長老は同胞を諫め、長きに渡る争いが終わったのです。
 
 あなたがこの話は理に適っていると同意していただけるなら、ここに「競争の始まり」を見て取ることができます。必要以上のものを抱え込もうとする行為、長老には「穢れ」と映ったこの行為こそ、争いの始まり、貪欲の始まり、誰より先に、誰より多く奪い合う、競争の始まりだと分かります。
この有限性をベースにした思考パターンは「疑い」を前提とする「閉じた頭」の芽生え、とも理解することができます。「足らなくなる」という有限性からくる「恐れ」が、競争の土台を成していることが分かります。
そして「わしらの若いころは仲良くやっていたものだ」という長老たちの若いころには、部族双方の者たちが周りの環境も含めて「調和」していたということになります。なぜ調和できるのかといえば、豊かさの「無限性」を直感するからだろうと私は考えています。世界の豊かさに確信がある場合「必要なものを、必要なときに、必要な分だけいただく」という真の謙虚さを実践することができます。豊かさはいつでもそこにあるのだから「世界にそっとふれる」だけで事足りるのです。
一方で私たち現代人は「あの人は謙虚さが足りない」などと「謙虚さ」を人物評価の判断基準に使います。そんな評価をされないようにと、多くの日本人が低くひくく丁寧にしゃべります。私たちの謙虚さとはその実、自分が横柄にみられないように、相手の気分を害さないように、という会話の作法としての「謙虚さ」です。そんな生活の毎日にストレスをためては、必要以上に飲み食いしたり、バカにされたと腹を立てては物に当たったりと「世界を無理強い」しています。
上っ面だけの私たち現代人の謙虚さと、「世界にそっとふれる」という真の謙虚さ。ほんとうに虚しい、私たちの謙虚さ。有限性に端を発した「競争社会」の行き着いた先を、あなたはどうお感じになられますか。
 
 争いの絶えない二つの部族にはアナザーストーリーがあります。
言い争いの日々から武器による戦いが起きそうだと感じた若者が、部族のみんなに呼びかけました。ここを離れよう、新しい安住の地を見つけよう。その言葉に長老が「世界は広い」と若者の意見を認め、部族の者たちも賛同しました。住み慣れた土地や、愛した景観に別れを告げて、彼らは旅立ちます。道中の困難にも、彼らは希望を抱きつづけました。大嵐にも身をよせ合って夜を乗り越え、やがて朝を迎えます。朝の輝きとともに空が晴れてゆき、目のまえに広がる光景に、誰もが言葉もなく確信しました。旅の終わりを、安住の地にたどり着いたことを。そして彼らは生活をはじめて間もなく、気づきます。以前よりも豊かな水、豊かな森や動物たち、彼らの心に宿った勇気や忍耐、安らぎがあることを。
 
物語が人の心を揺り動かすとき、そこには世界の真理が組み込まれています。
なにが正解なのか分からない「迷いの世界」を生きる私たちは普段、欲望や怒り、恐れや不安に翻弄されながらも、真理に触れると「心が揺り動かされる」というサインによって、かろうじて「直感」が機能していることを確認できます。あなたが部族のアナザーストーリーに物語の原型があると感じられたのであれば、そこから世界の真理を読み取ることができるので、誰にも適用できる生き方の公式を抽出してみます。
 
人が「疑い」のない純粋な「希望」を軸に「行動」しつづけると、新たな視点に立ち「豊かさ」を得ることになる。
 
いかがでしょう。汎用性のある人生の公式として成り立つでしょうか。理由はないけれど、これは世界の真理だなと感じられたなら、それは「開けた頭」となる感受性をお持ちだということでしょう。
 なぜなら「閉じた頭」でアナザーストーリーを解釈すると、すぐに「疑い」が生じるからです。「必ずしも豊かな結果につながるとは限らないだろう。希望をもって行動しても、確率的に失敗や挫折するケースが発生する。たまたま成功した例を取り上げても、汎用性のある公式は導けない」などなど。「疑い」には限りがないので、様々な反論がでてくることになります。
有限性をベースにする「閉じた頭」で世界を見ると、これら反論のすべてが正しいし疑いようもなく事実じゃないかと感じます。私たち現代人のほとんどが、そう考えるでしょう。だからこそ「競争」はリアルで、「疑い」ようもありません。
 
