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Chapter 2. Vol. 10 花憐の刻印


あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

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Chapter 1
プロローグ


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Chapter 2 Vol.9 再生


本編  Chapter 2. Vol. 10 花憐の刻印



 土曜日の朝、あきらは早く起きて庭で宿題をするようになった。部屋で勉強をすることもあったが、彼は庭にいる方が好きだった。部屋の机に、ベッドに、窓枠に、まるで目に見えない埃のように記憶の残骸が積もっていて、それが彼を落ち着かない気分にさせた。そこでじっとしていると、彼はどうしても両親のことを考えないわけにはいかなかった。東京壊滅の夜や、夢の中で処刑を告げる声が、彼の脳裏から去ることはなかった。けれど庭にいて勉強に集中していると、彼はそれらのことを忘れることが出来た。頭がすっきりとクリアになり、ただフランス語のさまざまな単語と純粋に向き合った。彼は自分の頭と心が躰がぴったりと同じ方向を向いて、静かにフランス語の森の中を歩いてゆくのを感じた。




 彼が好きだったのは、そこにいつも明確な文法のルールが存在するということだった。前置詞や冠詞や主語や動詞は、ただ漫然とそこに散らばっているわけではなく、いずれもきちんとした規則に従って配列されている。それはちょうど誰かが丁寧に書き上げた楽譜のようだった。少年は教科書に書かれている文字を時々そっと口にしてみた。日本語とはまったく異なる、複雑な音声体系から成るその言語は、明るく軽やかに響いた。まるでクリスマスの朝に聴くキャロルのように。少年はその美しい音を自分のものにしてみたいと思った。

 こうしてあきらは自分の心の中の絶望を手なずけていくことを学んだ。それはアルコール依存症の患者が、一日のあいだのほんのわずかな時間だけ明晰な意識を取り戻すのと似ていた。はじめは5分。次の日には10分。その翌日には30分というように、少年の心の中にぽっかりと明るい空白が訪れるようになった。ド・ラ・シャペル家の人々は、彼のそのような変化を喜んだ。食卓での会話も、以前のようにぎこちないものではなくなっていた。



 ある9月の土曜日の朝、あきらはいつものように庭に降りて行った。昨晩降った雨のせいで地面は濡れた落ち葉で覆われ、木製のテーブルやベンチの上にも、栞のように葉がぴたりと貼りついていた。少年は葉を払い、ベンチに腰かけた。ベンチは少し湿っていたが、座れないほどではない。空は静かに晴れ渡り、誰かが綿菓子をちぎって投げたような雲がそこかしこに浮かんでいた。空気はひんやりとして鏡のようにはりつめていた。時折すずめが鳴く声が聞こえるほか、何の物音もしなかった。庭は天空に浮かぶ宮殿のように静かだった。


 あきらは宿題に取りかかった。少年はその時、どうすれば綺麗な筆記体が書けるかということに苦心していて、落ち葉を踏みしめて進んでくる誰かの足音に気が付かなかった。ノートに落ちる人影が手元を暗くしているのに気づき、彼はやっと顔を上げた。そこには花憐が立っていた。彼女は逆光の中にいて、髪の毛や肌にひかりの粒が細い糸のようにまとわりついていた。

Salutサリュ」と彼女は言った。
Salutサリュ」とあきらも言った。

彼女の声はちょっと掠れていて、まだ夢の続きを引きずっているような感じだった。オフホワイトのTシャツにチェックのスカートとスニーカーという格好で、髪の毛には櫛が通っていなかった。彼女の栗色の髪の毛はそれ自体命を持っているみたいに、秋の陽光の中で気持ちよさそうに踊っていた。そのせいで、彼女はどことなく寝ぼけた天使のように見えた。

「座っていい?」と彼女はフランス語で尋ねた。
「どうぞ」とあきらもフランス語で応じた。

花憐はあきらの目の前のベンチに腰かけると、勢いよく伸びをした。その拍子にTシャツの裾からほんの少し肌が覗いた。躰の中にミルクでも流れているみたいに、白くみずみずしい肌だった。それは冬の朝にとつぜん射し込んできたひかりのような素敵な光景だった。あきらの目は吸い込まれるようにそこに向かった。けれど同時に、誰かの部屋に忍び込んで日記を盗み見しているような、落ち着かない気持ちになった。あきらは目線を無理やりノートの方に移し、宿題の続きにとりかかった。花憐は頬杖をつき、あきらが宿題をしている様子をおもしろそうに眺めていた。

