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Chapter 2 Vol. 11  秋の冒険とブルーベリーとユーフォリア


『黄昏のアポカリプス』という小説を書いております。もしご興味がありましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ。


あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Chapter 1
プロローグ

前回から読まれる方は、こちらから。

Chapter 2 Vol.10  花憐の刻印

本編 Chapter 2 Vol. 11  秋の冒険とブルーベリーとユーフォリア


 それから一か月ほど過ぎた。花憐の様子はいつもとまったく変わらなかった。彼女にとって、あの日の出来事は井戸に投げ込まれた小石ほどのインパクトも持たないらしかった。あきらにとっては、時空がゆがんで異次元に放り込まれてしまったような出来事だった。彼は元の世界にもう二度と戻ってこられないような気がした。

 花憐の通う高校とあきらのインターナショナルスクールはほぼ同時に秋休みに入った。彼女は友人宅に招待されていると言って、アヌシーへ行ってしまった。花憐が去ってしまうと、彼はとてつもなく寂しくなった。火の消えた暖炉の前に座っているみたいに。

 少年はひとりの時間をあいかわらず庭で過ごした。マロニエの葉はいつのまにか色を変え、青い空を背にして黄金色に輝いていた。時折季節外れの蜂がやってきてアネモネの花に止まり、花粉にまみれた脚をばたつかせて去っていった。空はどこまでも青く、秋のまばゆいひかりはすべての光景を映画の中のワンシーンのように見せていた。琥珀の中に閉じ込められてしまった昆虫のように、少年はただ時間が過ぎてゆくのを眺めていた。



 ある土曜日のことだった。少年が庭から居間に戻ると、ジャン・ルイと由香梨が遅い朝食を食べていた。時刻は午前11時だった。レースのカーテンを通して窓辺から降り注ぐひかりが、テーブルの上にささやかな水玉模様を作り出していた。トーストの焼ける香ばしい匂いと挽いたばかりの珈琲豆の香りが、平和な秋の土曜日を象徴するようにキッチンに漂っていた。ふたりはあきらに気づいて「Bonjourボンジュール」と言った。あきらも同じようにあいさつした。由香梨はすぐに食事を用意するから座るようにとあきらに言った。そう言われて、少年は急に腹の虫が切ない音を立てて空腹を訴えているのに気が付いた。彼は食卓に加わった。



「どうだい、最近、学校は」とジャン・ルイが尋ねた。
「楽しいよ。今は秋休みだけど」と少年は答えた。
「そうか、もうそんな時期になるんだね。ということは、君が学校に通い出してからもう2か月近く経つのか」
ジャン・ルイの明るい水色の瞳は、日向でまどろむ猫を見つめるみたいに細められていた。少年は彼といると、いつもやわらかな薄い膜に包まれているような気持ちになった。その膜の中では、苛立ちや悲しみといったものが音もなく泡のように吸い込まれていった。まるで『紳士と仔猫』という題の絵の中に閉じ込められてしまったみたいに。
「あきら、お待たせ。さあ、どうぞ」
由香梨が焼きたてのトーストの乗った皿とココアのカップをあきらの座っている席に置いた。トーストには蜂蜜とバターがたっぷりかけられていて、シナモンの香りがほのかにした。
「花憐は今頃アヌシーね」
由香梨はフランス語に切り替えて言った(彼女はあきらとふたりでいる時には日本語で、そこにジャン・ルイがいる時にはフランス語で話した)。あきらは針で突かれたみたいに身を固くした。伯母は少年の様子には気づかず、のんびりとした調子で続けた。
「湖のある小さな街で、スイスとの国境沿いにあるの。とても素敵なところよ。あきらも一緒に行けばよかったのに」
「別に興味ない。呼ばれてもいないし」
あきらは声を振り絞るようにして言った。彼は自分の喉が突然石壁に押しつぶされてしまったような気がした。
「あら。あなた達、けんかでもしたの?」
「そんなんじゃないよ。ただ、僕だって忙しいんだ。やることも色々あるし」
少年は急いでココアを飲んだ。ココアは熱く、喉に絡みつくように甘く、彼はあやうくむせそうになった。
「そういえば、あきら。インターナショナルスクールでも何かイベントがあるそうだよ」
ジャン・ルイが会話に割って入った。
「この間、ミシェルと話をしていたら毎年秋休みの時期にハイキングを開催していると言っていたよ。ほら」



