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【書籍】「競争原理」という人類史最大の嘘【全文公開 ⑧】

   競争原理という人類史最大の嘘
 
 競争は、人類文明の発展において不可欠な有用性をもたらしてきたと評価する人がほとんどだろうと思います。他者と競い合うことで技術は革新し、あらゆる競技において前人未到の記録は更新され続けていきます。多少の弊害は感じても、人々を熱くする最大の関心事はつねに「闘争」です。こっちが正しいんだ強いんだと罵り合い、戦争までいかなくてもスポーツの国際試合は人々を熱狂させています。
 しかしいまのエンターテイメントの現状を考えてみても、私たちが「燃え上がること」として、競争をベースにした娯楽しか主に与えられてこなかったという、普段は意識しない前提があると言えそうです。私自身、スポーツの国際試合は好きだし選手の活躍には感動します。この競争心というものが私たちの精神の深いところにまで浸み込んでいて、競争心なしでは何に対して熱狂すればいいんだという疑問すら湧いてきます。
ここでまだ見ぬ、競争以外の行動原理でまわる世界を想像してみたら有意義だと思います。私は本書で語ってきたように、社会をまわす原動力を考えるなら、競争による「強制」よりも、喜びによる「自発」のほうが遥かにパワフルで有効だろうと考えています。喜びでまわる世界が訪れるとするなら、それは世界の根本的な原理は「競争」ではなく、「調和」であるという気づきが始発点となることでしょう。
個々人をみれば、喜びによる自発の人生を実践している人は多くいらっしゃいます。それぞれ自分の心おどる大好きなことに打ち込んだり、誰か何かに必要なことを見返りもなく提供したりする人たち。それでも喜びによる「自発」は、社会全体で合意された原理にはなっていません。もし、競争による「強制」の代わりに、喜びによる「自発」のほうが楽しくていいじゃないかという人々が増えて、「競争」の代わりに「喜び」の原理を合意する社会がやって来たなら。社会システムはどう変わるでしょうか、ゲームや音楽、スポーツの在りかた自体もきっと変わることでしょう。
 
ここで競争による弊害を、思いつく限り挙げてみましょう。
誹謗中傷や差別、批判、いじめや暴力、政治闘争、権力争い、富豪や高貴な者の貪欲、貧困、低賃金、使い捨て、言い争い、誰より先に、取った取られた、損だ得だ、割り込んだな、高級車に乗ってるんで、ブランドものじゃないと、都心生まれですけど、どこ大学出身ですが、新しい億ションの最上階を買いまして、マウントとられた、ブスじゃ生きていけない、整形して、痩せて、筋肉つけて、見た目がすべてでしょ、心はどうでもいいんで、作り笑いでいいから、言いくるめちゃえば、違法でないかぎり、騙されるほうが悪いし、頭わるい?、頭いいんですけど、有能じゃないと、使えねーな、お前のせいだろ、役人のせい、政治が悪い、社会が悪い、そして戦争、奪い合い、殺し合い。
 
私は誰かの何ものかのせいにするつもりはないけれど、これみんな「競争のせい」ですよね。強い弱い、優れてる劣ってる、勝ってる負けてる。競争心をベースにして、これらの弊害が尽きることなく沸き起こっています。
競争というのは、人が取り巻く世界を有限の物質世界だと知覚するときに生じてくるものです。このことについて、これまでの各章で様々な角度から語ってきました。有限性から生じる個々人の分離感がリアルさを持つと、競争が世界のシクミに根差した原理かのように感じる。どうでしょう。競争による有用性と弊害を天秤にかけて。それでもあなたは現状のまま、競争を原動力とした社会を選びますか。競争による「強制力」によってデジタル技術を発展させて、より良い便利な社会を、環境を破壊しながらも何とか持続可能であるかのような道を騙しだまししながら進みますか。
私は競争による弊害にウンザリしているので、生活から可能なかぎり「競争」を排除しています。例えばクルマの運転などで、片側二車線以上の道路では我先にとせかせか運転していたクルマが、一車線の道に入った途端、観念したように車間距離をあけて走っている光景を目にします。その姿はむしろ、ほっとして安心しているようにも見えます。人は競争環境に置かれると、無意識のまま争い始めるよう条件付けられている。
私は生活のなかで遠方まで運転することが多いのですが、競争性が生じる片側二車線以上の道路は極端なまでに迂回していきます。初めて行くところでもナビを確認して幹線道路とは別の一車線の道を、遠回りだとしても選んで行きます。驚くほどの時間も変わらず、ゆったりした気持ちでいられるなら早起きしたほうがいいですね。そんな生活をしていると、目的地へ向かうルート選びは、人生の選択に重なって見えます。誰かが我先にと息を切らせながら目的地に着いたら、しばらくして「お待たせしました」と笑顔で到着する。私は後者の生き方を選んでいきたいです。
 
