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読書日記:『世界は夢組と叶え組でできている』との話

 桜林直子さん著の『世界は夢組と叶え組でできている』を読んでいる。桜林さんのことはTBSポッドキャストの『となりの雑談』という番組で知った。私は番組開始当初からのリスナーなので、1年ちょっと前のことだ。ご著書のこともちらちらと話題に出ていたので気になっていたのだが、なんとなくタイトルから「私にはまだ早いかもしれない」と先延ばしにしていた。その感覚はたぶん間違っておらず、今だからこそ咀嚼できる内容だと感じている。

 こんな感想を書くと、何やら難しいところのある本なのかと誤解する人がいるかもしれないので、これはあくまで私の道程に照らし合わせたタイミングの話だと断っておく。桜林さんの使われる言葉は分かりやすく、読み手への優しさを感じさせる文章だ。私がためらっていたのは、この本が私の抱えている課題の芯に触れるのではないかという直観が働いたためである。要するに、痛い腹に差し込む可能性にびびったのだ。そこから1年ばかり、自分なりに何やかんやと行動してアップデートを続ける中で、もう大丈夫な気がした。解決したのではなく、そろそろ向き合う準備ができているという意味で。

 本の内容を要約して紹介することは、ここではしない。読書を対話と捉えるなら、やはり著者のオリジナルな文体を、各々の読者が好きなテンポで読むことが大切だと思うからだ。
 まだ読み終わっていないのだが、これから自分にとって作業が必要だと感じたところがあったので、ここに書いてみる。それは私が「いや」なことを、正しく知り、認めることだ。

 ふと思い出す、子どもの頃のワンシーンがある。通っていた学童保育から、近くの空き地に遊びに行った時のことだ。私は当時、ヨウシュヤマゴボウの実を集めるのに夢中だった。有毒なので決して食べてはいけないが、小さなブドウのような実が可愛らしく、ビニール袋いっぱいに集めてはほくそ笑んでいた。
 そのうちに私は何か別の遊びに誘われたのだったか、実を詰めた袋を持っているわけにいかなくなり指導員の先生に預けた。しばらく経って先生のもとに戻ると、何やら申し訳なさそうな顔だ。「〇〇ちゃん、ごめん」と先生は私に言った。私の集めた実は、袋の中でぐちゃぐちゃに潰れていた。聞けば、やんちゃな男子が面白半分に潰してしまったのだと言う。私はほぼ反射的に「まぁどうせ後で潰すつもりだったし」と答えた。すると先生は少し可笑しそうに「〇〇ちゃんはそう言うかなと思ってた」と言った。
 大事な実を潰されたのを根に持っているという話ではない。実際、潰して絵の具代わりにするような遊び方もしていた。ただ、最後の先生のひとことと表情に『あれ?』と思ったので今でも印象に残っている。『私の返答はしごく一般的なつもりでいたのに、もしかしてそうではないんだろうか』という『あれ?』だ。
 私はほぼ自動的に「どうせそのつもりだったし」と返答することで、先生の表した申し訳なさも男子のイタズラ心も無効化しようとした。同時に、おそらく自分自身の落胆や不満も、湧き上がる前にサッと消してしまったのだろう。
 そして先生の言葉から想像するに、きっと当時の私は他の場面でも似たような反応をしていたのだ。普段から私たちの個性をよく見てくれている先生だった。だから私の反応に、やっぱりか、と笑ったのだと思う。

 この無効化スキルには良いところもある。すぐ諦めてしまえることで、不測の事態においてもそれなりに落ち着いて、できることを考えられる。大抵のことでは怒ったり責めたりしないので、たとえば上手くいかなかった仕事について相談を受けるときも、相手に安心感を与えることができる。
 ただ、あまりに自動的に無効化スキルを発動させてしまう癖がついていると、弊害もある。私の場合は、自分にとって何が嫌なことなのか、何をされたくないのか、その解像度が低いままの大人になってしまった。
 「解像度が低い」というのは、嫌だという気持ちを「感じない」のとは異なる。なんだか嫌だなぁとは思うのに、何が嫌なのかが明確に掴めない。得意のスキルを発動しようとしてみても、対象がはっきりしないために今ひとつ効果がない。ややこしいが無効化が無効になってしまう。

 そもそも自分の気持ちにぴったりとハマる言葉を見つけるのは、かなり骨の折れることである。確かに自分の中にあるものなのに、捕まえる言葉がないというのは、もどかしくて苛立つこともある。
 そのような時、たとえば「嫉妬」や「承認欲求」などのよくある言葉を使えば、何らかの真実を分かった気にさせてくれる。一旦そのラベルを貼って仕舞えば、それ以上は中身を吟味しなくても済む。便利なレンタルスペースだ。
 ためしに未分化なモヤモヤにそのようなラベルを貼ってみたことがある。私は「なるほど、これをそう呼ぶのか」と思う一方で、「そんな簡単なものだけではない」とモヤモヤが膨らむことを体験した。自分自身の悲しみや怒りに囚われてしまえば人生を暗く塗り込めてしまうこともあるので、できれば仮であっても「封じの札」を貼って遠ざけておこう、というのもあながち間違いではないだろう。ただ、やはり大量印刷した護符ではご利益もそれなりなのだ、なんてうそぶいてみる。

 時間はかかるだろうが少しずつでも、自分にとっての「いや」を丁寧な言葉で捕まえていきたい。「いや」は「本当はこうしたい」とペアになっているからだ。それを知ることでより自由に、私自身と周りの人を大切にできるような気がしている。

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