彼は折りたたまれた一枚の紙をポケットから取り出し、テーブルの上に広げて見せた。そこには山林をバックにした2人の少年と1人の少女の姿が写っていた。彼らはいずれも青い空が透けて見えそうなほど白い肌をしており、真っ白なTシャツにカーキ色の短パンという格好で、首元には揃いの赤いスカーフを行儀よく巻いている。彼らは輝く白い歯を口から覗かせ、歯磨き粉のコマーシャルのようににっこり微笑んでいた。パンフレットの上部には丸みを帯びたコミカルな赤い文字で、次のように書かれていた。

秋の冒険に出かけてみない?

紙面の下部にはハイキングの日付や申し込み方法、持ち物などといった細々とした情報が書かれており、そのさらに下の方に主催者であるミシェル・ルロワの顔写真が小さく載っていた。

 ミシェル・ルロワというのはインターナショナルスクールの校長を務めている人物である。あきらも一度だけ会ったことがある。年齢は六十代ぐらいだろうか。背が高く、大柄で、その堂々とした風采は長年風雨にさらされてきた樫の大木を思わせた。そして太くがっしりとした首の上に、森の中に置き忘れられた切り株みたいに小さな頭が乗っていた。眼鏡の奥の瞳は淡い水色で、冬の朝の湖のように澄んでいた。少年が校長と会ったのはただ一度きりのことだったが、彼は一目見てすぐにその人物を好きになった。



「『場所は金の山モン・ドール。当日朝9時にリヨン・ヴェーズ駅に集合。軽食や飲物を各自持参の上、動きやすい服装で来ること。インターナショナルスクールの生徒なら参加費は無料。参加希望の際には、前日までに以下のメールアドレスに連絡すること』ですって」
由香梨が読み上げた情報によると、ハイキングの日程は2日後だった。
「どうする?もし参加したいなら、私の方からミシェルに連絡しておこうか」とジャン・ルイが言った。
「大丈夫。まだ行くかどうか決めてないし。もし行くとしたら自分でメールするよ」とあきらは答えた。
 少年はトーストを食べながら、参加してみるのも悪くないかもしれないと考え始めていた。彼は新鮮な森の空気を胸いっぱいに吸い込んだり、かさこそと音を立てる落ち葉を踏みしめたり、誰かと他愛ない話をしながらあてどなく歩いたりするところを想像してみた。想像の中の少年は、今の彼自身より幸せそうだった。彼は食事を終えると自分の部屋に向かい、指定されたアドレスにメールを送った。


   2日後の朝9時、ヴェーズ駅にはさまざまな国籍の少年少女たちが集まっていた。オリーブ色の肌に鳥の巣のような縮れた髪の毛をした少年、つるりとした白い顔の赤毛の少女、チョレートバーのようにまっすぐな躰付きの痩せた少年。それらの子どもたちが醸し出す雑多な空気のせいで、駅の一角は空港の待合室のようだった。外部から参加した者も多数いるらしく、あきらには馴染みのない顔ぶればかりだった。その中の何人かはすでに顔見知りのようで、冗談を言って笑い合っていた。彼は急に心細くなった。勢いで参加することを決めてしまったが、果たしてこの状況で楽しく過ごすことができるだろうか。




 その時、誰かがあきらの肩を叩いた。振り返るとそこにはクラスメートの宇轩ユシュエンがいた。彼はそこにいる子どもたちの集団より頭ひとつ分ほど飛びぬけて背が高かった。急いで出てきたのか髪の毛には櫛が通っておらず、そのせいで彼の頭は高山地帯に作りつけられた鳥の巣みたいに見えた。白いシャツの袖からはところてんのように腕がはみ出していた。ジーンズは見るからに着古されたものであるらしく、色褪せ、膝のところが擦り切れていた。背中には小さなナップザックを背負っていたが、彼の背丈と大人びた風貌のせいで、赤ん坊の世話をしている若い父親のように見えた。