ここまで読んでいただいた、あなたはもうお分かりのことですが、競争という呪縛を解くには、私たちの精神的な進化が必要になります。有限にしか見えないこの世界のなかで、取り巻く環境の「無限性」に気づくという意識の進化です。それはいわば、理性の重荷を下してやることでもあります。
「客観的に存在する物質世界は変えようもないし、そこに変化をもたらすなら物理的な働きかけが必要」といった一般的な意見に対しては、本書で語った繰り返しになりますが、「客観的に存在する物質世界」よりも私たちの「意識」は法則として上位のレイヤーに属しているので、下位の「物質世界」は上位の「意識」の有りよう次第だという理解になります。ではなぜ「意識」が上位法則といえるのかについては、あなたが自らの人生で確かめることなのです。突き放すようではありますが、そういった理解は言語とは相容れない「体験」でしか認識し得ないから、という理由になります。「閉じた頭」の人々からすれば「そんなことは論拠になりようがない」となりますが、ここが「開けた頭」との分かれ目ともいえます。
意識の進化という「知の道」は、確かなもののない謎解きの道でもあります。「閉じた頭」が要求する解説やマニュアルは「人生は退屈で、大抵の人間の能力はたかが知れているから、誰にでも分かる手順を」という現代人にとって必要なもので、私は誰もがたった一人で宇宙の謎を解く能力を秘めているものと考えています。
人間が成りうる可能性として「流動的で、かろやかなウィットと芸術性が彩る、神秘と謎の散りばめられた人生」を生き得ると思っています。「ウィットや芸術性」とは無縁だと感じる人でも、本来的な意識の特質として各人それぞれの「ウィットや芸術性」があり、ウィットや芸術性で描いた人生を生きることのほうが自然なことだと感じます。
 
意識が物質世界よりも上位の法則レイヤーに属していると確認する具体的な方法の一例として繰り返しになりますが、自分の人生に起こった「導く力」の現象を一つひとつ意識化して確認する、というものがあります。「導く力」とは、あなたを宇宙の本質へと導く力のことです。それは人生のなかに起こる現象として、例えば生き方を変えうる書物に導いたり、重要な人との出会いへ導いたり、必要な機会をつくったりという分かりやすいものから、ゆるやかな風や瞬く光として導いたり、流れる音楽に同期する景色で指し示したりといった分かりづらいものまで様々です。
だからこそ人生は謎解きなのです。どちらにしても私たちは普段、それらを気にも留めることなく、気づいたとしてもただの偶然としてやり過ごしています。力が導く現象の一つひとつは、私たちが信じてやまない有限の物質世界を超えた「何か」があるのだということを伝える、ささやかなメッセージです。例えば導く力は「内なる声」を使って、その秘密を明らかにしようともします。でも大抵は理解できず、自分の思い浮かんだ考えや感情か何かだろうと片付けてしまいます。こういった言語化できない感覚が人生のなかの謎を解くヒントなので、自らの人生で確かめる以外に方法はないのです。
 
なぜ導く力は直接的でなく、微妙なやり方で現れるのかといえば、私たち一人ひとりの神秘に満ちた謎解きの人生を邪魔しないよう、それでいて見放すこともなく、迷いの世界から抜けられない私たちに伝え続けていると捉えることができるかもしれません。それに気づいて意識化すると、より鮮明なかたちで「導く力」が現れ始めます。
 
