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Chapter 2 Vol. 12 死の影、恋の影

『黄昏のアポカリプス』という小説を書いております。もしご興味がありましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ。


あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Chapter 1 プロローグ


前回から読まれる方は、こちらから。

Chapter 2 Vol.11 秋の冒険とブルーベリーとユーフォリア


本編 Chapter 2 Vol. 12 死の影、恋の影

 翌日、あきらは携帯電話がメール受信を告げる音で目を覚ました。それは手のひらにすっぽり収まるサイズの最新モデルのもので、ボディはメタリック・ブルーだった。日本ではインターネットへの接続はおろか、一般市民がパソコンや携帯電話を所有することが法律で厳しく禁止されていたので、その小さな携帯電話をジャン・ルイと由香梨からプレゼントされた時、彼は飛び上がって喜んだものだった。




 時刻は朝10時30分だった。いつも早起きのあきらにしてはめずらしく、目覚ましの音にも気づかないほど深く眠り込んでいたようだ。昨日のすばらしい気持ちはどこかに消え去ってしまい、肥満気味の猫でも乗っかっているみたいに頭が重く、躰中がだるかった。彼はベッドに寝そべったままメールを開封した。差出人はエイドリアンで、あきら、ハング、宇轩ユシュエンのメンバーに向けたグループメッセージだった。

「みんな、一昨日は楽しかったな!
 でも、体調大丈夫だった?俺は腹痛で一日中しんどかったよ。
 家族は食中毒じゃないかって言うんだけど…」

そのメッセージにあきらが返信するよりも早く、ハングが答えた。

「おはよう!僕も楽しかったよ。ありがとう!
実は僕も家に帰った後体調を崩しちゃったんだ。あきらとシュエンは大丈夫?」

間髪を入れずに宇轩ユシュエンから「おはよう」とメッセージがあり、続いてリンクが送られてきた。そのリンクを辿ってみると、「テラ・ボタニカ」というインターネットサイトに行き着いた。植物の生態を詳しく説明しているフランス語のページで、そこには二日前に少年たちが口にしたのとまったく同じ種類の植物の写真が載っていた。品種名は『Raisin d'Amériqueアメリカン・レーズン』だと説明があった。写真の中のその植物は、濃く艶やかな紫色の実と楕円形の葉を持ち、細長く垂直に垂れさがっていて、葡萄によく似ていた。




これは有毒植物である

と、宇轩ユシュエンからのメッセージが届いた。どうやらサイトの中の重要な部分をコピー・ペーストして送ってくれているらしい。あきらは飛び起きた。ベッドの上に座り直し、携帯電話の画面をスクロールしていった。植物の写真の下には、長々とした学術上の記載があった。北アメリカ原産の多年生植物で、高さは1 - 2メートル前後に達し、茎は直立して無毛で赤く、…云々。あきらが情報を追っている間に、携帯電話に次々とメッセージが送られてきた。

「植物全体にわたって毒があり、果実も有毒である」と宇轩ユシュエンからのメッセージは告げていた。

「毒性は根の部分が一番強く、続いて葉、果実の順となる。誤食すると、2時間ほど後に強い嘔吐や下痢が起こる。摂取量が多い場合は強い興奮状態や精神錯乱に陥り、さらに中枢神経麻痺から痙攣や意識障害が生じる。最悪の場合には呼吸障害や心臓麻痺を引き起こして死に至る



少年は日本から持ってきた分厚い仏和辞書を使いながら、送られてきたメッセージを読み進めていった。すべての単語を知っているわけではなかったので、一度読んだだけでは細かいニュアンスは掴めなかった。それでも、「死に至る」という部分は真っ先に目に飛び込んで来た。その文章を読み進んでいると、少年はだんだん指先が冷たくなり、心臓がことことと震え出すのを感じた。真っ暗な部屋に少しずつ水が流れ込んできて、その暗く冷たい水に全身がゆっくりと侵されていくような気持ちになった。


 彼は今まで、自分が死ぬとしたらそれはアポカリプスによるものだろうと漠然と考えていた。そうでない死もあり得るのだということが、意識にも上らなかった。ところが、死は案外あっけなく訪れるものらしい。たった数粒の木の実で。誰かの気まぐれな思いつきで。明るく広々とした秋の空の下でさえ。彼はあの日草原に寝転がっていた自分たちの姿を思い浮かべた。くっきりと青い空に浮かんでいた、妖精の羽のような雲のことを考えた。そして草原に寝ころんだまま、自分たちの躰が永久に凍結してしまう様子を想像した。彼らは幸せそうな小さな笑みを口元に浮かべている。でもそれは抜け殻だ。少年たちは躰だけそこに残して、どこか遠くの方に旅立ってしまった。それは何だか無声映画の一場面のようにシュールな光景だった。その時、携帯電話のメール受信の音が再び鳴った。あきらははっとして画面を見た。