「ねえ、学校は楽しい?」彼女は尋ねた。
「楽しいよ」あきらはノートから目を上げずに言い、ちょっと咳払いをした。それからそっけない返事に聞こえないよう、「色々な国の友だちも出来たしね」と付け加えた。
「そう。しばらく元気がなかったから、心配してたの。でも、楽しそうでよかった」と花憐が言った。
「うん」少年は相変わらずノートに目を落としたまま答えた。花憐は何かを言いたそうに唇を開きかけたが、少年の沈黙にぶつかってふたたび口を閉じた。それからまたためらいがちに口を開いて言った。

「ねえ、よかったら、宿題見てあげようか」
「ほんとう?」あきらはこの時、はじめて顔を上げて言った。
「もちろん」少女は善良な妖精みたいに笑った。それから「宿題が終わったら言ってね」と言って、テーブルの上に突っ伏してしまった。やがてかすかな寝息が聞こえてきた。よくこんな場所で眠れるものだなと、あきらは感心した。


 太陽はだんだん高くなってゆき、蜂蜜色のひかりが静かに秋の庭をあたためていた。彼らの頭上のマロニエの樹が、親切な友人のように木陰を提供してくれていた。彼の座っている場所から花憐の寝顔がよく見えた。彼女の鼻の上には小さなそばかすが点々とあった。その斑点は白い小さな顔に魅力的な模様を添えていた。時折、風が吹いて彼女の髪の毛を揺らし、かたちのいい耳を露わにした。それは生まれたばかりの貝殻のように淡い桃色をしていた。耳たぶは薄くて小さく、見るからになめらかそうだった。あきらはふと、手を伸ばしてその耳に触りたいという思いに駆られた。なぜそのような衝動に駆られたのか、彼自身にもわからなかった。ただ、その綺麗な耳の輪郭を指でなぞり、やわらかな皮膚の下にある硬い骨を触り、耳たぶを優しく引っ張ってみたいと思った。その思いはこの世でただひとつの真実みたいに、頭にこびりついて離れなかった。あきらは喉の奥が焦げつくような、ほとんど泣きたいような気持になった。けれど彼はそうしなかった。少年は深呼吸し、また宿題に戻った。



 30分ほどして、あきらは宿題を終えた。少年がペンを机の上に置くかたんという音で、彼女は目を覚ました。花憐はゆっくりと上半身を起こし、まぶたをこすった。それから雨に濡れた犬がよくするみたいに頭を振り、小さなあくびをした。あきらは少女にノートを手渡した。
「どれどれ…。完璧!すごいじゃない、あきら」
花憐はノートに目を通して言った。そこには筆記体で書かれた文字が、行儀よくきちんと並んでいた。彼女はそれを見て満足したようだった。
「いいでしょう。じゃ、次はおやつの時間ね!家まで競争よ!」
花憐は立ち上がると、家の方へ向かって駆け出した。あきらは何が起こったのかよくわからなかった。それから急いで立ち上がり、少女の後を追った。けれど彼女は思いのほか足が速く、もうすでに黒い小さな点になって少年の視界から消えようとしていた。彼はしばらく走ったけれど、やがて追いかけるのをあきらめた。



 しばらくすると、マロニエの樹の下に花憐の姿がふたたび現れた。レモンタルトとティーポット、それに二組のティーカップの乗ったプラスティックのトレーを手にしている。彼女はまだ少し息を切らしながら言った。

「あきらったら!女の子に負けるなんて、恥ずかしくないの?」
「さっきのは反則だよ!僕だって、その気になればけっこう速いんだよ」あきらは反論した。
「言い訳は見苦しいわよ」少女はぴしゃりと言った。
そして彼女は熟練したウエイトレスのように、お菓子やティーカップをテーブルの上に手際よく並べていった。
「これはママからの差し入れ。勉強がんばって、だって」
彼女はまたあきらの目の前の席に座り、彼のティーカップに紅茶を注いでやった。香ばしい茶葉の匂いが湯気の中でふわりと踊った。彼女は大きな瞳であきらを見つめながら尋ねた。

「ねえ、さっき『色々な国の友だちが出来た』って言ったでしょう?」
「うん」
「じゃあ、その中に可愛い女の子はいた?」
不意を突かれてあきらは赤くなった。喉の奥に紙でも貼りついているみたいに、彼はうまく話すことが出来なくなってしまった。
「図星なのね。恥ずかしがらないで言いなさいよ!」彼女はあきらの腕に手をかけ、軽く揺すった。
少年は花憐の手をはねのけようとしてバランスを失い、とっさにテーブルの端につかまった。その拍子にティーカップをひっくり返してしまった。それは熱い液体を跳ね上げながら草の上に落ち、花憐のTシャツを汚した。