現にこの段落を執筆している最中の私自身に、導く力が現れました。起こった現象は知の道を歩む実践者の一部には「第一の抽象の核」として知られるスピリットの顕示で、三つのサイン、三つの連続した顕示として現わされるものです。
具体的には、執筆中にひと休みがてら家のウッドデッキにでて洗濯物を干していたところ、デッキの板と板の間からオヒシバの葉先が一つだけ出ていたのです。踏みつけるのも嫌だったのでタオルを干した後に、板の間へと葉を戻しました。そして洗濯カゴから衣類をとって振り返ると、また別の葉先がでているのです。ウッドデッキの下にはいくつかの雑草が生えていたのですが、不思議に思いながらもまた板の間へと葉を戻しました。そして衣類を干して振り返ると、また違うオヒシバの葉先が出ているのです。デッキの板の間からオヒシバが葉先を出すには、風で揺られながら丁度うまく葉先の先端が板と板の間に入り込まなければなりません。しかし風もなく、立て続けに違うオヒシバの葉が一つずつ出ていたのです。これはどう考えても起こりえないことが三度つづけて起こったということで、スピリットの顕示だと理解しました。このように「導く力」について執筆している最適なタイミングでスピリットの顕示が現れるという、言語化できない「力の振る舞い」は神秘的なチャーミングさをも感じさせるものなのですね。
 
ここで使う「スピリット」とは体験することでしか解かり得ないもので、インターネット上で語られるスピリットに対応しそうな概念を当てて、そのことだろうと分かったつもりにならないほうがいいだろうと私は考えています。知の道を実践していくなかで分かってくることは、知識と言語はそれぞれ独立したもので、真の知とは「自明の知」と本書で語ってきた「言葉を介さない」直接の知であるのだという認識です。このような活動を通して意識の認識能力が拡大すると、私たちが学問と呼んでいたものは、真の知とは言うに及ばないものだという感覚にすらなってきます。
ここで疑問に思われるかもしれません。修行僧かのような実践をしなければ「競争」がまやかしだと気づき得ないのであれば、多くの人々が同意するのは無理だろう。そのような感想を持たれることもあるだろうと思います。私の考えでは、新しい時代を迎えるにあたって、多くの人が「意識の拡大」という進化の実践を心から楽しんで行うようになるのではないかと思っています。
本書で語ってきたように、人類が科学により理解するに至った最先端の認識のさらに先へ進もうとするとき、宇宙の真理を探る手法として従来の科学では遅すぎるので、人間の意識が認識できる可能性の範囲内にある「言葉を介さない知」に、人々が注意を向けざるを得なくなるだろうと思うからです。
 
例えば人の意識に変容をもたらす「力の植物」を人類文明が禁止してきた理由は、それらを利用してしまえば多かれ少なかれ、人々が「意識のもつ無限の可能性」に気づいてしまうからだろうと私は考えています。
意識の進化という実践の観点から、力の植物を使用する必要があるケースとは、物質的な世界観が強すぎる「頭の固い人」の世界観を和らげてあげるような場合です。本書をここまで読まれている頭の開けた世界観の柔らかなあなたには必要ないし、目に見える物質世界をこえた「何か」があるという直感をお持ちであれば力の植物は必要なく、お住まいの地域で法的に禁止されているのであれば使用しないでください。
 
人類は、理性の道を歩んでいます。理性は本書で語ってきた通り、本来の機能をこえて支配的な地位を占めています。人類文明が「力の植物」を禁止する理由は、人々が「意識の可能性」に目覚めて、「理性」をその支配的地位から引きずり下ろし、言葉を介さない直接行動の「意志」へと行動原理の中心が移されてしまうのではないかという、理性本体からくる「恐れ」の衝動だろうと考えられます。
理性は、言葉を介した間接的な行動様式なので、常に数歩も遅れていて、自明の知からも遠ざかるので、その欠点を隠そうと結果的に言葉による様々な制限を設けて私たちを「迷いの世界」に閉じ込め、理性の支配構造を守ろうとしているように見えます。
 
