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犀の角・第一夜 「ひとり」 : ③ 娑婆なう

 今回の企画は、トーク&ライブ。トーク、つまり話すこと。そしてライブは、今回の場合は歌うこと。共通点は「言葉」を介するということだろうか。「言葉」とは一体何か、という問いの答えは面白いことに辞書をひいても分かったような気がしない。試しにやってみてほしい。「言葉」の正体を「言葉」で明らかにしようとするのは、人が自分で自分を認識することができないのと同じようなことなのかもしれない。


「言葉」

 思考のツールである、というのは「言葉」の一つの用法だろう。浄土真宗本願寺派の僧侶である大嶺顕先生は「仏教は思考に始まる」という見出しでこんなことをおっしゃっている。

釈尊の悟りの根本には、徹底的な内省があるのです。それは、自分という我を疑い捨て去るほどの内省です。現代の進歩的文化人がたよりにしている理性は、真の理性と呼べるものではありません。彼らは自分の我を理性と混同していますから、理性自身を疑うような強くてしなやかな理性ではないのです。釈尊の理性は、理性そのものを疑うほどの深く鋭い理性です。そういう自覚的になった理性が、釈尊の解脱(正覚)という前人未到の経験を生んだのです。その教えを伝えたお坊さんたちの場合も同じです。
 だからお坊さんになる人は、もっとものを考えなければなりません。「考えるのはこれでやめて、これからは阿弥陀さまを信じましょう」などと言っていてはだめです。

『科学技術時代の浄土の教え(上)』/ 大嶺顕

 仏教は宗教だ。一般に、日本人が「宗教」と聞いて思い浮かべるのは、カルトと犯罪、戦争、迷信、年中行事、根拠のないもの、作法、困ったときの神頼み、みたいな感じではないかと思う。というか、私がそうだった。

 宗教に、飛躍はある。事実を追えば法則が明らかになるという自然科学に対する姿勢とは明確に異なる。では、命は?命は自然であると同時に、とてつもない飛躍だ。どうして生まれてくるのか、どうしてこのように生まれつくのか。「どのようにして」という仕組みが明らかになっても、「どうして」という根源的な問いの正解を持っている科学者はいるのだろうか。ましてや、自分の命を理解し、納得して生まれてくる者などいるわけもない。


「意味」

 人間は何のために生まれてくるのか、ということを小学5年生の頃から1年半くらいかけて考え続けたことがある。生まれてくることに意味はあるのか。何かあると良いなと思っていたのだと思うが、考え続けた結果、出た結論は「人間が生まれてくることに意味はない」だった。この帰着には、人間が性交によって生まれてくるということを、性犯罪に出くわすことで知った小学生の衝撃が多分に関係していたと思う。今なら、ここからもう一歩進んで「意味」とは何か考えたい。

「意味」とは、言葉や記号などが持っている情報や概念のこと、あるいは、表現や行動などによって示される情報や意図などのことである。言葉は、それぞれ意味を持っている。意味は概念として把握される。言葉は概念を指し示すための手段である。言葉によって指し示される概念は、言葉の意味であるといえる。

『実用日本語表現辞典』

 なるほど、人間が生まれることの意味を探すことは、逆説的にそれを言葉や記号、あるいは概念で規定しようとすることになるのか。しかし言われてみれば、自分であれ、他人であれ、そのようなもの以外の何かだと感じたことがあったろうか。言葉や記号、概念以前に命は存在するというのに。例えば、猫みたいな。言葉を持つとは、情報を持つとは、価値を持つとは、何と不自由なことだろう。この不可逆な桎梏。しかし、この枷こそが、人間を人間たらしめる証だとも言える。なぜなら、私たちは言葉にできないものを存在させることができない。そのように生まれつく生き物なのだから。


「何のために生きているのか?」

 この問いに何と答えるか。正直、特に無い。というか、意志を持って、生まれてこようと思って生まれてきたわけでもないのに、自分を何かのために生きていることにするのは、無理があるように思う。何のためでも無いけど、生きているから生きている。それがとても自然なことのように思える。