「どういうことだ?あれはブルーベリーじゃなかったのか?」エイドリアンがメッセージで尋ねた。
「どうやら違うみたいだね。僕たちが食べたのは、きっとそのアメリカン・レーズンだったんだよ。幸い、少ししか口にしなかったから腹を下した程度で済んだけど…」とフング。
「残念ながらそのようだね」と宇轩ユシュエン
「おーい、あきら、生きてるか?」とエイドリアン。
あきらは先ほどから一言も発信していないことに気づき、「生きてるよ!」と慌てて返信した。
シュエンが送ってくれたページを読んでいたんだ。僕も一昨日、お腹の調子が悪かった。今はもう大丈夫だけど…」
「そっか…。みんな、ごめんな」
エイドリアンからのメッセージは、心なしかいつもより感嘆符二つ分ほどのエネルギーが欠けているようだった。
「心配しないで。みんな無事だったわけだし」とフング。
「まあ、死ぬかと思ったけどね。体調も気分も最悪だったし。今度会ったとき、何か奢ってくれたら許すよ」
宇轩ユシュエンが切り返した。
「よっしゃ、わかった!じゃあ秋休み明けにみんなでパブに行こうぜ!もちろん、俺の奢りで!」
エイドリアンからのメッセージに覇気が戻ってきたようだった。あきらは、あの小粋な海賊のようなスコットランド人の笑顔を思い出して微笑んだ。
「えー、お酒?僕たち、未成年じゃん」とフング。
「何だよ、せっかく奢ってやるってのに。あきら、何か他にアイディアあるか?」エイドリアンが尋ねた。
「うーん。じゃあ、焼き栗はどう?学校の帰り道で時々焼き栗の屋台を見かけて、おいしそうだなと思ってたんだ」
あきらのアイディアに、フングも宇轩ユシュエンも同意した。
「決まりだな!じゃあ、焼き栗だ!お前ら、楽しみにしてろよ!」
エイドリアンは完全にいつもの調子を取り戻したようだった。四人はお互いに「じゃあね」とか「いい一日を!」などとメッセージを送り合い、やがて会話が終わった。




 彼らとのやりとりが終わると、あきらは先ほどのサイトをじっくりと読み直した。「摂取量が多い場合は強い興奮状態や精神錯乱に陥り」という部分に彼の目は惹きつけられた。もしかしたら『精神錯乱』という項目の中に、昨日感じた異様な多幸感のことも含まれるのだろうか。けれど他の三人はそのことを口にしなかった。それを感じたのはどうやら彼ひとりだけであるらしい。とすると ― あきらは蛇にでも抱きしめられたみたいに身震いした。彼はほとんど無意識のうちに机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。彼が父親から言いつけられて、日常の変化を見落とさないように書き記している例のノートだ。彼は震える指でページをめくり、最後のページを開けた。そこには子どもっぽい丸い字で「ぼくの秘密」と書いてあった。続いて彼の名前、生年月日、血液型、星座、両親の名前、日本とフランスの住所、携帯電話番号、好きな色、好きな数字などといった情報が事細かに記されていた。彼は片手でページの右半分を隠し、一つ一つの質問に小さな声で答えていった。

ぼくの名前は? ― 片桐あきら。
生年月日は?    ―   2038年2月19日。
血液型は?     ― A型。

 
あきらはすべての質問に答え終わると、小さくため息をついた。大丈夫、何も忘れていない。ということは、バグにはかかっていないはずだ。このようにして、あきらは時々自分が感染しているかどうかを点検した。「フランスではマイクロチップ自体が作動しないのでバグにかかる可能性はゼロに等しい」と常々伯母は言っていたものの、あきらはやはり確かめておきたかった。

