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Chapter 2. Vol.9 再生

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

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Vol.8 魔法の契約書


本編 Chapter 2. Vol.9 再生


 ジャン・ルイがインターナショナルスクールへの通学を提案して以来、あきらの心は少しずつ未来に向かうようになっていった。まるで誰かが松明を持って洞窟にひかりをもたらしたかのように。冬眠から覚めた動物が巣穴から這い出るように、少年は少しずつ部屋から出るようになってきた。由香梨と花憐のおしゃべりにも、唇の端を上げてほんのちょっと笑うようになった。彼自身は気づいていなかったが、そうした笑い方は彼の父親にそっくりだった。食欲も増してきたようだった。胃腸炎のことを江梨子から伝え聞いていた由香梨は、よく少年にライス・プディングを作ってやった。ミルクでやわらかく炊いた米に、蜂蜜とシナモンを加えて作る素朴な一品だ。少年はそれを少しずつ口にするようになった。

 けれど東京壊滅のニュースが彼の脳裏を去ることはなかった。両親のことを考えない日は一日もなかった。例の悪夢も定期的に訪れた。それはまるで親密な影みたいに、常にあきらに寄り添っていた。それでも、彼はどこかで両親が生きていると信じていた。


  入学式の日がやってきた。9月4日のことだった。車で送るという由香梨の申し出を断り、少年は目的の場所まで歩いて行った。長い間外に出ていなかったので、歩くたびに躰中の関節がぎしぎしと鳴った。彼は巨大なロボットを操縦するアニメの主人公みたいに、自分の躰の動かし方を学びなおさなければならなかった。秋の朝の散歩は、少年にとってリハビリのようなものだった。けれどそれは決して不愉快なものではなかった。太陽は空をゆっくりとあたため、二羽の鳥がすばやく空を横切っていった。そうした朝の風景が心臓に新しい息吹を送ってくれるように、あきらには感じられた。



  ジャン・ルイが描いてくれた地図に従って10分ほど歩くと、インターナショナルスクールに辿り着いた。鉄柵に囲まれた小さな中庭があり、そこを突っ切ってゆくと白いペンキ塗りの校舎が見えてくる。マロニエの樹の影になっているせいか、それはぱっと見ただけでは見落としてしまいそうな目立たない建物だった。学校というより、どちらかというと会員制のティーサロンか何かのようだ。あきらは意を決して受付へと向かった。


 受付の自動扉は、もちろんマイクロチップなしで作動した。室内は外観から受ける印象よりも明るく広々としていて、モダンだった。天井はコンサートホールのように高く、壁は上品なアイボリーホワイトだった。清潔な朝のひかりが、大きな窓を通して部屋の隅々まで射し込んでいた。窓のそばには観葉植物の鉢が置いてあり、その隣に眼鏡をかけた小柄なフランス人の女性が座っていた。彼女はあきらと目が合うと微笑み、「アキラ・カタギリ?」と尋ねた。あきらは小さく頷いた。受付嬢は手元の書類とあきらの顔を見比べると、ついてくるようにと言い、少年を別室に通した。



 少年はそこで厳密な身体検査を受けた。一時間ほど経ったころ、やっと退室を許可された。彼の私物は返却されたが、マイクロチップのリモコンだけは没収され、小さなビニール袋に入れられ、秘書嬢の机の引き出しにしまわれた。部屋から出るとき、向こう側から誰かがやってくるのが見えた。それはあきらと同じくらいの年頃の、アジア人の少年だった。チェックのシャツにジーンズ、白いスニーカーという格好だった。彼の手足は野生のたんぽぽのようににゅるりと伸び、服からはみ出しそうだった。そのせいか、彼は無理に子どもの服を着せられている小さな大人のようにも見えた。暗い森のような髪の毛がつるりとした顔を覆っていて、そこには筆で描いたような細い目と存在感のない薄い鼻、そしてやや厚ぼったい唇があった。あきらは一瞬、日本人だろうかと思った。しかしその少年の瞳には、同じ民族の者と出逢ったときの高揚感や好奇心といったものが、少しも感じられなかった。ただ彼は、敵意はないということを示すように少し顎を引いてみせただけだった。あきらも同じようにした。




 教室に着くと、すでに十人ほどの生徒たちが座っていた。みな、彼と同じ年頃かもう少し年上のように見えた。様々な国籍の、様々な顔をした子どもたちが、難破船に乗り合わせた乗客みたいに所在なげに座っていた。そこには先ほどすれ違ったアジア人の少年もいた。彼は教室の一番後ろの目立たない場所にいて、何かの本を熱心に読んでいた。扉が開き、担当の教師が入ってきた。それは五十歳頃の男性だった。彼はフランス人にしては小柄な方で、肩幅が狭く、黒い麻のシャツにジーンズ、素足に革靴という服装だった。きれいに切りそろえられた銀髪が、ほほのこけた鋭い顔に淡い影を落としていた。髭のない肌に切りつけたような灰色の目があった。

