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Chapter 2. Vol.7 処刑の時間

はじめに


この作品は、フランス語学校に通っていた際の課題として提出した小説に加筆修正を加えたものです。
(詳しくはこちらの記事をどうぞ。→ノートに書かれた言葉は消えない。)

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
Vol.2 答えのない問い
Vol.3 春の嵐
Vol.4 あきらとバゲット
Vol.5 原始の楽園
Vol.6 この世界は二度と元に戻らない


本編 Chapter 2. Vol.7 処刑の時間


  空は燃えていた。獣のようなかたちの赤い雲が牙を向いて空を駆けていた。ときおり激しい風が吹いた。地上にある何もかもを吹き飛ばそうとするような、暗く激しい風だ。ごつごつとした地面は火山灰で覆われ、まだ乾き切っていない絵具に白い粉をまぶしたような、奇妙な模様を描いていた。東の方に山が見えた。山は剣のように鋭い峰を空に突き立てており、その姿がくっきりとした黒い影を地面に落としていた。そのせいで辺り一帯は闇の支配下にあるみたいに、どこもかしこも暗かった。

 あきらはその世界をはだしで歩いていた。地面は幾層もの地層から出来ていて、そのそれぞれの層の中に乾いた木の枝や小動物の骨や昆虫の死骸が折り重なり閉じ込められていた。そしてその一番上の層にうっすらと火山灰が積もっていた。そのような時間の重みは、頑なまでに硬い地表を通して少年のはだしの足に伝わってきた。ときおり、小石が彼の足の裏を刺した。そのたびに彼は足の裏をさすって血が出ていないか点検しなければならなかった。何も異変がないことを確認すると、彼はふたたび歩き出した。少年は足の裏に地熱のぬくもりを感じながら黙々と歩いた。




 一定の間隔を置いて風が吹き荒れた。風は激しく彼の全身を打った。髪の毛や衣服はあっという間に砂埃で真っ白になり、目や口の中に砂やら小さな虫やらが飛び込んできた。彼は自分の顔を手でかばったが、その小さな手は吹き付ける風に対してまったく無力だった。風はくさびで埋め込もうとするみたいに、砂の中に少年の躰を激しく叩きつけた。石礫いしつぶては彼に対して恨みでもあるように、執拗に襲い掛かってきた。少年はそこに留まり、砂嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。やがて風がおさまると、彼はふたたび歩き出した。

 そうしてどれくらい歩いただろう。気がつくと少年は山の麓にたどり着いていた。辺り一面霧に包まれていて、空気からは湿った草の匂いがかすかにした。山はひかりのない空を背に黒々と屹立し、まるで虚空に浮かぶ城みたいに見えた。山はあまり友好的とは言えない表情で彼を見下ろしていた。それは錆びた鉄格子に囲まれた部屋を少年に連想させた。赤錆だらけの鉄格子は頑丈な重たい鍵で施錠されていて、そこから逃げ出すことは出来ない。その部屋は外部から徹底的に隔離され、少年は誰かから注意深く監視されている。部屋には黴臭い冷ややかな空気が漂っていて、胸の奥が締め付けられるような寒気を感じる。その部屋は少年の死を待っているように見える。誰からも看取られず、最期の言葉もなく、その躰から魂の火が消えるのを、ただ辛抱強く見守っているのだ。少年が山から感じ取ったのは、そのような種類の脅威だった。彼は思わず後ずさりした。


 その時、彼の足元で何かがからりと音を立てた。それはどうやら小石か何かのようだった。その小さな物体は乾いた音を立ててどこかの穴に落下し、あちこちにぶつかりながらかすかなこだまを響かせた。やがてその音は闇に吸い込まれて聞こえなくなった。音が完全に消えてしまうと、辺りは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。霧に視界を遮られて少年には知覚できなかったが、どうやら山の麓には深い谷底が口を開けているようだった。少年はあと一歩後ろに下がっていたらと思うとぞっとした。躰の中を特急列車が駆け抜けてゆくみたいに、心臓がものすごい音で鳴っていた。指先は氷のように冷たく、痺れていた。彼は深呼吸をし、気分が落ち着くのを待った。それから心臓の音が小さくなったのを確認すると、地面に腹這いになった。彼は谷底に続く穴がどこから始まっているのかを手探りで確かめようとした。彼の指はしばらくの間、硬い地面の上をまさぐっていたが、ある地点まで来ると指が宙に浮くような感覚があった。少年はその場所でゆっくりと慎重に手を動かした。そこにはあのごつごつとした地面の感触はなく、ただ虚空だけがあった。彼はもっとよく調べてみようと思い、立ち上がろうとした。すると少年の躰はバランスを失い、虚無の中へ落ち込んでいった。