宇轩ユシュエンは「Salutサリュ」とあいさつをした。あきらも同じように返事をした。彼はあいかわらず表情の読みにくい細い目をしていたが、あきらは敵陣に味方を見つけたような気持ちになった。
「さっき、ハングを見た」と宇轩ユシュエンが言った。
「え、ハングって同じクラスの?」
彼はちいさく頷いた。
「そっか。よかった。周りが知らないひとだらけで、さっきまでちょっと心細かったんだ」
あきらは正直に打ち明けた。
「あ、噂をすれば…」
宇轩ユシュエンが言い終わる前に、彼らの元へクラスメートたちが近づいてきた。ベトナム人のハングと、スコットランド人のエイドリアンだ。ハングはどんぐりを見つけた小熊のように息を弾ませながら、あきらと宇轩ユシュエンの手を交互に握った。彼はオレンジ色のTシャツにオリーブ色のカーゴパンツ、厚底の頑丈そうなショートブーツという出で立ちで、背中には不格好に膨らんだバックパックを背負っていた。
「何、その荷物。君ひとりで野宿でもするつもり?」と宇轩ユシュエンが尋ねた。
「そんなんじゃないけど、あれこれ考えていたら荷物が多くなっちゃって」ハングが答えた。
「それに比べたら、俺なんて荷物はこれだけだぜ」とエイドリアンが言った。
彼はカーキ色のパーカーのポケットから、ラップフィルムに包まれた薄いサンドイッチと林檎を取り出して見せた。反対側のポケットからは小型のペットボトルが出てきた。
「それから、一応これも」
彼が上着の裾をめくると、ベルトに括り付けられたアーミーナイフが現れた。エイドリアンは無造作にナイフをベルトから取り外し、クラスメートたちに見せた。それは黒く艶やかで、大人しいかぶとむしみたいに彼の手のひらに収まっていた。彼は用心深い手つきでそれを広げていった。ナイフ、コルクせん抜き、カン切り、ピンセット、小型のはさみ、それにマイナスドライバーが手品のように次から次へと出てきた。ハングは口笛を鳴らした。エイドリアンは口の端を吊り上げ、にやりと笑った。彼は亜麻色の長い髪を首の後ろで結んでいて、まるで中世の小説に出てくるヴェネツィアの海賊みたいに見えた。



 誰かが手を打ち鳴らす音が聞こえた。少年たちが振り返ると、駅の入口から少し離れたところにレオナルド・ゴティエが立っていた。彼は紺色のセーターにチノパンツという格好で、頭にはグレーの山高帽を乗せていた。引率教員というより、狩りをたしなみに来た紳士のようだ。ズボンのポケットに手を突っ込み、躰をすこし斜めに傾けるようにして彼は言った。
「おはよう、諸君。参加者は28名ということで間違いないかな?これから出欠を取る。名前を呼ばれた者は返事をするように」
全員分の生徒の名前を呼び終わると、教師はハイキングにおける注意点などを手短に説明した。それから「君たちの行動の全責任は私にある。問題が起こったら、直ちに報告しなさい」と言った。
「まあ、何もないことを願っているがね。君たちのためにも、私のためにも。何かあったら泣くのは君たちだけじゃない。私だって報告書を書かなくちゃいけないんだ。下手したら首が飛ぶかもしれない。ここはお互いのために大人しくしているのが賢明だと思わないかね?」
彼は極悪犯人と取引をする刑事のような調子で言った。それが冗談なのか皮肉なのか、あいかわらずあきらにはよくわからなかった。
 彼らは30分ほど電車に揺られ、コロンジュ・フォンテーヌという小さな駅で降りた。駅前の道路には車がまばらに行き交っていて、空気にアイロンをかけるような静かな音を立てて通り過ぎていった。一行はレオナルドの指示により、モン・ドールの入口につながる小道に入っていった。