一方で「開けた頭」の人たちは、世界の本質が「無限性」にあるのではないかと直感します。世界に伝わる知の教えが共通して宇宙の「無限性」を語っていることから、部族のアナザーストーリーをこう理解するかもしれません。
「ここを離れよう、新しい安住の地を見つけよう」と呼びかけた若者も、「世界は広い」と若者の意見を認めた長老も、賛同した部族の者たちも、みな「無限性」を直感していたのだろうと。「無限性」を直感して行動すれば、希望と活力が湧いてくるものだと。
人は「疑い」や「恐れ」から解放されると、希望や活力が湧いてくるという経験をすることがあります。そして他者へ「証明」する必要のない自明の「確信」はさらなる行動へとつながり、必要な人との出会いや、必要な物や機会が導かれるという経験をすることになるかもしれません。この「導く力」を人生で経験することは不思議なことであり、同時に当たり前のことでもあります。こんな風に考えるとどうでしょう。
安定していた世界で人が行動を起こすと世界の安定状態が変化するので、同時に「導く力」が働いて調整し、世界の安定状態を保つ。これを前提にすると、世界は常に「調和」しているという結論を得ることができます。
自らの人生で「導く力」の存在を確信できた人たちは、世界が常に「調和」を保つ様子を目の当たりにするなかで、世界は必要なものをただ導くのだと知ることになります。「必要なものを、必要なときに、必要な分だけいただく」という真の謙虚さは、自らの人生が導く力とともにあることを知り、世界の豊かさには限りがないことを疑いもなく知るときに「もたらされる謙虚さ」なのでしょう。
私たちは有限にしか見えないこの硬くて重たい物質世界を生きるなかで、宇宙の「無限性」を確信しようとする試みは大きな挑戦であって、人生で到達しうるひとつの偉業ではないかと思います。その偉業を一人ひとりが軽やかに成し遂げるとき、新しい時代が始まるのだと信じています。
 
有限性と無限性の実例を、ひとつ挙げてみようと思います。
ベーシックインカムを導入することにより、働かない怠けた人間が溢れかえるのではないかとの懸念があります。有限性をベースとした「競争」の社会通念が染みついている場合、働くことは辛く強制的であることが多いでしょう。懸念される事態は当然ということになります。
無限性が自明となり「調和」が社会通念となった世の中では、人は進んで何かをしたくなります。働くこと、他者への奉仕は「喜び」であり、多くの人が喜びを得るために動きまわり、活気に満ちた社会になるでしょう。競争社会に住むいまの私たちには想像しづらいですが、調和した社会が到来すれば人々はきっと気づくはずです。他者への奉仕が「喜び」であることは、あまりにも自然なことだと。なぜ与え合わなかったのだろう。なぜ奪い合っていたのだろうと。そして社会をまわす原動力を考えるなら、競争による「強制」よりも、喜びによる「自発」のほうが遥かにパワフルで有効だと知ることになるでしょう。
 
 有限であると信じるから「不足」を体験して奪い合う。
この世界が無限であると気づけば「競争」は消えて無くなる。
 
 いま世界に訪れている時代の転換期を「現象」として見ているときに面白いなと思うのは、有限性から無限性へと社会通念がひっくり返る転換の理想としては、一人ひとりの意識が拡大してゆくなかで「開けた頭」となって無限性を確信することですが、「閉じた頭」のままの人類がテクノロジーによって「ミニマムな無限性」に開かれてゆくシナリオまでも同時進行で展開しているからです。
例えば、限りなくコストがゼロに近いエネルギーが公にリリースされたり、超最適化と自動化によって低コストの食糧生産が確立したり、3Ⅾプリンターによる低コスト住宅が普及するなどによって、有限性の世界観を生きながら「ミニマムな無限性」に開かれるというシナリオです。私が考えるには真の「新しい時代」とは呼べないと思いますが、人類のメインはこちらの道をたどるのかもしれませんね。「ミニマムな無限性」の道をたどったとしても「競争」の用無し感は高まって、なにか「新しい時代」的な雰囲気だけを感じることになりそうです。
 
 あなたに真の「新しい時代」を生きる先駆者となっていただきたいのです。あなたも私も同様に、他者のそれぞれの真実を変更する力はありません。本人が気づくか、感じるかの問題です。あなたが無限性を確信して、競争のない生活を始めたなら、あなたの革命は完了です。他人の真実を変更できない世界のなかで「先駆者」として生きる意味とは、自らの生き方を通して周りの人たちに「光の方向を指し示す」ことだろうと私は考えています。
 無限性に開かれたあなたの生きる姿は、その喜びを表すような言葉の抑揚、優しい立ち振る舞いや仕草の一つひとつが光の方向を指し示すジェスチャーとなって、誰かが真の「新しい時代」に相応しい生き方だなと感化される切っかけになるかもしれません。そして無限性に開かれた人類の割合がある一定数を超えたとき、社会通念が怒涛の音を立てながら逆転することになるでしょう。
 いつのことになるでしょうか。でもどうなるかは分からないことなので、どうでもいいことです。いまこの瞬間、あなたが無限性に触れたなら、それが全てです。

 

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