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陽羽の夢見るコトモノは(12)

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(12)リメンバー

過思考症候群<overthinking syndrome>
DSM-13に初出。その症状を発見或いは定義したのはスイス人の医師、ハンス・フォン・ホーエンハイムである。不安神経症の一種に位置付けられ、症例の多くは投薬による「思考抑制」により改善可能。早期発見が重要なのは他の疾病と同様であるが、医療的介入が遅れた場合(しばしば高齢者である)、徹底した管理下に置く必要がある。

理沙。私はあなたを守り切ることが、どうやらできそうにない。その可能性の蓋然が、おぞましい焦燥となって、私にこうして筆を走らせる。

私には最早、あなたの賢明さ、聡明さに己の全てを託すことしか道がないのだ。 

理沙、このことは、あなただけが理解できればいいことであり、同時にあなたにしか理解しえないことでもある。 

私は、只管に人間たちの幸福を願った。それが独善や傲慢に過ぎないとどんなに罵られようと、私は信じたかった。それが愛だと、確信していたから。

しかし、理沙、何もかも、過去形になってしまった。 

この世界にはもう、愛するに値するコトモノなど、存在しないのかもしれない。

20××年7月某日、八島哲弘の日記

パラケルスス機構からの経済的支援の一切を絶たれて以降の生活は、前にも増して楽なものではなかった。伊織はコンビニのシフトを今以上に増やすことも考えたが、それはコンビニ側の金銭的な負担にしかならないと、思いとどまった。「コンビニ」とはいえ、あくまで街の小さな個人商店なのだ。

エリーゼは、努めて明るく快活に振舞ってはいたが、日々の晩酌を控えるようになった。たまに眠れない夜があるようで、そんなときには部屋の一隅で眠り続ける陽羽を見ては、深いため息をつくようになった。

しかし、伊織とエリーゼの疲れ切った表情を見逃すような遠藤さんではない。伊織は、彼女の祖母から預かった大切な存在だし、エリーゼとはすっかりマブダチなのだから。

12月分の家賃を入れた茶封筒を持って、伊織が遠藤さんの家を訪ねたとき、遠藤さんは彼女とエリーゼを家に招き入れた。年末ということもあり、遠藤さんにあいさつしたいと、エリーゼも同行していたのだ。

「一万円札が揃わなくて。細かくなってしまいすみません」
「そんなこと、いいのよ」

マイセンのティーカップに注がれたカモミールのハーブティーを一口飲むと、伊織とエリーゼの肩から、余計な力がふっと抜けていくようだった。

「おいしいです、とても」
「ふふ、そうでしょう。オリジナルブレンドなの」

遠藤さんはそう笑ってから、ふと真顔になった。窓の外では、葉を落とした街路樹たちが木枯らしに吹かれている。

「実は二人に、私から提案とお願いがあるの」
「え?」

遠藤さんは、使い古されたクリアファイルから、一枚のA4サイズの紙を取り出した。

「レジュメ?」

訝しげにエリーゼが覗き込む。そこに書かれていたのは、この街の郊外にある、介護老人保健施設「リメンバー」の求人要項だった。

「こういう業界は……いえ、今はどこもなんでしょうけど、深刻な人手不足でね。慣れないことかもしれないけど、どうかしら」

求人内容は、介護士と調理補助の二種。介護士に関しては、未経験・無資格の場合には「認知症介護基礎研修」の受講が必要となるが、eラーニングでの修了が可能らしい。しかも、研修にかかる受講料は、「リメンバー」が出してくれるとのことだ。

調理補助の業務内容は、老健施設で提供される食事の準備のみならず、管理栄養士の組み立てる献立を入所者に伝えるチラシの作成や、メニューのデータ管理なども含まれるという。

遠藤さんの提案とは、伊織に介護士、エリーゼに調理補助として「リメンバー」で働いてみないか、というものだった。

それに対してすぐに回答したのは、エリーゼだった。

「遠藤さん、ありがとう。料理ならかなり得意だから、もちろんやってみるわ。ええ、やってみたい」
「じゃあ、エリーゼさんは決まりね。それで、もうひとつの『お願い』のことなんだけど」
「えっと……私に、ですか?」
「ええ」

遠藤さんは、テーブル越しに伊織をまっすぐ見て、穏やかな口調でこう話しはじめた。

「『リメンバー』では、日々の暮らしのサポートだけじゃなくて、いろいろなレクリエーションや生涯学習のようなプログラムもあるのね」
「そうですか」
「その中に『ペン字』の時間があるんだけど、ボランティア講師の方が体調を崩されて、しばらく来られなくなってしまったの。そこで、あなたに介護士としてだけではなくて、『ペン字』の講師をお願いできないかしら」
「え……」

伊織にとってもエリーゼにとっても、遠藤さんからの提案は、願ってもない話だった。ただ、引き受けた場合、コンビニのバイトは辞めることになるだろう。店長さんに、しっかり挨拶しに行かねばならない。

しかし、背に腹はかえられないのだ。伊織はほどなくして、エリーゼと共に「リメンバー」で働くことを決めた。

この決断が、生活面にとどまらない、大きな岐路であったと伊織が痛感するのは、実はそう遠くない未来のことである。

何も知らない陽羽は、冬の頼りない日差しで編まれた、小さな陽だまりのなかで、その日も眠り続けていた。

▽(13)につづく

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