 「Oh, mon dieuいやだ、どうしよう ! 」

茶色の染みは彼女のTシャツの上にユーラシア大陸のようなかたちを描きながらみるみる広がっていった。それと同時に、彼女の首元も赤くなっていった。透き通るような肌の上で、火傷の痕は気の毒になるくらいはっきりと目についた。花憐の目元も蜂に刺されたように赤くなり、白眼の端に涙が浮かんできた。

「ごめん、ほんとうにごめん」

あきらは心をこめて謝った。彼が持てるだけのありったけの誠意をかき集めて。けれど少年は、花憐の濡れたTシャツの下にある、固くくっきりとしたふくらみに目を奪われてもいた。彼は自分の意志と関係なく、目が何度もそこへ舞い戻ってゆくのを感じ、きまりが悪くなった。彼はようやくそこから目を引きはがすようにして、「どこかこの辺りに水が使える場所はない?」と尋ねた。

 庭から家に戻るには雑木林のあるエリアを通らなければならず、少なく見積もっても20分はかかる。その間に彼女の火傷の状態が悪化するのではないかと思うと、あきらは気が気でなかった。花憐は庭の隅にガレージがあり、そこに洗車用の小さなスペースがあると説明した。蛇口とホースがあり、そこでなら肌を冷やし服を洗うことが出来るだろうと。
「よし、じゃあ行こう!」
少年は花憐の手を引っ張って駆け出した。木の実をついばんでいた鳥たちが羽ばたき、散り散りに飛び立っていった。



 ガレージは彼らのいた場所から5分ほどのところにあった。それは白いペンキで塗装された木造の小屋で、車がやっと一台収まるくらいのスペースしかなかった。ペンキはところどころ剝げており、風雨にさらされて痛んだ木肌が覗いていた。いつも駐車されているはずの車はそこになく(おそらく由香梨が買い物に使っているのだろう)、その何もない空間に、ささやかなスポットライトのように木漏れ日が降り注いでいた。車を停めるスペースの脇には蛇口が設置されていた。花憐はとぐろを巻いた蛇のような格好のホースを地面から拾い上げ、蛇口に取り付けた。そしてあきらに蛇口をひねるようにと言った。少年が言われた通りにすると、ホースは少しずつ水を押し出していき、泥水が地面にちょろちょろと流れ出した。花憐はホースから不純物が流れてゆくのをじっと見守っていた。そして水が綺麗になったのを確認すると、スニーカーを脱ぎ、ホースを少年に渡した。彼は一瞬ぽかんとした。

「誰のせいで火傷したと思ってるの?」花憐はいらだたしげに言った。
あきらは少女からホースを受け取り、途方に暮れたように言った。
「ほんとうに僕がやっても大丈夫?」
「もう、大丈夫だってば。肌がひりひりして痛いんだから、さっさと始めてよ。それとも今日のことママに言いつけようかしら?」




花憐は挑戦的な目であきらを睨んだ。そこで少年は仕方なくホースを持って彼女に近づき、水を彼女の躰にかけていった。細い水流が首筋から胸元へと流れ出してゆく。花憐は濡れないように片手で髪を持ち上げ、じっとされるままになっていた。しばらくは春の小川のように静かに水が流れていた。やがて水は独自のリズムを持ち始めたみたいに、急に勢いが強くなった。あきらは元気いっぱいの大型犬に引きずられるあわれな飼い主のように、ホースを制御しようとしたがうまくいかなかった。花憐は楽しそうな声を上げ、水を浴びていた。胸元から水が滴り落ち、Tシャツが躰に纏わりつく。彼女はブラジャーをしていなかったので、乳房のかたちがはっきりと見えた。それはかたちのよいふたつの梨のようだった。甘くずっしりした蜜を秘め、だんだんと熟してゆく森の中の果実のような。蜜を求める虫のように、あきらの目はそこに惹きつけられた。けれどそれは何かよくないことだという気がして、強引に目をそらした。その拍子に少年は手の中のホースをあらぬ方向に振り回してしまった。水はきまぐれな龍のようにしぶきを上げながらガレージに飛び散った。