 どのくらいの時間が経過したのだろう。気が付くと少年は硬い地面の上に身を横たえていた。辺りは暗く、先ほどの山の麓の空気よりも重い、密度の濃いずっしりとした闇が彼のまわりを取り囲んでいた。彼はゆっくりと上体を起こした。鈍器で殴られたように頭が痛み、口の中に鉄の味がした。僕はたぶん谷底に着地できたみたいだと少年は思った。けれどどのくらいの深さまで落下したのか、彼には見当もつかなかった。生きていられることが不思議なくらいかもしれない。頭を少し打ったようだけど、大丈夫かな。後頭部に触れてみると、ぬるりとした液体の感触が指先にあった。彼は指先に鼻を近づけて匂いを嗅ぎ(もちろん血の匂いがした)、それからシャツで指を拭った。幸い、傷はそんなに大したものではないようだった。それから彼は首をぐるりと回してみた。軽いめまいを感じたが、動きそのものに支障はないようだった。少年は手を広げたり閉じたりし、指が動くかどうかを丹念に確認した。問題ない。地面の上に座り直し、服の上から指で肋骨のかたちをなぞった。どうやらどこの骨も折れていないようだった。そうしてすべての身体器官の場所を点検し終わると、彼はようやく安心して立ち上がった。


 その時、かすかな地鳴りの音を聞いたように少年は思った。それは音というより、地面を伝ってやってくるかすかな振動だった。全身の神経を集中していないと知覚できないような、とても小さな波動だ。団結して地面を掘り進むもぐらたちの立てる音のように、それは一定のリズムを持って常に地底から響いてきた。初めは遠くの方から、やがてだんだんと少年のいる場所まで迫ってきた。どうやら何らかの生き物たちの集団らしいということが、遠くから見て取れた。土埃を舞い上がらせながら、意志を持たない巨大な蚯蚓みみずのように、それらはうごめきながらあきらの方へ近づいてくる。少年はとっさに岩陰に身を隠した。その不思議な生き物の集団はあきらのいる場所を通り過ぎ、谷底のさらに深い場所へと移動していった。彼は一瞬ためらったが、心を決めて彼らの後を追うことにした。


 一群は谷を降りて行った。あきらは彼らから一定の距離を保ち、音を立てないように注意しながら後を付けた。辺りはほとんど真っ暗だったが、彼らの躰から漂う臭気のせいで、その姿を見失うことはなかった。それは腐った肉をワインに浸けて何年間も寝かせたような、奇妙に澱んだ臭いだった。

 やがて全員が谷底に達すると、彼らはぴたりと動かなくなった。彼らは死んだように口をつぐみ、身動きひとつしなくなった。沈黙が訪れた。その沈黙はとても深く、谷底の闇の色がまたさらに濃くなったようだった。けれど時間が経つにつれ、あきらの目はだんだんと暗がりに慣れていき、彼らの輪郭をおぼろげながら知覚できるようになっていった。その一群がどうやら人間の姿をした生き物たちから成り立っているらしいことが少年にはわかってきた。彼らはみな、麻布を巻きつけて紐で縛っただけの簡素な身なりをしていた。彼らは二本足で立って歩くことも出来たが、集団で移動する際には四つん這いで地を這った(おそらくその方がスピードが出せるのだろうとあきらは推測した)。ときおりアナグマのようなうめき声を上げた。そして何より、彼らの身体機能はどこかしら正常の様相を欠いているように見受けられた。最後列にいた女性(らしき姿をしたもの)の眼は左右ばらばらな方向を向いて顔からはみ出しそうだったし、その脚は躰の重みに耐えかねるようにぐにゃりと外側に湾曲していた。ドイツとポーランドの国境にある、「クシヴィ・ラス」(曲がった森)の木のように。その姿は隣人の新井のことを少年に思い出させた。
 また別の老人らしき人物は ―人物と言っていいのかあきらにはわからなかったが― 耳の部分が巻貝のかたちをしていた。いや、形状だけではなく、それは巻貝そのものだった。本来耳のあるべき場所に巻貝がぴったりと張りついている。しかもそれは何十年も前からそこにあって、老人の躰の一部としてしっかり機能を果たしているように見えた。ほんのりと淡い白い貝に、絵筆で引いたようなこげ茶色のラインがところどころに入っている。老人の皺だらけの顔の中で、その巻貝だけがいやに生き生きと新鮮に見えた。人間のようであって人間ではないもの ―  あきらにはそのようにしか彼らのことを形容できなかった。




