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調べるクセ・調べないクセ

どうも、今日は久しぶりに献血に行ってきてウェットティッシュ3袋もらってきました。minaraiです。
別にウェットティッシュが好きなわけではないですが、あると何かと便利ですよね。

タイトルではこのようにつけましたが、「調べる(ときの)クセ・調べない(ときの)クセ」について書いていきます。
辞書やスマホを使い、何かを調べるときの話と捉えてもらってかまいません。

今現在、高校生に英語を教える立場にある私ですが、高校生ってこんなに「辞書を使わない」ものでしたっけ?
私の勤務先が偶々そうなだけかもしれません(当然全体的な学力は全国平均以下)が、単語の意味を聞いても「わからない」という返答が来て終わり。

で?

って感じですよ、言わないですけど。
調べないの?
何のために机の上に辞書を置いているの?

調べる生徒でも、単語を引いて、初めに書いてある意味を答えて終わり。続きや他の意味を見ようともしない。
はて。
どうしたものか。
こうやって悩んだときには自分のことを振り返るものです。
私自身はけっこう「調べる」ことに熱中してしまう人間です。
もちろん英語に限ったことではありませんが、そういう人間の根っこの部分での個人差は多少なりあると思います。
しかし、あらかじめ「わからないものは辞書で調べようね」と言っているにも関わらず「わからない」をそのままにしている生徒を見るとどうもモヤモヤするわけです。

……とまあ、こんな愚痴みたいな前置きは終わりにして、本題に入りましょう。

「調べる」という行為について

もし、知らない英単語にぶつかったとき、みなさんはどのように調べものをしていきますか?
段階的に示すと凡そ

①スペルを頼りに英和で当該単語を引く。
②品詞や意味、例文や語用などを見る。
③何かにメモを残す。

というような手順を辿る人がほとんどだと思われます。
また、調べものが好きな人ならさらに、

④接頭辞や接尾辞、語源などを調べる。
⑤辞書の例文だけでなく、実際の書籍やニュース記事などで使われている場面を調べ、英語圏での使用ニュアンスを探る。
⑥日本語訳的な意味に立ち返り、他の日本語の場面で使えないだろうか、他の英単語の組み合わせで言い換えられないだろうかを探る。

⑥までくると英英辞典を使うような人も出てくるでしょう。
さすがに私もなかなか⑥まではやりません。
これだけやれば充実した調べものになること確実ですが、実際は③までできれば十分です。
(④は多くの単語を調べるうちに密かに身につくことでもあります。)

しかし言ってしまえば「調べる」というプロセスはあくまで過程であり、目的ではありません。
あくまでも何かを理解するため、何かを作るためであり、そのために必要なのが「調べる」という行為です。

教育系の人がよく使う言葉にすると、自分で「未知を既知にする」活動とも言えます。
そして、未知を既知にするためにはただ辞書を引けばいいというものでもありません。

残念なことに、私たちの多くは日本語を介することでしか英語を理解できません。
英語で英語を理解できるならどれだけ楽なことか。
別にそれが悪いことだとは言いません。
ただ、使う労力の大きさに甚だしい差がある、というだけの話です。

「調べる」という行為は、1つ、その人の中に言語の芯がないと可能にならない行為です。
言語の芯とはその人が何かについて考えるときに使う言語や言葉のことです。
私たちで言えば多くが「日本語」を芯に据えていますよね。
英単語を調べるという行為はその芯の範疇から思考をはみ出させるような、とても楽しくもあり、冒険的でもあり、想像力が氾濫しそうになる行為です。
あぶないですね。

しかし、日本語の文化圏にいる私たちがいくら日本語を極めようとも、限界はあります。
例えば「carnival」という単語を調べると「謝肉祭」という言葉が出てきます。
ですが謝肉祭の経験のない人たちにしてみたらその「謝肉祭」「しゃにくさい」「シャニクサイ」「かーにばる」「カーニバル」という文字列が何を示しているのか理解に苦しむわけです。
(肉に感謝する祭りのことではありません。)

その文化に親しんだことある人はわかるでしょう。
しかし、いくら日本語で書かれていても、それを体験したことのない人にとっては中身のないただの文字列になってしまいます。

ですがそれでもとりあえずは良いのです。
日本語で言葉のができました。
あとは中身を入れていくだけなのですから。
箱が無ければ中身はバラバラダラダラボロボロになってしまいます。
大事なのは箱と中身、これらがセットであることです。
そして中身のない箱は存在できますが、箱のない中身は存在できないということです。

未知を既知にする活動とか書きましたが、もう少し細かく書くと、何かを「調べる」という行為は「未知→既知→未知→既知」というプロセスを辿ります。
知らないことに出会い、それを芯の言語で無理矢理言い換え、その言い換えたものと調べたこととの概念を一致させ、自分の中での違和感をなくす。
これが「調べる」という行為であり、私たちが無意識的に行おうとしていることです。

「調べない」という行為について

「調べない」ということ、それはある意味マゾ的な、自分への挑戦です。
「あえて」調べないなら、という条件付きですがね。
辞書で調べることが外部的に貯められた知識を引き出すことだとすれば、「調べない」ということは内部に貯められた知識・記憶の掘り起こしです。

知識や記憶の掘り起こしにおいて、あるものだけをピンポイント的に取り出すのは容易ではありません。
芋づる式という言葉のように知識・記憶は掘り起こされることがしばしばです。

最近やったことで言えば、授業で「decrease」という単語を取り上げた際に思い浮かぶのは対義語のincreaseであるとか、de-,in-というような接頭辞関連、デクレッシェンドやクレッシェンドなどの音楽記号、三日月(crescent moon)……のようなもので、一種の連想ゲームとも言えるでしょう。

これらが何も見ずとも語られるとき、それらの知識・記憶が当人に内在していると言えます。
言わばそれらの言葉や概念がその人の血肉になっているのです。

記憶の引き出し、というような言葉にもある通り、人々はたくさんある引き出しからある知識・記憶を探し出そうとします。
この手の話で言えば最近は、ワーキングメモリやキャパシティ的な視点から「テーブルの大きさ」による例えもなされているようですね。
まあ、どちらでもいいです。
大事なのは手当たり次第に片っ端から引き出しを開けたりテーブル上のものをひっくり返したりするのではなく、ある程度その知識・記憶のしまっている場所に見当をつけ、それらに関連する事柄も同時に思い返すということです。
よく使うものは見つけやすい位置に置き、よく関連付けるものは近くの引き出しに入れておく。
自分の中でそのような整理整頓をしていくことも、「調べない」ためのステップです。

「調べない」ために調べる
「調べる」ために芯を強くしておく
「好奇心」を自覚するためにわかること/わからないことを区別しておく
「区別」のために多くのものにふれる
「ふれる」ために好奇心のアンテナを張っておく

このように「調べる」と「調べない」はつながっています。
物事を知ろうとする自分と、知っている自分をメタ的に認知していきましょう。
それが次への好奇心のステップとなります。
そして言葉は面白い。
概念の操作ができるだけでなく、概念同士のつなぎ合わせも、概念の破壊も、概念の創出も可能になる。
言葉は大事にしていきましょう。
いや、大事にというより、「芯」と「芯でない」部分の境界線をもっと曖昧に、連鎖的に、広げていきましょう。

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