 それにしても、あれは一体何だったのだろうと少年は改めて考えた。ひどい腹痛を起こした翌日に、まるで天国にいるような気分になるなんて。ただの気のせいだとは彼には思えなかった。あの日のみずみずしい感覚は、まだ指先にまで残っていた。まるで天使が躰中の細胞にキスしていったみたいに。それは花憐を想うときのような、禍々しいほど強く熱い気持ちとは違った。そうではなく、もっと清らかで明るい感覚だった。世界中の命が燃えて踊りながら彼の存在を祝福しているような。彼はその日のことを日記に書こうと何度も思ったが、それをどう表せばいいかわからなかった。いつかバグに侵されてこの感覚を忘れてしまうかもしれないと思うと、とても切なくなった。彼はなんとかしてもう一度あの感覚を呼び起こしたいと思った。


 一週間後、花憐がアヌシーから帰ってきた。戸口の辺りでスーツケースを運び込むごとごという音とともに彼女の元気な声が聞こえてきた。
「パパ、ママ、あきら、ただいま!」
自分の部屋にいたあきらは彼女の声を聞きつけ、玄関口まで走っていった。ジャン・ルイと由香梨は居間で珈琲を飲んでいるところだったが、同じく娘を迎えるために駆けつけた。彼女はリボンのついたつばの広い麦わら帽子に、黒地に花柄のワンピースという格好だった。手には小さな赤いスーツケースを下げ、肩には帽子と同じ色のショールを羽織っている。頬を紅潮させ、瞳をきらきらさせた彼女は、まるで知らない街に辿り着いた旅行者みたいだった。彼女は家族の方へ駆けて行った。
「お帰り!旅行は楽しかったかい?」ジャン・ルイは娘を腕に抱きしめて言った。
「ええ、パパ、とても!」
「さあ、いらっしゃい。旅行の話を聞かせてちょうだいな」
母親は花憐の肩に手を置いた。少女は左腕を父親に、右腕を母親に抱きとめられ、大人しい白猫のように玄関口のステップをゆっくりと上がっていった。彼女は家に入る前に、ふと思い出したようにあきらの方を見た。あきらはぎくりとした。花憐の瞳は、見たままをいきなり掴み取ろうとする赤ん坊の眼のように無遠慮に少年を見つめていた。彼は頬が赤らむのを感じたが、目をそらすことも微笑むこともできなかった。少女はしばらく無言で少年を見つめていた。やがて彼女は何も言わず、家の中に入ってしまった。




 夕食の席で、花憐はいつもよりはしゃいでいるように見えた。その晩のメニューは、ブロッコリーとにんじんの温野菜サラダとかぼちゃのグラタンだった。少女は喋りどおしで、しばしばフォークが宙に浮いたまま食べるのを忘れている様子だった。由香梨に諭され、彼女はほんの少しグラタンをつつくのだが、またすぐに何かを思い出して話し始めるといった調子だった。あきらはほとんど料理を食べることができなかった。花憐の全身から明るいひかりが絶え間なくこぼれているみたいに、彼女から目を離せなかった。彼女を見ていると、心のどこかが細かく震えて、それからしみじみと温かくなっていった。雨に濡れた小鳥が嵐のあとでやっと住処に帰ったみたいに。




  夕食の後、あきらはなんとなく躰が火照って、部屋の中でじっとしていることができなかった。土の中にいる虫が炙り出されて地表に出るみたいに、彼の足は自然と庭に向かった。その日は11月にしてはわりと温暖な夜だったが、少年は念のためダウンジャケットを羽織って外に出た。

 明るくあたたかい部屋から急に戸外へ出たので、夜の冷気の中にいるのがちょっとした冒険のようで楽しかった。藍色の空は高くはりつめて、星がちかちかと瞬いていた。あきらは10分ばかり歩き、小高い丘の上のお気に入りのベンチに腰を下ろした。ベンチは夜露で少し湿っていたが、かえって躰の熱を吸い取ってくれるようで心地よかった。少年は背もたれに寄りかかり、首をかくんと倒して夜空を見上げた。星は色とりどりの金平糖のように秋の夜空を彩っていた。




 小枝を踏みしめる小さな音が聞こえた。少年が振り返ると、そこには花憐が立っていた。彼女は先ほどのワンピースの上に白いパーカーを羽織り、両腕で躰を抱きしめるようにしていた。

