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Vol.12  僕はまっとうな人間になれない

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。もしよろしければ。↓

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでと、これからのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊


本編 Vol.12 僕はまっとうな人間になれない

  金曜日になった。アリスはすでに帰国しているはずだった。僕は念のため、前日にレッスン確認のメールを送っておいた。散々考えた末、以下のようなメールにした。

「アリスさん

こんばんは。おかえりなさい。
フランスはどうでしたか?
きっと、たくさん楽しい時間を過ごしたことでしょう。

明日のレッスン、だいじょうぶですか?
いつものとおり、16時におじゃましてもいいでしょうか?
お返事をまっています。

坂本」


 一晩待ってもアリスからのメールは来なかった。
いつもどおりの朝が来て、窓辺には心地よい秋の風が吹き込んでいた。鳥たちの声が新しい一日を祝福するようにほがらかに響いていた。台所からは味噌汁の匂いが漂い、葱を刻むリズミカルな包丁の音が聞こえてきた。それなのに僕は途方もなくうろたえていた。自分が透明人間になってしまって、そのことに誰も気が付いていないような気がした。世界は平和だった。絶望的なまでに平和だった。

 僕はノートパソコンを立ち上げ、メールボックスを再度チェックしてみたが、やはり彼女からのメールは届いていなかった。念のため携帯電話も見てみたが、そもそも彼女は僕の番号を知らないのだ。もしこれが他の人へのメールなら、忙しくて見ていなかったのかなとしか思わないだろう。けれど彼女の沈黙は僕にとってまったく違った意味を持っていた。それは心臓の凍るような沈黙だった。寝ている間に突然世界の果てに連れていかれ、置き去りにされたような。そこはすべての生物が死滅した世界で、気が遠くなるくらい真っ白い塵で覆われている。そして僕は誰にも気づかれないまま、虚無に躰を蝕まれていくのだ。それは理不尽で不当な仕打ちのように思われた。メールの返信が来ないくらいで大げさだな、と頭の片隅で思ったが、それは僕の精神状態に対してまったく効力を持たなかった。



 仕方なく顔を洗って歯を磨き、シャワーを浴びて髭を剃った。その辺に散らかっていたシャツとジーンズを身に着け、居間に降りた。台所には祖母がいて、朝食を用意しているところだった。彼女のぴんと伸ばした背筋とひっつめに結った髪にいつもの朝の気配が漂っていて、それはほんの少し僕を安心させた。
「おはようさん。朝食出来てるから」と祖母は台所の窓の方を向いたまま言った。
僕は口の中でもそもそと返事をした。
「何、何て?はっきり返事しなさいっ!」
祖母は威勢よく振り返ったが、僕の顔を見て一瞬黙った。僕は返事をするのも面倒だったので、そこにボウフラのように突っ立っていた。
「あんた、顔色悪いんじゃない?どっか具合でも悪いの?」と祖母が言った。
「別に、ちょっとよく眠れなかっただけ。ごめん、時間ないからもう大学に行くわ」と僕は答えた。
「ええ、もう?せめて味噌汁だけでも食べなさい。具沢山で躰にいいから」
「いや、もういいって。遅れちゃうから。行ってきます」
僕は無理やり祖母を振り切って出かけた。後から「弁当持っていきなさい!」という声が追いかけてきたが、返事をする気力もなかった。僕は逃げるように駅に向かった。


 祖母はいわゆるちゃきちゃきの江戸っ子というやつで、筋が通らないことが大嫌いなひとだ。基本的には彼女は僕の自由を認めてくれるのだが(というか半分あきらめているのかもしれない)、時々、何かの拍子に彼女の昔気質なところにコチンとぶち当たることがあった。そんな時、僕は全面降伏することにしている。祖母は怒ると口が悪くなるし、ものすごい剣幕でまくしたてるけれども腹の底はさっぱりしているので、こちらが大人しくハイハイと聴いていればものの十分ほどで機嫌が直る。わかりやすいひとなのだ。そのせいか、僕はいわゆる「反抗期」というものを通らずに来たように思う。

 彼女の存在はたぶん、僕がこれまで兎穴に落っこちずに済んだ理由のひとつだったと思う。この世界には説明できない闇のようなものが存在していることは、子どものころから漠然と感じていた。ぬめぬめとした暗がり。泥のような絶望。ふと気を抜いたら、どこまでも落ちて行ってしまう。兎穴はいつでもぽっかりと口を開けて僕を待っていた。けれども祖母はからから笑って闇を蹴散らしてくれた。

白は白で、黒は黒。
鳥は鳥で、魚は魚。
まっとうな人間は朝に味噌汁を食べて仕事に精を出す。
人さまの奥さんを好きになるのは悪い男のすること。

そういう風に言ってもらえたらどれだけ気が楽になるだろう。
そうだよね、時子さん、わかってるよ。


 授業が終わっても、アリスからのメールはなかった。なんだか馬鹿らしくなって、もうこのまま帰ってしまおうかとも思った。けれどもし、何かの間違いで彼女からのメールが届いていないのだとしたら?唇をとがらせて僕を非難するアリスの顔が浮かんだ。いや、それよりも悪いのは、彼女が怒って僕とのコンタクトを一切絶ってしまうことだった。それは考えられる中で最悪の事態だ。僕は罠にかけられたハツカネズミのように混乱していた。

 結局、アリスの家の最寄り駅で電車を降り、カフェで時間を潰すことにした。僕の通う大学はここから一駅のところにあるので、この付近をウロウロしていてもそれほど不自然ではあるまい。それに仕上げなければならないレポート課題もある。時刻は14時だった。まだ十分に時間がある。僕は駅前のカフェに入った。


 そこはとあるチェーン店のカフェで、大学の近くにも二、三軒の店舗があったように思う。僕は珈琲を注文した。客は僕のほかに二名しかいなかった。外回り営業風のくたびれたサラリーマンがひとり窓辺の席にいて、黄ばんだ新聞を読んでいた。もうひとりは上品な老婦人で、紺色のワンピースを着て翡翠色のイヤリングをしていた。彼女は珈琲の底に沈んだ砂糖をいつまでもくるくるとかき回していた。彼らは午後の陽射しの中で静物画のようにひっそりとしていた。まるで時間の中に閉じ込められてしまったみたいに。僕はその匿名的な空間でレポート課題に取り組んだ。そこにいると、僕は名前を失い、時間の中に溶けていくような気がした。そしてその感覚は奇妙な安らぎを与えてくれた。



 ふと時計を見ると時刻は15時50分だった。これはもうだめだろう。いっそさっぱりした気持ちで帰り支度をはじめると、机の上に置いておいた携帯電話が振動した。アリスからのメールだった。「OK」とただ一言、他には何も書いていなかった。僕はすこしほっとして、それからなんだか腹立たしくなってきた。
 「メールが遅くなってごめんなさい」のひとこともないのか。しかし、もしかしたら何か急ぎの用事で外出していてなかなか返事ができなかったのかもしれない。あるいは体調が悪くて長い文章が書けないのかもしれない。そう思うと、僕は自分がどうしようもない馬鹿者であるような気がした。返信をするのももどかしく、会計を済ませると飛ぶようにアリスの家に向かった。
 呼び鈴を押すと、インターフォン越しにアリスが応じた。彼女は渇いた声で、「入って」とフランス語で言った。僕はすこし戸惑ったが(レッスン以外で彼女がフランス語を使うことはこれまでになかった)、ともかくやっとアリスと会えると思い、例の長い坂道を登って行った。


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