 どこかで突然チャイムが鳴った。それはあきらの小学校で流れていた、休み時間終了を告げるチャイムの音にそっくりだった。その牧歌的な鐘の音は谷底にのんびりと響き渡った。そして場違いなまでに明るい余韻を残して、ひそやかに消えていった。それから耳障りなハウリング音が聞こえたかと思うと、男性の声が聞こえてきた(一体どこにスピーカーがあるのだろうと少年は思った)。

「えー、静粛に。みなさん、静粛にお願いします」とその声は言った。
低く温かみのある声だった。発音は明瞭でなめらかだった。その声には心地よい響きがあった。まるでビロード張りの椅子に深々と腰を落ち着けた時のような。あきらはその声をどこかで聞いたことがあるような気がしたが、思い出せなかった。
 その場にいる全員がその声に意識を集中させていた。緊張した意識の集合体が矢のようにきりりと尖っていて、次のメッセージを待ち構えていた。

「みなさんも知っての通り、いよいよ処刑の時間が迫ってまいりました」と声の主は続けた。
ごくりと唾をのむ音が、少年の耳に聞こえたような気がした。
「この名誉ある美しい瞬間が、ついに実現するのです。このことはみなさんのご協力なしには成し得なかったということを、今一度申し上げておきます。本当にありがとう。どうか、みなさん、自分たちのことを誇りに思ってほしい」
ほうぼうで拍手が上がった。それは温かく静かな雨のように、谷底を包み込んだ。どこかで啜り泣きの声も聞こえてきた。拍手がおさまると、声は穏やかに続けた。
「では、栄えある最初の一人に出てきてもらいましょう。シリアルナンバーYH.198420390505。早見悠斗はやみゆうと君。どうぞ」
聴衆の方に向けて明るいオレンジ色のライトが当てられた。目もくらみそうなほどのまばゆいひかりだった。あきらは思わず目をつぶった。今までずっと暗い場所にいたので、ひかりという概念を眼が受け付けなくなってしまったみたいだった。少年の眼から涙が溢れてきたが、それはもちろん感動の涙ではなかった。彼がやっとのことで目を開けると、ある少年の姿が煌々と照らし出していた。それはあきらの学校のクラスメートの早見悠斗だった。




 早見悠斗は濃紺の制服に身を包み、まっすぐに背筋を伸ばして立っていた。胸元には紋章の入った金色のバッジを付けていた。その鮮やかな出で立ちは、他の人々の粗末な服装とはまったく様相が違っていた。彼は群れから出て、中央の広場らしき場所に向かって歩いて行った。周囲から大きな拍手と歓声が聞こえてきた。彼は照れくさそうにちょっと手を上げて聴衆に答えた。彼の手にライトのひかりが反射し、何かがきらりと輝いた。彼の手の甲は青光りする鱗でびっしりと覆われていた。先ほどは制服の襟元に隠れていて見えなかったが、よく見ると彼の首筋も同じようにぬらぬらと光っていた。それは海から上がった魚がほんのちょっと人間の真似をしてみました、というようにいたずらっぽいひかりを放っていた。あきらのいる場所からも、それはよく見えた。しかしあきらの周囲の人々は彼の手や首筋には特に興味を示さなかった。早見悠斗自身も、彼の躰の特異性についてはどうとも思っていない様子だった。彼は広場の真ん中で立ち止まると、まっすぐ正面を向いた。唇はぎゅっと結ばれ、丸みを帯びた頬が林檎のように火照っている。瞳は内側からあふれ出る静かな喜びで輝いていた。

「では早見君。まずは第一号ということで、おめでとう。何かひとこと、もらえるかな」
相変わらず見えない場所にあるスピーカーから声が言った。
早見悠斗は咳払いをし、周りを見渡した。周囲の人々は温かく微笑みながら少年を見つめていた。
「えーと、このような名誉ある場に最初に呼んでもらえたことを、とても光栄に思います。ぼくは、みんなに恥ずかしくないような、立派な死に方ができるようにがんばります」
大きな拍手が起こった。早見悠斗は恭しく頭を下げると、回れ右をして広場から去った。そして少し離れた暗がりに向かった。迷いのない、自信に満ちた足取りで。人々は固唾を飲んで早見悠斗の行く先を見守っていた。しばらくすると、銃声が聞こえた。一発目、それから続いて二発目。空気を切り裂くような鋭い音と、地の底に響く衝撃。それから静かに火薬の匂いが漂ってきた。人々は「アポカリプス、バンザイ!」と声をそろえて叫んだ。その叫び声は空気を振動させ、こだまとなって谷間に響き渡った。こだまは何か大切なメッセージを伝える妖精のようにしばらくそこらを飛び交っていたが、やがてそれも止んでしまった。谷底は再び沈黙に包まれた。