私たちが意識を拡大してゆく実践のなかで、自分の理性の重荷を下してやる必要を感じる段階になったなら、感謝の気持ちを込めて「お疲れさま」と理性に言いたいものです。理性は本来の機能をこえて分不相応な支配的地位としての役割をこなしてきたのです。理性本来の機能とは、この物質世界を知覚するデバイスのような役割で、他の誰かと「同じ」ような「客観的で不動な世界」を描写するためのものです。
それを実現するために理性は、人が生まれたあと物質世界を描写するための「一覧表」を作ります。この一覧表とは、生後その子に「世界はこうだよ」と周りの大人が描写する表現を一つひとつ項目にして、その項目にそって知覚する世界の描写を調整していき、その子が周りの大人の描写する世界と遜色なく整合性のとれた世界を知覚できるようになれば「一覧表」の完成となります。「物心がつく」とは「一覧表」が形作られ始めた段階を指しています。そして一覧表をもとに理性は、他人と共有しうる世界を描写できるようになります。理性による一覧表づくりは、子供のころに終わるといえます。
 
しかし「理性」の道を歩む人類文明は、完成したはずの一覧表の項目を、病的なまでに増やしてくという活動を続けてきました。例えば、様々な学問のあらゆる分野のあらゆる細部までをも分類し、名前をつけて「一覧表」の項目を増やしていきます。「世界を描写する」という一覧表の役目は終わっているのにもかかわらず。際限なく分類し、際限なく法規をつくり、際限なく他人の一覧表を学ぼうとします。その衝動が目指す先は、世界を知り、宇宙の真理を知ろうとする本能によるものかもしれませんが、皮肉にも世界の真理からは離れてゆく活動を続けてきたように映るのです。
 
意識を進化させていくことについての教えは、情報化された社会のなかで見つけてください。あなたに合った教えが必要になります。そして真贋を見極める「感性」が必要になります。金を儲ける下心の情報発信者や、自称の様々な導き手が量産される情報化社会のなかで「本物」を見極める感性は、生き抜く本能そのものです。
 
真贋を見極める私の判断基準をご紹介します。
「本物の人」は、自分のことを重要に考えず、何を言われても気に留めることなく、朗らかで、不安にとらわれず、他を無理強いすることなく、善も悪も包み込んで、清々しくて自由で、期待することもなく、恐れることもなく、汚れる仕事は自分から、危険な場面では超然として、心の道をただ歩んでいる人。
「虚偽の人」は、自分のことが何より重要で、尊重されないと不愉快で、気難しく、世界の不安な出来事にとらわれて、他に押し付け、自分は正義で他は悪だといい、欲望に縛られ、期待して叶わないと苛立ち、恐れからは逃げ、汚れる仕事は避け、不安を先回りして逃げる用意をし、自ら歩む偽りの道に無自覚な人。
 
近年の日本社会が迷い込んでいる「思い違い」の代表的なこととして私が思うのは、「あなたは重要な人、あなたは本当は凄い、自分の偉大さに気づいて」という言説の多さです。そういったメッセージは「他者から承認されず、自信をもてない」という現代人の多さに対応する言説なのだろうと思いますが、私から見ればアドバイスが逆で、「自分が最大の関心事」であることの帰結として「承認されず、自信をもてない」と感じる人たちが生まれるのだと考えています。
「自己を重要に考えられない」ことが要因で自信をもてない人が量産されているのだと現代社会は考えていますが、本当は「自己を重要に考えすぎている」ことが原因だといえます。個別のレアなケースには例外があったとしても、現代人の多くの人々が、自己を重要に捉えすぎています。
これはエネルギーの観点から考えると分かりやすくて、全てのものはエネルギーに還元できるので、人を定量のエネルギーをもった生命と考えたとき、そのエネルギーをもっとも消費するのは負の感情を燃え立たせた場合です。「人にバカにされた、侮辱された、見下された」といって怒りや嫉妬、妬みなどの感情をかき立てるほどエネルギーは大量に消費され、終いには使い果たされてしまいます。その状態が自信をもてない無気力さだったり、感情の起伏のないまま退屈なルーティンとしての日々を繰り返す人たちだったりします。
それは「自己を重要に考えすぎる」あまり常に他者の優位性に注意が向いてしまい、負の感情を燃え立たせてエネルギーを大量に消費し、その感情の放出先を外に向けられずに自分を攻撃してしまう。これではエネルギー的に精魂尽き果ててしまうし、症状を自覚していなくても、多くの現代人がこの状態にあるのではないかと思います。
 