 そんな私たちは、一体どこに生きているのか。この世。仏教用語では娑婆(忍土=苦しみを耐え忍ぶ場所)。これを別名、社会と呼ぶ。では社会とは何か。


「社会」

 この語の歴史は意外と新しくて、1875年に英語のsocietyの訳語として新聞に登場したのが最初なのだそうだ。辞書に尋ねると、

1 人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「社会に奉仕する」「社会参加」「社会生活」「国際社会」「縦社会」
2 人々が生活している、現実の世の中。世間。「社会に重きをなす」「社会に適応する」「社会に出る」
3 ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の社会」「海外の日本人社会」「上流社会」
4 共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの社会」
5 「社会科」の略。

『デジタル大辞泉』

とある。

 言葉は、ある意味、願いだ。その言葉を生む何らかの認識、価値、必要によって、生まれる。「社会」という言葉の願いはなんだろう。人の集まり、そこに生まれる諸々を「社会」と呼ぶ、その心は。

 今回、トークゲストの田代誠さんから、事前の打ち合わせで「どんな社会になってほしいと思うか」という問いをもらった。正直なところ、何も思いつかない。年相応に、社会の何たるかは理解しているつもりだ。しかし、「社会」に向けて主張する前提だと、どういうわけか、うまく言葉をつなげない。では一体、寄り集まって何の時間を共有したいのか。ただただ、「ひとり」の人と人として交流したい、ということのように思う。どんな「社会」を見たいのかは、多分その先にある。

 「社会」は、概して水平に展開している気がするが、今や「社会」の垂直は、個人にとってより重要なのではないだろうか。つまり、自分が家族にとって何だとか、どの組織に属しているとか、日本人であるとか、そういったことより、終わりも始まりもないこの世の流れの「ひとり」であるという事実だ。水平な社会はあらゆる境界によって重層的、相対的に成り立ち、面積や座標といった数値的な概念で例えることができる。一方垂直な社会は、あらゆる分別を受けつけない、絶対的で純粋なひとつの点。誰しも、この世の単なる「途中」のひとりだ。歴史の教科書に名前が残る人もいれば、戸籍にすら名前が残らない人もいるかもしれない。そういったことは、水平的には価値や意味の差になるだろうが、垂直な、途中の単純な面積のない点としては、在ることがすべてで、点と点の間には何もない。距離もなければ、差もない。そういう点としての「ひとり」は、お互いに徹底して無関係に存在する。みんな一様に。生きることは、今生きていることだけが全てで、どう生きたって良い。そうすると、それこそ「現実」の「社会」ではこの次に倫理の問題が出てくるだろうが、それはまた別の話。

 仏教は、倫理の問題に答えるものではない。水平でなく垂直の問題に対峙する自分、誰にも関係のない「ひとり」の命、その存在と在り方について考えるための道の名前だ。


「道」

 詩人の長田弘さんが、著書の中でとても興味深いことを示されている。

「初めに言があった」
 その「ヨハネによる福音書」の冒頭の一行が、最初に日本語に訳された江戸時代の古訳は、こんなふうでした。
「ハジマリニ カシコイモノゴザル」
 わたし自身は、言葉とはカシコイモノのことであるというこの古訳がとても好きですが、明治維新後に横浜で訳されて出たという、フリガナが独特の明治訳も好きです。
「太初(はじめ)に道(ことば)あり」
 言葉は、人間にとって道のことであるという。言葉はその通り、人びとの路である道というふうでありたいと思うのですが、今日もっと思いだされていいのは、「カシコイモノ」といい「道(ことば)」といい、そのように言葉のあり方は、繰りかえして確かめられなくてはいけない。それは言葉のいちばん大切な働きの一つだということです。

『読書からはじまる』/ 長田弘


 道は言葉によって道になる。音楽は言葉によって歌になる。言葉を結ぶことで命は存在になる。「ひとり」という言葉は、実のところ、孤独な歩みを意味しない。

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