 しばらくすると、二度目のチャイムが鳴った。先ほどとまったく同じ音階の、同じようにのんきな響きを含んだ音だった。けれどその平和な響きが、意図的に何かを隠しているようにあきらには思われた。戸棚に飾られたフランス人形が、人々の寝静まるのを待って夜中に動き出すように。ほどなくしてやはり先ほどと同じように、スピーカーから声が聞こえてきた。
 
「シリアルナンバーAK.198420380219、片桐あきら君。片桐あきら君。前に進み出てください」

少年は目の前が突然暗くなるのを感じた。あきらは何がなんだかわからなくなった。どうして彼らは僕がここにいることを知っているのだろう。なぜシリアルナンバーまで認識しているのだろう。そしてなぜこの僕が処刑されなくちゃいけないのだろう。あきらはとっさに左手の甲を右手でかばった。それは彼がほとんど無意識に取った行動だった。そこに埋め込まれているはずのマイクロチップは、彼のなめらかな皮膚の下でまどろんでいるらしく、残念ながら何の救済策も提供してくれなかった。

「シリアルナンバーAK.198420380219、片桐あきら君。片桐あきら君。直ちに集合場所まで来なさい」

声がふたたび聞こえてきた。それは先ほどのソフトで優美な声に、ほんの少し苛立ちをにじませたような声に変わっていた。それはあきらがこれまで属していた世界と、彼がもう存在しないだろう世界とを真っ二つに割ろうと宣告しているみたいに響いた。少年の心臓は狂ったように打ち、太鼓のような音を立てていた。ひどい耳鳴りがして、腹がぐるぐると鳴った。まるで気味悪い虫が大腸の中で蠢いているみたいに。声は同じ内容を執拗に繰り返した。それはやがて人々の声を伴い、大合唱になった。

シリアルナンバーAK.198420380219、片桐あきら君。片桐あきら君。処刑の時間が迫っています。直ちに姿を現しなさい

それは少年の人生における重要なライトモチーフであるかのように、ほとんど神々しいまでの重厚さで繰り返された。人々はそれを呪詛のように繰り返しながら、誰からともなく群れを離れ、片桐あきらを探して歩き始めた。頭のない巨大な一匹の獣のように。彼らは個々人の意志というものを持たず、強烈な集合意識に突き動かされてひとつの魂として動いているようだった。あきらは息をひそめて彼らの動向を見守っていた。少しでも音を立てればおしまいだ。彼らの臭気や息遣いを、少年は自分のすぐ近くに感じた。洋服の衣擦れの音さえ聞こえてきた。それはさやさやと音を立てながら、また風の中に消えていった。あきらは肺に溜まった空気をそっと吐き出した。




 その時、誰かがあきらの腕を掴んだ。それは巻貝の耳を持つ老人だった。老人はその枯れ枝のような指からは想像もできない強い力であきらの腕をしっかりと掴み、ねじ切らんばかりに絞り上げた。少年はうめき声を上げた。彼は指一本動かすことができなかった。額にあぶら汗がにじんだ。老人はもう片方の手であきらの頭を抱え込み、地面に押さえつけた。少年は膝をつき、犬のように這いつくばるしかなかった。老人は落ち窪んだ目で、じっと少年を見下ろしていた。それは冷え冷えとした、暗い井戸のような目だった。老人が少年を広場に連行しようとした時、誰かが谷底で叫んだ。