「本物の人」を見極めるという話から言えば、「自分は取るに足らない存在」だと気づいている人が「本物の人」の最大の特徴だと思います。人は人生を通して多くの問題を乗り越え、苦労を気にも留めずに生きていくという段階に至ると「自分は取るに足らない存在」なんだという自然な気づきを得るケースが多いように思います。
何もできない取り柄のないころ人は「自分はもっと重要に扱われるべき存在」と考え、苦労や経験を重ねて何事もさらりとやり過ごす能力を獲得したあと人は「自分は取るに足らない存在」だという実感をもつ。
人生とは不思議なものです。それは一歩引いてみれば、自分を重要に考え過ぎているが故に世界が見えず、世界の神秘と謎の計り知れない奥深さが見えてくるようになってくると「自分は取るに足らない存在」だという思いに至ることができる。そして世界の真理はパラドックスとして表れるので、自分は重要な存在だと考えているときには「他人とばかり比べて自信が無くなり」、自分は取るに足らない存在なのだと知ると「自信と活力、冒険心が湧いてくる」。
それはエネルギーの観点からいえば、無節操なエネルギー消費の様式から抜け出して、エネルギーの適切な使い方を「知った」ということができます。
 
真贋を見極める判断基準は人それぞれ、みなさん各自の基準をお持ちだと思います。私は人生相談を見聞きするのが好きなのですが、あるとき「すがすがしさ」が人生の岐路に立ったときの判断基準になるのではないかと気づいたことがあります。人生の岐路に立ったとき「すがすがしい道」を選ぶ。社会的な価値観や人がどう思うか、損得や欲をはなれて、清々しい道を選択する。
 私の判断基準である「本物の人」の特徴は、すべて一つの方向を示しています。それらが指し示す方向の先に、私が進むべき何かがあるのだろうと思っています。
 
 最後に、田舎で農業をする初老の男性の物語りを考えてみましょう。
 男は代々受け継いできた山あいの段々畑を、これまでと同じようにその年も耕していました。新たな種を蒔き、土地の世話をしながら、秋には樹が実をつけます。「今年も多くの実をつけてくれたな」という感謝の思いが身を染める夕暮れ、私の人生も多くのことがあったなという追想にかられます。若い頃には町に出て、工事現場やトラックにのって稼いだりもした。子どもたちは無事に育って孫もできた、畑はいまでも大地の豊かさを実らせてくれる。世界では戦争や火山の噴火、大飢饉が度々起こったなか何とか生き延びてきた。男は夕暮れの輝きに身を突かれ、ふと思います。「でも世界で起こった大事件や大災害は、はたして自分の世界のものだったのか」と。自分の人生に、自分が生きた時代に起こったと思い込んでいた世界の出来事は、本当に自分の世界のものと言えるのだろうか。どんな時も、山々や目のまえの畑は朝日に輝き、風に揺られていたのだという思いが頭を過ぎりました。もしテレビのニュースで見聞きした嫌な事件や災害を知らなかったなら、ずっと平穏で豊かな人生だったのではないか。大嵐がきて収穫期の果実がほとんど落ちてしまった年もあった、土砂が流れ込んだ年は村人総出で片付けたもんだ。それもみんな自分の世界だ。大変だったけれども、それを乗り越えてきたという想いが、なにか眩しいような人生の思い出になっている。
男はそれからというもの、テレビをつけることが無くなりました。だからといって何が変わるわけでもありませんが、飯がまえよりも旨く感じるようになったような気がしています。米の一粒ひと粒、みそ汁をすすったときの深い味わい。気のせいかもしれんが。心も穏やかに、山々の眺めと、鳥のさえずりを聞いているのが好きでした。
心の平穏さが男の自然な特徴の一部になると、物に対する扱い方が変わってきました。食器を洗うときのガチャガチャした音がなくなり、農機具の扱い方も以前より優しいものになってきました。あるとき男は、ふと気づきました。以前は心のなかで過去の出来事の言い訳を繰り返したり、気がつくと自己弁護する心の議論をしていたりしたものだが。最近では気がつくと心のおしゃべりもないまま、何時間も作業に没頭している。心の葛藤が消えてゆくにつれて、物に優しい扱いができるようになっていました。
男は食事の用意をするときに、音もたてずに食器を置くことが自然な男の物腰となり、優しく戸を閉め、土間の履物をそろえます。そして心も穏やかに、山々の眺めと、鳥のさえずりを聞いている午前のことでした。蛇口から落ちた一滴の雫が、台所に溜めてあった桶の水に落ちたのでしょう。水面をたたいた雫の一滴の音が、こだまのように男のなかで反響したのです。音の大きさに圧倒されるようでありながら、遠ざかっていくようでもあります。雫の落ちた音に、男は永遠を感じました。
反響が完全に遠ざかると、いつものように優しい鳥のさえずりが聞こえていました。
 