「もう、何やってんのよ!」
花憐は仁王立ちになって叫んだ。
「ごめん、だって…」あきらは泣きそうになりながら弱々しい声で反論した。
「だって何よ」
「その、君は女の子でしょう。見せたくないものもあるんじゃないかと思って」
「見せたくないものって何よ」
花憐は威勢よく叫んだ後で、少年の視線がちろちろと自分の胸元に注がれているのを感じた。彼女は笑い出した。
「いやあね、そんなことわたし気にしてないわよ。あきらになら見られても構わないわ」
花憐は夏の朝のひまわりのように晴れ晴れとした顔をしていた。どうやらほんとうにそう思っているようだった。
「だって、あきらのこと、男の子だと思ってないもの。色だって生白いし、わたしよりも背が低いし」
花憐は無邪気に言い放った。あきらはいきなり心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。花憐に対して騎士ナイトのように振る舞おうとした自分が、なんだかとてつもなく滑稽に思えた。少女はしゃなりしゃなりとガレージの中を歩き回った。仕留めた獲物にどれくらいのダメージを与えたかを確認する高慢な猫のように。




「ねえ、わたしにキスできたら男の子だって認めてあげる」

彼女はふいに言った。あきらは熱い鉄の塊を押しつけられたみたいに身を固くし、おずおずと少女を見上げた。彼女の目には確信に満ちた冷たいひかりが宿っていた。そこに描かれたメッセージを、あきらははっきりと読み解くことが出来た。

やれるものならやってみなさいよ。どうせそんな勇気はないんでしょう。


 あきらは腹が燃えるように感じた。それは胸の方に上ってゆき、炎の塊となって喉の奥をしめつけた。彼は無我夢中で花憐の手を掴み、ガレージの壁に荒々しく押しつけた。自分の躰の中のどこにこんな力があるのだろうと彼は不思議に思った。衝動的に動いたものの、あきらは次の一歩をどう踏み出せばいいかわからなかった。彼は氷の壁に閉じ込められたマンモスのように混乱していた。すると花憐が小さな声で、目を閉じるようにと言った。そして冷たい手であきらのほほに触れた。次の瞬間、あきらは小さな唇が重ねられるのを感じた。それは謎めいた生き物のようにやわらかく、ほんの少し濡れていた。

 それは一瞬の出来事だった。目を開けると花憐の顔がすぐ近くにあり、大きな潤んだ瞳で少年を見つめていた。秘密の儀式を伝え終えた賢い魔女のように、どこか誇らしげな表情が彼女の顔に漂っていた。少女はあきらからゆっくり躰を離すと、彼に背を向けて濡れた衣服を絞った。盛大な音を立てて水が床に流れ落ちた。彼女の脚のあいだから雫が滴り落ちてゆく。やわらかいカーブを描いたふくらはぎが、白くはりつめてひかっている。それから彼女は素早く髪の毛を整えると、何事もなかったかのようにガレージから出ていった。淡いひかりの中に彼女の姿が吸い込まれていった。あきらはしばらくのあいだガレージに立ちすくんでいた。



 彼は突然異次元の中に投げ出されたような気がした。ガレージの中には水の匂いがした。彼の頬には水滴がついていて、肩には彼女のやわらかい躰の重みが残っていた。彼女の残したそれらの余韻は、あきらの全身に静かに吸い込まれていった。
 それから彼はガレージを出て、夢遊病者のような足取りで庭へと戻った。テーブルの上にはプラスティックのトレーとティーポットが置いてあり、ティーカップとレモンタルトが無残に地面の上に投げ出されていた。それらの物体は時のない空間に投げ込まれたみたいに微動だにしなかった。「諍いの後」という題で描かれた静物画のように。レモンタルトの上に群がる蟻たちだけが、生命の象徴みたいに活発に動き回っていた。幸い、ティーカップは草の上に落ちたので割れてはいなかった。彼は花模様の白いカップを拾い上げ、トレーに乗せた。彼はこれらの動作をのろのろと行った。そして食器を元通りトレーに乗せて家へ戻った。


 その日から、彼の夢は毎晩ふしだらな落書きで汚されていった。少年ははじめて夢精というものを体験した。足の間の肉塊はぐんぐんと大きく、硬くなってゆき、独自の運命を辿りながら進化を遂げていった。まるで凶暴で邪悪な蛇みたいに。少年にはそれをどうすることも出来なかった。夢から覚めると、胸の奥が灼けるような感覚を覚えた。喉がしめつけられ、腹の底がとても熱かった。熱は甘いうずきを伴って、心臓の動きに合わせて脈打っていた。少年の唇には花憐の唇の感覚が残っていた。それは甘くしっとりと押しつけられた刻印のように、いつになっても消えなかった。



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