「待ってください!」

人々は一斉に声の方を見た。それはあきらには聞き覚えのある、懐かしい声だった。分厚い雲のすきまから覗く冬の朝のひかりのように。少年は両親の姿を群れの中に認めた。正人と江梨子は、ゆっくりと列の前方に進み出た。手と手を固く握りあって、まるで祭壇に向かう新郎新婦のように。彼らもまた、他の人々と同様に粗末な衣服に身を包んでいた。けれど一見したところ、彼らの躰には異変らしきものは見当たらなかった。何かを囁き交わす声が、谷間のあちこちから聞こえてきた。正人は列の先頭に辿り着くと、胸の前に手を当て頭を垂れた。江梨子もそれに倣った。一同は彼らの一挙手一投足を見守っていた。
「片桐あきらは、私どもの息子です」正人は澄んだよく通る声で叫んだ。「ですが、息子は亡くなりました」
声が谷間に響き渡った。人々のどよめきが大きくなった。谷間は蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。
「静粛に!」
拡張器から声が叫んだ。耳障りなハウリング音が響き渡った。それからかすかな咳払いの音が聞こえ、例の男性の声が続けて言った。
「片桐あきら君は亡くなったというのですね。あなた方はそれを証明できるのですか」
正人はきっぱりと頷いた。そしてどこからか一枚の紙切れを取り出した。彼は細い指で注意深くそれを広げると、声の主がいるであろう辺りの虚空に向かって見せた。紙切れには以下のように記されていた。


片桐あきら シリアルナンバーAK.198420380219 
父 片桐正人、母 片桐江梨子        
2038年2月19日東京都 **区にて出生
2041年4月8日   光幼稚園 入園(3歳)
2044年3月20日 同幼稚園 卒園(6歳)
2044年4月4日   都立青葉小学校 入学(6歳)
2051年2月15日 フランスへ亡命(12歳)。以後、消息不明。


スピーカーの向こうに、何かを慮るような厳かな沈黙が感じられた。くっきりと固い沈黙だ。それからやがて声は言った。
「『消息不明』と『死亡』とはまったく違うことですよ、片桐さん。でも、いいでしょう。どのみち片桐あきら君はここにいないということはわかりました。では、その穴を埋めなければなりません。この世界の法則では、空虚は必ず満たされなければならないからです」
声は重々しく響いた。谷底は静まり返った。
三度目のチャイムが鳴った。それを合図に、人々は一人ずつ隊列から離れ、正人と江梨子の方へじりじりと押し迫っていった。幾千もののっぺりとした顔が二人を取り囲んだ。江梨子は顔を上げ、谷底から息子に向かって叫んだ。

「あきら、西へ!西へ逃げなさい!早く!」
母親の声に弾かれるように、少年は一目散に駆け出した。彼は狂ったように疾走した。紅蓮の夕陽は彼を追いかけるように鮮やかに燃え上がり、彼の影はますます長くなっていった。あきらは懸命に走ったが、その一歩一歩は水の中で掻くようにどんどん鈍く、重たくなっていった。




 彼は走り続けた。走って、走って、ただ何も考えずに走った。けれど足がもつれて、彼はついに転がるように地面に身を投げ出した。しばらくの間、耳の奥で鳴るきいんという音と自分の激しい息遣いの他、何も聞こえなかった。彼は自分がどこにいるのかわからなかった。さやさやと揺れる草の匂いがし、蜂蜜色の太陽が彼の髪の毛をゆっくりと温めていた。少年はようやく上半身を起こして辺りを見回した。そこは高い樹々に囲まれた小さな森だった。森には木漏れ日が射し込み、腐った落ち葉の積み重なる奇妙に甘い匂いがした。少年は立ち上がり、ズボンに付着した土やら落ち葉やらを払い、歩き出した。しばらく行くと、ハリエニシダの茂みに守られるようにして、小さな井戸があった。ずいぶん長い間使われていないらしく、苔むした石の井戸は地中深く埋まっており、中には水が入っていなかった。少年は井戸の中を覗いてみた。そこはまるで時間が止まってしまったみたいに、気味が悪いほど静かだった。少年は迷わず井戸の中に飛び降りた。

 それから永遠とも思える時間が流れた。耳が痛くなるほどの深い闇の中で、少年は自分の意識が躰を離れていくのを感じた。彼は眠っているのか、死んでいるのか、そのふたつの区別が自分でもつかなかった。井戸の上空で太陽が西に沈んでいった。辺りは薄紫色の夕闇に包まれ、やがて本格的な夜がやってきた。空には月も星もなく、厚い雲で覆われていた。冷たく暗い空の下にゆっくりと灰が降ってきた。それは白い花のように踊りながら地上に落ちてきた。死者たちの魂を悼むレクイエムのように。


 二〇五一年六月二十日、東京はアポカリプスによって壊滅状態に追い込まれた。首都および近郊都市の主要行政機関ならびに交通機関は重症感染者ら(通称「バグ」)によって破壊され、復興の見通しは厳しい模様。被害者数は推定三六〇〇万人。東京近郊のみならず日本列島全域は深刻な被害を受け、混乱状態に陥っている。防衛省は引き続き国民に避難勧告を呼びかけている。         

(『東京デイリーニュース』の記事より抜粋)

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