Salutサリュ」と彼女は言った。
Salutサリュ」とあきらも言った。

それから彼女はあきらの隣に座った。風が吹き、少女の髪の毛があきらの鼻先を掠めた。なつかしくやわらかい匂いを風が運んできた。ふたりはしばらく何も話さなかった。星々の輝きを邪魔しないようにと心を配っているみたいに。長い沈黙の後、彼女は口を開いた。
「あきら、今まで誰かに恋したことある?」
少年の胸の奥で突然太鼓が鳴ったような気がした。心臓が痛いほど激しく打ち、うまく息が吸えなかった。まるで世界中の空気が闇の中に吸い込まれてしまったみたいに。花憐は少年の動揺に気づかず、静かな声で続けた。
「私は、あると思う。私、恋をしているの。…秘密を守るって約束してくれる?」
彼女はあきらを見つめた。白眼の部分が闇の中できらりとひかった。
「約束する」
少年はやっとのことで喉の奥から声を絞り出した。彼は4000年くらい前の虫の化石にでもなったような気がした。自分の声が相手に届いているのかさえわからなかった。先ほどまで親し気に輝いていた星のひかりが、急にとても遠い場所に行ってしまったような気がした。

「わからないところがあったら日本語で言うから、その時は言ってね」と彼女は前置きし、フランス語で話し始めた。彼女の声はぼんやりとした薄い膜に覆われているみたいに、くぐもって聞こえてきた。



「あきらも知っている通り、秋休みの間、わたしはアヌシーに旅行に行っていたの。リズに誘われてね。あ、リズっていうのはわたしの友だち」
あきらはわかったというしるしに頷いた。花憐は続けた。

「そもそも、どうして私たちがアヌシーに旅行することにしたのか、そこから始めないといけないよね。あきらは知っているかどうかわからないけど、フランスでは、アポカリプス対策の一環として長距離旅行がずっと禁止されていたの。もちろん国内でもね。ママが言うみたいに、マイクロチップはとっくに廃止されているんだから感染する危険はないと思うんだけど。でも今年の秋休みとクリスマス休暇中は、試験的に旅行が許可されるようになったの。どういう理由なのかはわからない。政府は気まぐれだから」

花憐の説明は断片的にしか少年の頭の中に入ってこなかった。彼女の声は美しい音楽のように空中を漂い、くるくる回りながらどこかに消えていってしまった。少年の脳の一部は冷たい氷の塊にでもなってしまったように、痺れてうまく動かなかった。少年は敢えて聞き返さず、曖昧に頷いた。きっと今の僕はひどい顔をしていることだろうなと彼は思った。けれど夜の闇が彼の青白い顔を隠してくれていた。花憐は、あきらの沈黙は自分の話を注意深く聴いてくれているためだと解釈して話を続けた。
 
 彼女はリズという女友だちに誘われ、アヌシーに旅行することにした。アヌシーにはリズの伯父夫婦が住んでおり、気軽に遊びに来ていいと、かねてよりリズから言われていたのだ。伯父夫婦は温かく彼女たちを出迎えてくれた。そこには、リズの遠い親戚であるスイス人の少年もいた。彼はラファエルという名で、年齢は17才くらいに見えた。すらりと背が高く、金色の太陽のような髪の毛と、吸い込まれるような青い瞳をしていた。

「そりゃね、もう、映画俳優みたいにきれいな顔立ちをしているの」と花憐は言った。

「ひとめぼれなんて嘘っぽいと思うでしょう?でもね、それって本当に存在するのよ。わたし、彼と会った瞬間にわかったの。ああ、わたしはきっとこのひとのことを深く愛するだろうなって。ねえ、素敵だと思わない?」

彼女ははしゃいで言った。彼女の一言ひとことが、まるで杭のようにあきらの胸に突き刺さった。彼はその杭によって、冷たい夜のベンチの上にはりつけにされているように感じた。心臓が氷の塊となって痛み、皮膚を突き破って外に飛び出してくるような気がした。空から星が姿を消し、樹々のざわめきも花憐の声も何も聞こえなくなり、彼は地中深くに沈み込んでいくように思った。彼はしばらく自分の心臓の音だけしか聞こえなかった。




 花憐はあきらの様子には気づかないようで、まるで別の世界に住んでいる人のように話し続けた。
「ラファエルはスイスのジュネーブに住んでいるんだけど、彼も秋休みだからアヌシーに遊びに来てたわけ。それでね、彼はわたしとリズに、このまま一緒にスイスに足を伸ばさないかと言ってくれたの。だってフランス政府が旅行を大っぴらに許可するなんて滅多にないことだし、せっかくこうして知り合えたんだから僕の住んでいる国も見てほしい、って言うの。ねえ、彼ってすごく紳士的でしょう?それにアヌシーとジュネーブはそんなに遠くないのよ。そうね、長距離バスに乗って一時間くらいかしら。リズとわたしは最初はためらったわ。だってスイスはマイクロチップ使用国だから。バグに感染する危険は、フランス人にとってはゼロみたいなものだけど、でも、それにしたってやっぱりね」
花憐は、あきらもまた『マイクロチップ使用国』の国民であることをきれいに忘れてしまったらしかった。それどころかあきらがそこにいることも忘れてしまったみたいだった。彼女は森の樹木をなぎ倒して進む機関車のように、止まることなくしゃべり続けた。