自分の世界をこえたニュースの情報や統計データを概念化したのはいいけれど、出来上がった世界認識のモデルに自分自身が拘束されてしまう。そして「世界ではこれが常識、その考えは甘いね」と行動が事前に規制されてしまいます。その帰結として「無理だ、足りない、限界だ」と、私たち人類文明の決まり文句が説得力をもって飛び交うようになるのです。
しかしその決まり文句がリアルさをもつのは概念化したモデルを共有する「閉じた頭」の人同士であって、概念化したモデルを自分の世界から捨ててしまえば、閉じた有限性の世界からもやがて解放され、目のまえに広がる自分の世界に「無限性」を見つける体験が訪れることさえあるのです。それは閉じた頭の人からすればあり得ない奇跡ですが、気づかれないままずっとそこにあった「調和」の一状態を見つけただけと理解することもできるでしょう。
目の前の自分の世界ではない情報をもとに条件や限界を設定してモデルをつくり、他人のモデルよりも優れているだろうといって競わせる、「閉じた頭」の者同士で争うときの見飽きた構造ですが、そのやり方では有限性と限界しか発見できず、より良い合意点を見い出す可能性は閉ざされ、自分一人が何をやったところで世界は何も変わらないという感想しか生まれない、それが現在の「迷いの世界」です。
 目の前の限られた世界が全てだと受け入れると、そこに無限性を見い出すことがある。目の前に広がる世界をこえた情報をも広大な世界だと概念化すると、有限性しか見えなくなる。真理のパラドックスは、いつでも私たちの前に立ちはだかっています。
 
 現代の多くの人の精神は、戦争かのような混乱状態だろうと観察しています。自分が他人に感じた批判の考えや、周りの人が誰かに対して言う批判の言葉が記憶として蓄積し、自分が逆の立場に立ったとき、批判の言葉の記憶が心のなかで「反射」して自らを攻撃することがあります。そうすると反射する批判に対して、人は自分の立場を弁護する言い訳のおしゃべりを心のなかで展開していきます。競争性の強い環境で生きている人は特にでしょうが、やむを得ない処世術の副産物ともいえるのかもしれません。
 このような内的批判と弁解の連鎖から解かれるには、自らを内観して、内的批判と弁解のおしゃべりに気づいたら、「よくいままで頑張ってきたね、もういいよ、お疲れさま」と深い実感とともに心へ語りかけましょう。私の経験からいえば、たった一回の試みで精神の混乱状態が終わり、心の平穏が取り戻されました。
 このことを経た後の変化として現れたのは、瞑想のときの内的対話を自由に止められるようになったことです。それまでは瞑想中に心のおしゃべりを止めようと思っても、気がつけば思考の連なりのなかに巻き込まれていました。これは瞑想経験者であれば誰でも越えなければならない壁ですが、ヨガの瞑想を数十年も実践してきた瞑想指導者でさえ「心の思考を止めることは不可能なので」と生徒に語る人がいるほどです。
 しかし思考の連鎖を止めることが出来ないのは自らの精神が混乱状態にあるからだと分かると、瞑想するにはまず、戦争のような精神の混乱を収めてやることが第一歩だと理解できます。心の平穏が取り戻されると、睡眠時にみる夢のストーリーが支離滅裂なものから、理路整然とした夢に変わります。逆に考えれば、支離滅裂な夢を見ているとすれば、それは精神の混乱状態を表しているといえます。そして、日常の生活の中でいつでも心の沈黙状態に入ることができるようになります。それと同期するように心の中が整理されて、日常の世界に「優しく」触れるという真の謙虚さが備わってくるようにもなります。
 新しい時代に適応した「新しい優しさ」が、競争心の問題を克服した人の、はっきりとした特徴になるだろうと考えています。

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