「私はレオナルド・ゴティエだ。はじめまして」彼はにこりともせずに言った。
「君たちも知っての通り、フランスはマイクロチップ制度を二〇三三年に廃止している。従ってここにいる間、君たちのマイクロチップはまったく役に立たない。だがそれはバグではないので心配しないように」
彼は由香梨が少年にしたのと同じような説明を口にした。生徒たちはみな神妙な顔で頷いた。
「ちなみにマイクロチップを使っている国から来た者はいるか?」
生徒たちは顔を見合わせ、ためらいがちにそろそろと手を伸ばした。その場にいた全員が手を挙げた。
「そうか。もう手を下ろしていい」
教師は特に驚いた様子もなく言った。あきらは何故かすこしほっとして、周りの生徒たちを見た。彼は突然教室の中がほんのりと明るくなったように感じた。そこにいる一人ひとりの顔も、先ほどより少しだけ見慣れたものに思えてきた。
「本題に入ろう。君たちは私と一緒に一年間フランス語を勉強することになる。言葉の上達には、魔法のような方法はない。一日三十六時間(教師は『三十六時間』というところを特に強調して言った)、フランス語の本を読み、映画を観て、とにかく話すこと。もちろんクラスの休み時間中も。いいね?」
「はい」生徒たちは口々に返事をした。
「はい、先生 (Oui, monsieur.)」とあきらも慌てて返事をした。
フランスの学校では男性の先生のことは「monsieurムシュー」、女性の先生のことは「madameマダム」と言うのだと、花憐から教えられていたからだ。教師はちょっと嫌な顔をして首筋を掻き、声の主に素早く目を留めて言った。
「『先生』ってのは嫌いなんだ。君は日本から来たんだっけ、えーと、あきら?」
彼は目を細めて生徒の名簿を調べて言った。あきらは頷いた。
「私は日本に五年間住んでいたよ。あの国のことはよく知っている。君の国では、若い人たちは年長者を敬わなくちゃいけないんだろう?でもここではみんな平等だ。私のことをレオナルドと呼んでほしい。もちろん、敬語はなし。いいね?」
彼はあきらをじっと見た。その灰色の瞳は、小さな昆虫を観察する科学者のような光を帯びていた。あきらはなんとなくきまり悪く感じ、ただ頷いた。教師は口の端を吊り上げて笑い(たぶん笑ったのだろうと少年は思った)、またクラス全体に向かって話し始めた。

「これからみんなに自己紹介をしてもらう。でも、ただ当たり前に名前や国籍を述べるだけじゃつまらない。そこに自分の性格を表すようなジェスチャーを交えてほしいんだ。どんな動作でもいい。じゃあ、そこの君」

教師は最前列に座っていた少年を指さした。彼はてらてらと光る赤褐色の肌と、短く刈り込まれた黒い髪をしていた。小さくぽってりとしていて、愛想のいい小熊といった感じの少年だった。彼はおどおどした様子で立ち上がり、一家の大事な秘密でも打ち明けるようにそっと言った。

「こんにちは。ハングです。ベトナムから来ました。初めまして」
それは気の毒になるくらい小さな声だったが、フランス語の発音は正確だった。少年は手をこすり合わせながらしばらくもじもじしていたが、教師の視線と合うと、意を決したように指で作った架空のピストルをこめかみに突きつけ、自分に向かって発砲するジェスチャーをした。クラスメートたちは一瞬ぽかんとしていたが、やがてそれはくすくす笑いに変わっていった。教師はなぜそのような動作をしたのかとハングに尋ねた。


ハングはほとんど泣きそうになりながら、「僕、人前で話すのが苦手なんです。こんなこと早く終わらせたい、いっそのこと死んじゃいたいって思って、だから…」と言った。
教師は少年の肩を叩き、「ブラボー!」と叫んだ。ハングは涙に濡れた目で教師を見上げた。
「君は今日、いちばん苦手なことを行った。しかも、フランスという、君の母国から遠く離れた場所で。どうだい?死ぬほど辛いことを成し遂げた気持ちは。今でも怖いかい?」
教師は少年の目をじっと見つめながら訊いた。ハングは教師の言葉を噛みしめるようにしてちょっと考え、それから急いで首を振った。教師は微笑んだ。
「君は勇敢だった。ピストルのジェスチャー、なかなか良かったよ」
レオナルドは生徒の肩を叩いた。ハングはおっかなびっくり教師を見つめていたが、おずおずと席に戻っていった。
「はい、じゃあ次!」

こうして、生徒たちは次々とこの活動に加わった。イギリス人のクララはバレリーナのように優雅なピルエットを披露した。スコットランド人のエイドリアンは胸の前に架空のバグパイプを抱え、本当にそこに楽器があるみたいに器用に指を動かして見せた。それから教室の隅に座っていたアジア人の少年の番が訪れた。彼は立ち上がり、自分は宇轩ユシュエンという名の中国人だと名乗った。それから手を合わせ、深々とお辞儀をしてみせた。



 続いてあきらが呼ばれた。彼は名前と国籍を告げた後、幼少時に少しだけ学んだことのある少林寺拳法の型を披露した。それは躰の弱い少年を気遣う両親が、心身ともに健やかに育ってほしいとの願いを込めて習わせたものだった。幸いにして、一度染みついた型は時間が経っても細胞のどこかにしまいこまれていたらしい。彼の躰はきびきびと動き、美しく力強い動きを見せた。クラスから歓声が起こった。
「うちのクラスにはサムライがいるようだな。じゃあ、ゴジラが襲ってきたら彼に退治してもらおう」教師が言った。
クラス中が笑った。あきらも笑った。そして誰からともなく拍手をした。春の雨のような温かい拍手だった。その拍手の中で、あきらは自分を覆っていた硬い鱗のようなものが溶けてゆくような気がした。


 こうして学校生活が過ぎていった。あきらは熱心に勉強し、学校が終わると街を散歩して過ごした。秋の陽射しにきらめくローヌ河の湖畔を何時間歩いても飽きることがなかった。陽の光の下での長い散歩とフランスの食べ物によって、彼はだんだんと元気を取り戻していった。今では彼はよく日に焼けて、筋肉もつき、フランス到着当時より少し背が伸びていた。九月の新鮮な風は少しずつ悪夢を拭い去り、さらに遠くへ進むよう少年の背中を優しく押していた。

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