「わたしたち、思い付きで来たものだから、パスポートも何も準備せずにバスに乗ってしまったの。本当は身分証明書とかなんとか、色々必要みたい。でも、偶然なんだけどバスの車掌さんがラファエルの親戚のおじさんでね。『可愛い甥っ子がこんなに素敵なお嬢さんたちと旅行するのなら「ノー」とは言えないなあ』なんて言って、結局乗車を許可してくれたの。ねえ、これって運命みたいでしょう?スイスに行きなさい、って神様に言われているみたいだと思ったわ。スイスってね、とても素敵なところよ。バスの窓から湖が見えたわ。大きくて、広々していて、海みたいなの。それから、空に吹きあがる噴水も見たわ。素敵でしょう?ああ、でも物価はやけに高いけれどね」

言葉は次から次へと零れ落ち、一瞬も途切れることがなかった。彼女は句読点や息継ぎすら忘れてしまったみたいだった。あきらは彼女の言葉をすべて聴き取るという努力をとっくにあきらめていた。どのみち彼女は誰かに向かって話しているわけではなく、躰の中に籠っている熱を放射するために話しているような感じだった。鮭が河を上り産卵するみたいに、彼女は何か本能的な必要性に駆られて話しているように見えた。

「それから…」彼女はそこで言葉を切った。三秒ほどの沈黙があった。
「それからね、彼はリズが見ていないところで、わたしにキスをしてくれたの。そしてこう言ったわ。『君のことがすごく好きだよ。僕たち、またいつか会えるよね?』って。その日から彼のことしか考えられないの」
そして彼女は黙り込んだ。闇の中に耳が痛くなるほどの沈黙が訪れた。ふと花憐の髪の匂いがした。それは甘く、煙のようにあきらの鼻先をかすめてどこかに消えていってしまった。




 あきらはまじまじと花憐を見た。彼女の睫毛は涙で濡れていて、瞳には淡い影が落ちていた。鎖骨のくぼみに月のひかりが溜まり、美しい池のように見えた。小さな丘のような二つの乳房が、ワンピースの下で静かに浮いたり沈んだりしていた。恋は彼女に物憂げな影を投げていた。そのせいで、彼女はまったく新しい別の人間みたいに見えた。あきらは森の中で野生の鹿に出くわした人のように、しばらく花憐を見つめていた。
「あきら、どう思う?」やがて花憐が尋ねた。彼は言うべき言葉が見つからなかった。ただ、黙って空を見上げた。夜空がめまいのするような速さで降ってくるように思われた。
彼女はあきらをちょっと睨んで「聞いてる?」と言った。
「うん…。うまくいくといいね」彼は喉を絞められた鶏のような声で答えた。それが唯一口にできた言葉だった。
「ありがとう」
花憐はあきらのほほにすばやくキスをした。それから髪の毛にまとわりつく星屑をふるい落とすように頭をゆすった。そして立ち上がり、軽やかな足取りで家に向かった。あきらは少女の後ろ姿をしばらく見つめていた。躰中がくらげに刺されたみたいにびりびりして、彼はしばらく動けなかった。




 その晩、まどろみの中に花憐が現れた。愛は無限に溢れているものだから、何も心配することはないと彼女は告げた。私は神のようにすべてのひとを等しく愛している。ラファエルのことも、あきらのことも。だから泣かないでと。あきらはやわらかな手が涙を拭うのを感じた。そしてそのまま浅い眠りに落ちた。

  フランス政府はアポカリプス政策に関する一時的な規制緩和を行う方針を発表した。実施期間は2051年10月23日から11月6日までの秋休み期間、ならびに12月21日から1月4日までのクリスマス休暇中である。この期間は政府の承認する国々への渡航が可能となる。なお、これによるフランス市民へのバグ感染の危険性はきわめて低いものの、マイクロチップ使用国の国民と接触する際には細心の注意を払うよう、政府は呼びかけている。   

『パリ・タイムズ』誌より抜粋

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