 秋の木漏れ日が森の中にやわらかく射し込み、枯葉で覆われた地面に不思議な模様を作り出していた。地面はまだ朝露で湿っていて、うっかりしてやわらかい土の上を歩くと躰ごと沈み込みそうになった。誰かが足を踏み外すたびに、笑い声が起こった。少年たちは注意深く乾いた落ち葉の上を歩きながら、どんぐりを拾ったり、きらきらひかる蜘蛛の巣を掴もうとしたりしながら進んでいった。1時間ほどすると、一行は小高い丘に辿り着いた。
「みんな、ちょっと足を止めて見てごらん」
レオナルドが大きな声で言った。生徒たちは立ち止まり、彼の元に集まってきた。彼らがいる場所から、街が一望できた。丘の麓には、スレート屋根の小さな家々や、こんもりと葉を茂らせたヤドリギがジオラマみたいに広がっていた。その奥の景色は雲間に隠れ、青い波の中にひたひたと浮かんでいるように見えた。その一連の雲のかたまりの向こうに、ひときわ濃く、藍色の線をひいたような稜線が平らに広がっていた。



「あれがモンブランだ」と教師が言った。
生徒たちは目を丸くして教師と遠くの景色とを見比べた。ある者はもっとよく見ようと背伸びをし、別の者は仲間を押しのけて前に進もうとして顰蹙ひんしゅくを買った。
「大丈夫、大丈夫。モンブランは消えないから」
レオナルドは三歩ほど後ろに下がり、生徒たちに場所を譲ってやった。そしてポケットから煙草の箱を取り出し、ライターで火を点けた。彼はいかにもうまそうに煙を肺に吸い込み、ゆっくりと口から吐き出した。まるで山に宿る霊気を体内に取り込むシャーマンみたいに。生徒たちは眼下に広がる景色に夢中になっていて、教師の喫煙に気づかなかった。それから彼は何事もなかったかのように、「さ、休憩しよう」と言った。
「みんな、ランチは持ってきただろう?好きな場所に座って食べていいぞ」
生徒たちは歓声を上げて駆け出し、思い思いの場所にピクニックシートを広げた。



あきら、宇轩ユシュエン、ハング、エイドリアンの4人の少年は木陰の草むらに席を取った。先ほどまで朝露に濡れていた草原は、太陽のひかりに温められてやわらかな緑の絨毯になっていた。彼らの周りに大きな硬い葉が茂り、紫色の果実が少女のイヤリングのように垂れさがっていた。
「これ、何の実だろう」とあきらが言った。
宇轩ユシュエンはポケットから携帯電話を取り出し、ネット検索をしようとしたが電波不良で接続できなかった。ハングは早くもサンドイッチにかぶりつきながら、「さあね」と答えた。
エイドリアンはピクニックシートの上にあぐらをかき、何かの暗号を解こうとするみたいに目を細めてその実を見つめていたが、おもむろに立ち上がり、実に顔を近づけて匂いを嗅いだ。そして厳かな口調で言った。
「これは、ブルーベリーだ」
三人の少年はエイドリアンの方を見た。彼は海賊船の行方を占うキャプテンみたいに、腕組みをして遠くのほうを見据えていた。
「どうしてわかるの?」口のまわりにパン屑をつけてハングが尋ねた。
「子どもの時、親父とキャンプしたことがある。その時に教えてもらったんだ。間違いない。これはブルーベリーだよ」
エイドリアンは有無を言わせぬ口調で言い、ポケットから例のアーミーナイフを取り出すと、紫色の実の鞘の部分に刃を当てた。彼の手のひらに、黒曜石のような小さな実が数粒転がり落ちた。彼はその手を仲間たちの前に突き出した。少年たちは吸い込まれるように紫色の実を手に取り、口に入れた。あきらの口の中で果汁が弾けた。その小さな木の実は、甘酸っぱく、やや渋みがあり、ほんの少し雨の匂いがした。四人の少年は顔を見合わせて微笑んだ。




「食中毒にならないかなあ」ハングが心配そうに言った。
「可能性はゼロじゃないだろうね」宇轩ユシュエンが同意した。
「二人とも、俺の言うことが信じられないのか?これはブルーベリーだって言ってるだろう。それに食中毒なんか怖がってちゃ、一人前の男にはなれないぜ。なあ、あきら」
エイドリアンが力いっぱいあきらの肩を叩いた。
「まあ、どっちみち、もう食べちゃったしね」あきらは肩をすくめて言った。
「それもそうだ」
それから彼らは草の上に寝転がって空を見上げた。目の痛くなるほどまぶしい空に、ミルク色のすじ雲が浮かんでいた。すじ雲は空にはりついているように見えたが、よく見るとゆっくりと動いていた。それは遠くにいる仲間を追いかけていく妖精のようにも見えた。妖精は風に乗って、目に見えないほどのスピードで移動していた。


 その晩、あきらは強烈な腹痛を感じて夜中に目を覚ました。胃は爛れてじくじく痛み、大腸は大火事に遭ったみたいに燃え上がっていた。額には脂汗が浮かび、氷の塊でも抱いているように寒気を感じた。胃腸炎だ、と彼は思った。あきらはフランスに到着してからというもの、胃腸炎に悩まされたことはなかった。そのことは意識の表面にさえ上ってこなかった(何と言っても他に考えることが山ほどあったのだ)。けれど病は消え去ったわけではなく、躰のどこかに潜んでじっと機会を伺っていたのだ。痛みはうねりながら少年をじわじわと苦しめた。まるで腹の底に小さな悪魔が棲んでいて、5秒に1回ほどの割合で大腸を棍棒で突き上げてくるみたいだった。彼は自室とトイレを何度も行ったり来たりしながら、いつこの苦しみが終わるのだろうと切なく思った。




 ふと彼は日本から持ってきた胃腸薬のことを思い出した。彼の記憶が正しければ、それは部屋の机の引き出しに入れっぱなしになっているはずだった。少年は電気を点けるのももどかしく、引き出しの奥の方に手を伸ばし、手探りで薬の瓶を見つけ出した。手に取ると、冷たく重く沈む瓶の感触があった。これだ。間違いない。彼は部屋から出て台所に降りた。コップに水を注ぎ、赤い錠剤を二錠口に放り込んだ。少年は部屋に戻るとしがみつくように毛布に包まり、薬の効果が早く現れるようにと祈りながら眠りについた。

 翌朝、少年は鳩尾みぞおちのあたりに差し込むかすかな空腹感で目を覚ました。時刻は7時半だった。躰は修理工場から返ってきたばかりの車のように元気で、腹痛はきれいに治っていた。どこも痛くない。なんて素敵な気分なんだろう。少年は窓辺に立ち、カーテンを開けた。空は明るくなったばかりで、夜のなごりのように白い三日月がぽつりと浮かんでいた。彼は始まったばかりの真新しい一日を部屋の中で過ごすのはもったいないような気がした。少年はチェックのシャツとジーンズに着替え、ダウンジャケットを羽織ると、音を立てないように階下に降りそっと家を抜け出した。




 通りは清涼な空気で満たされていた。朝の空は少しずつ青さを重ねながら、くっきりとしたスカイブルーになろうとしていた。鳥の毛のかたまりのような綿雲が空のあちこちに浮かび、二羽のかささぎが鋭く鳴きながら空を横切っていった。地面は朝露で濡れており、銀杏の葉が道しるべのように点々と散らばっていた。角のパン屋では、鳥打帽をかぶった初老の男性が店の前の葉をほうきで片づけていた。そうした朝の風景は、目に見えないひかりの粒子で彩られているみたいに生き生きとして美しかった。あきらは躰の細胞のひとつひとつが誰かの優しい手によって丁寧に温められ、洗われてゆくような気がした。ありとあらゆる生命が秋のひかりの中で踊り、燃え上がっていた。そこにそうしていると、アポカリプスも、東京壊滅のニュースも、花憐とのことも、何千年も前に起こったお伽噺のように感じられた。

 彼は笑い出したいような気がした。そして実際に声に出して笑ってみた。腹の底がくすぐったくなるような、何かとても愉快な気持ちだった。彼は駆け出した。道端でパンくずをつついていた鳩が、びっくりして飛び去った。街路樹がきらきらと輝きながら視界のはしに流れていった。彼はとてつもなく幸せだった。もしクリスマスと誕生日がいっぺんにやってきてミッキーマウスが彼のために盛大な花火を打ち上げたとしても、こうまで幸せな気持ちにはなれないだろう。その多幸感ユーフォリアの理由を少年が知ったのは、それからしばらく後のことだった。

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